科学史を見る眼(「物理学史 I」の「はしがき」より)

 

本書では,16-17世紀における近代物理学の成立から20世紀の20年代,量子力学の成立までの物理学の歴史を,あまり専門的な詳細には立ちいらないで概説する。量子力学成立ののちの現代史は,それぞれの諸分野についての書物で述べられる内容と重なり合うところも多いと思われるので,本書では詳しく述べることをやめ,最後の章で現代物理学の一般的趨勢について触れるにとどめた。

執筆にあたっては,物理学史の最近の研究成果をできるだけとりいれることに努めたほか,とくに次のような点に留意した。

まず第一は,可能なかぎり原典にあたり,原典にまで手の及ばなかったものは信頼のおける研究書・論文に依拠して,すべての叙述を確実とみなされる史実に基づかせるよう努力したことである。従来語り伝えられている物理学史には,しばしば単なる推定にすぎないことや,過去の事実を今日の頭で解釈したための思い違いなどが,いたるところに含まれている。本書では,それらの伝説や間違いをできるだけ正したいと考えた。

しかし,ただ史実を詳しく,しかし単調に叙述するだけでは,科学史として十分でない。いろいろの事実が何を契機として生じ,互いにどのように関連しあったのかを明らかにし,諸事実に歴史的な意味づけを与えてゆかなければならない。そこで本書では,ある発見や研究について述べるときは,どういう動機で,またいかなる意図のもとにそういう問題がとりあげられたのか,また,その研究を進めるとき根底にあった考え方はどのようなものであったか,というような点にとくに注意を向けた。そしてまた,研究の結果が,当時の人々にどう受けとられ,どのように定着していったかということを,その研究が客観的にもった歴史的な意義とともに,忘れずに述べることに努めた。

第三に,個々の分野について述べるだけでなく,それぞれの時代の物理学の大きな特徴・趨勢をも明らかにするようにした。歴史は,個々の過程の単なるよせ集めではない。個々の過程は,全体と関連づけることによってのみ,その真の意味が明らかになるのである。しかし,時代の趨勢や思想の大きな流れと、個々の分野についての研究の展開過程とを、融合させて叙述するということは,なかなかむずかしいことである。

前者のためには一つの時代を全般的に横に概観することが必要であるのに,後者のためには,特定の問題だけを追ってある期間を縦に見てゆかねばならないからである。

本書では,理想的な解決とはいえないけれども,一つの試みとして,2種類の章を交錯させることにした。一つは時代の趨勢を概観する章で,節に分けずにひと続きに書いてある第1,4,6,11,16章がこれである。これらの章だけをつないで読めば,物理学の歴史の大きな流れについてのおおよその観念が得られるであろう。また,これらの章では,そういう物理学の趨勢の推移の背後にあった思想の動向や社会的要因についても,大ざっぱに触れておいた。これら以外の,それぞれいくつかの節に分かれた章は,個別の分野の発展を述べることにあてられている。

最後に,現代的な観念を過去に投影することなく,それぞれの時代をその時代に即して内在的に理解するように努めた。いいかえると,過去の事実をその時代の人々の脳裡に映じた姿でとらえ,その時代にそれがもった意味を正しく見極めることを目標とした。このことは,一般に歴史叙述にとって最も大切な注意事項であり,物理学史,あるいはもっと一般に科学史が歴史を研究しようとするものである以上,当然この歴史叙述のイロハを無視してはならない。しかも,このことは科学史の揚合とくに重要である。というのは,法則とか定理という形に定式化された科学的認識の結果は普遍的な妥当性を要求するために,こんにちのわれわれが教科書や講義を通して知る法則や定理が,それを初めて見いだした人々にも、われわれと同じような仕方で理解され,意義づけられていたかのように,つい思いこんでしまうからである。しかし,実際はそうでなく,人々はそれぞれの時代の手持ちの材料を使い,既存の思惟の枠組に縛られながら,それらの認識に達したのであり,したがって,それに対してはじめからわれわれと同じ理解をもつなどということはありえなかったのである。そういう歴史的な制約を通して,その制約をうちこわすにいたる認識が形成されてくる過程を分析することにこそ,科学史の意義がある。

そういうわけで,科学史の研究にあたっては,他のあらゆる歴史学の分野でそうであるように,その時代の1次史料の分析がすべての議論の基礎にすえられなければならない。史料の山に埋没してしまってはならないという,それ自体としてはまことに正しい警告を逃げ口上に,史料を無視することは許されない。たとえば、一つの法則の発見について論ずるには,その発見者自身の論文や著書,それも発見当初の生まのもの(論文になる以前のノートや草稿が見つかればさらによい)の検討が基礎におかれねばならない。問題の法則や定理をこんにちの教科書にある形に表現したうえで,それについて物理学的にいろいろな論理的推論を加えて,その発見過程なるものをこしらえあげるというやり方は,歴史の研究ないし叙述においては、絶対避けなければならない。そういうフィクションによっては,物理学的認識を進めた歴史的契機を明らかにするという目的は達せられない。

本書ではこのような観点から,個々の業績の中身を少し詳しく紹介するときには,多少の読みにくさはあえて覚悟のうえで,概念や推論の筋道はもちろん,式の形や記号にいたるまで,できるだけ原典に忠実であることを旨とした。それは,表現形式というものはそれが包含する思想内容から簡単に,機械的に切りはなされるものでないと考えるからである。もっとも,本書は特定の専門家に向けて書かれたものでないから,偏微分記号やベクトル記法に関しては,読みやすさについての考慮から,本質をそこなわない範囲で現在の慣用のように書き直した。また,物理量を表わす文字などで、こんにちの慣用とまぎらわしいものを適当に改めた個所が二,三ある。たとえば,Eulerが落下物体の速度を論じているところで,落下の距離をvと書いているのをhと直したのがその例である(5-3)

しかし,議論の展開はすべて原典のとおりを(要約して)再現することにつとめた。それらは,現代の洗練されたものとくらべるとゴタゴタとしてわかりにくいことが多いけれども,それだけに,新しい認識の展開がいかに苦渋にみちたものであったかが,そこから読みとれるであろう。

以上に述べたのは,本書を執筆するにあたって目標としたところであって,はたしてそれがどこまで実現されているかについては,いうまでもなく,読者の忌潭のない批判をまたなければならない。また,本書全体として時代や分野の偏りを避け,叙述につり合いを失せぬように心掛けたけれども,物理学史の研究がまだ全般にわたって十分に進んでいないという現状のもとでは,時代や分野によって精粗のムラが生ずることを避けられなかった。この点でも読者の批判と寛恕を請わねばならない。

 

(広重徹、「物理学史I」培風館、1968.「はしがき」より)