訳者はしがき(フック著「ミクログラフィア」への)

この本は,ロバート・フックの主著『ミクログラフィア』(1665年刊)のうち,とくに現代でも注目するに値すると思われる部分を選びだして翻訳したものです。

科学史の通史を書いた本の中には、たいていこの本への言及があって,しかもその場合、書名が『ミクログラフィア』と片仮名で書かれることが多いので,ミクログラフィアという言葉はもうすでに日本でも親しみ深いものとなっています(フックのこの本を念頭において,自分の著書に『ミクログラフィア』という書名をつけている人もいるほどです)。しかし,はじめてこの本を手にとる読者の中には「『ミクログラフィア』では何のことかよくわからない」という人もいることと思います。そこで本書には日本語の副題をつけることにしました。これまでこの本の書名を訳したものをみると,『顕微鏡図説』といった書名が多くつかわれているようです。そこで一時は本書の副題も「顕微鏡図説」にしようかと考えたのですが,「微小世界図説」と改めることにしました。「顕微鏡図説」という題名だと,本書についてこれまで多くの人びとが抱いてきた誤解を固定化する恐れがあるからです。

じっさい,科学史上の古典の中で,この本ほど有名で,しかもろくに読まれもせず,その内容を誤解されてきた本は少ないようです。そして、その誤解は,この本を「顕微鏡で観察したことを記録した本」と理解することに発しているのです。

もしこの本が「顕微鏡で観察したことを記録しただけのもの」であるなら,本書に収められたたくさんの図版をながめただけで,ほとんどその内容をうかがうことができるでしょう。じっさい,そう考えてこの本を手にして図版にざっと目を通してみた人は少なくないようです。また,かりに本文を読もうと思っても,原本の文章はセンテンスが長ったらしくて,とても読みにくいのに閉口した人も少なくないことでしょう。そこで,「本文を読むのはちょっと大変だ」ということで図版だけに目を通すと、「この本でとりあげられているテーマはまったくアトランダムで,手もとにあるものを片っ端から顕微鏡で見て,それを図に描いて記録しただけ」といった印象しか残らないことになります。それでも,その多くの図版の中に、今日なおとくに注目するに値すると思われる図をさがすと,「コルクの細胞を記録した図がのっているだけ」といったことになってしまうのです。そこで、たいていの科学史の本は,「『ミクログラフィア』は科学史上とても有名な本だが,その内容はたいしたことない」といったことしか書いてないことになるのです。

この本を手にしたことのない人が,誰かの話を受け売りでそう書くのなら仕方ありませんが,じっさいにこの本を手にして、その図版だけをていねいに見て,それで本書に「ざっと目を通した」という気になった人がそう書くのですから,誤解がなかなかとけないわけです。

『顕微鏡図説』というと,多くの人びとは「これは生物学の本だな」と思います。今日「顕微鏡観察」と名のついたような本を見ても,それはたいてい生物ないしそれに鉱物を加えた博物の観察を記しただけのものが大部分なので,多くの人がそう考えるのはもっともなことともいえます。実は、はじめ訳者の一人(板倉)もそう思っていたのです。しかし,ある時イギリスの物理学者ブラッグの書いた本の中に,フックの分子運動についての見事な論証がのっているのを見て驚きました。そして,「フックはどこでそんな議論を展開しているのだろう」と探しまわって,ついに『ミクログラフィア』にたどりつき,考えを新たにすることになったのです。

分子運動論は図になりませんから,その部分には図がありません。文章ばかり続いているところで,フックは分子運動論や分子間力の理論を、いろんな事実や実験をもとにして生き生きと論じているのです。

もともとロバート・フックという人は,生物学よりもむしろ物理学を得意としていた人なのです。そして,この『ミクログラフィア』でも、生物分野よりも物理や化学の分野のほうに注目すべき内容がたくさん盛り込まれているのです。物理や化学の関係者は『顕微鏡図説』という書名ではなかなか手にとろうとしないので,この本の真価が見逃されてしまったというわけです。そう思ってこの本を見ると、「手当たりしだいにいろいろなものを観察しただけ」などとは到底言えないことがわかります。とても体系的に,顕微鏡では見えないような微小世界を含めて,私たちのまわりの全ての自然物・自然現象がとりあげられているのです。有名な細胞の発見も、偶然の結果ではないのです。そこで,この本の訳名も『顕微鏡図説』とせずに『微小世界図説』としたわけです。

また、抄訳に際しては,その訳名にそって,物理や化学に関する部分を多く訳すことにしました。そのかわり,本文を訳さないところには,原書巻末にあるTable (詳細目次)を訳出して本文中に挿入し,それで本文の内容のあらましをうかがい知ることができるようにしました。また図版だけは全部収録して,フックがどんなものを観察したのかわかるようにしました。原本は20×30cmほどのとても大きい本ですが,それでも多くの図版はその本の大きさよりもずっと大きく描かれています。これらの図版はそのままの大きさでコピーしたかったのですが,そうするとこのような小型の本ではかえって扱いが不便になります。そこで,本書の大きさでは入りきらない図版は、しかたなく縮小してのせることにしました。そして,原本の図版の大きさを推察することができるように,ノミの図版(本文「観察53)だけを、折り込みで加えることにしました。本書とは別に、図版だけを原寸大で複写した本も作る予定ですので,そちらも御利用下さい。

ところで,原本の序論はとても長いのですが,科学方法論上からして興味ある問題が論じてあります。しかし,この部分は具体的な事実の観察・実験からかなり離れて抽象的な議論をしているところが少なくないので,かなり読みにくいところが多いと思います。ですから,この序論はむしろ後まわしにして,本文から読みすすんでいただけるとよいと思います。

板倉聖宣

永田英治

 

訳者あとがき(フック著「ミクログラフィア」への)

この本を訳すのは大変な仕事でした。この本は1665,つまり今から300年以上も昔に出版された本ですから,文体が古くて、ことばも今日のものと違うものが少なくない上に,フックの文章がとても難解なのです。フックは,文章を書きながら思いついたこと,知っていることを、全部書きこんでおきたいという気分が強かったに違いありません。やたらに文章が長くなって,途中で知らぬ間に主語がかわってしまっているのに気がつかない,といったところも少なくないのです。今から考えると,「よくもまあ,こんな難解な英語を訳出したものだ」という感じがします。

そんなわけで,この翻訳にはとても長い時間がかかりました。途中で長く休むこともなく,毎週1度ぐらいは二人で難解な文章にとりくんで、4年半もの年月がかかったのです。はじめは、もっと短時間に訳了するつもりでした。ところが「文章が思ったより難解だったため」というよりも,その難解な文章を読みほぐしていくと,思ってもみなかった面白い話がたくさんでてきて,「これも訳そう」「この部分も読んでおこう」というので,訳出する部分がどんどん増えていってしまい,それで時間がかかったのです。はじめの計画では,ここに訳出した文章の半分くらいを訳しただけですまそうと思っていたのが,これだけの分量になってしまったわけです。

こういうと,「抄訳でなく,全訳してほしかった」という人がいると思いますが,(板倉)は「たとえ時間があり能力があっても全訳はしない」というつもりでした。全訳して出したら本の値段が高くなるばかりか,やたらに部厚い本ができて手を出すのもおっくうになります。それで「その部厚い本のどの部分が、今日とくに興味深いか」探すのが大変になり,結局のところ「まったく読まない」ということになりかねないからです。

もっとも,ここに訳出した部分のほかにも、まだ訳しておきたいと思えるところもなくはないので,「今回はこれで断念した」ということもあります。省略したところも概要だけは訳出しておきましたので,とくに関心のある方は原書にあたってくださるとよいと思います。 

私たちも今後さらにもう少し詳しく読んでみて,いつか余力があったら,「この訳書に増補して、もっと役に立つようにしたい」とも考えています。しかし,今のところはこの訳書をみていただければ,ロバート・フックという人はどんなに想像力のたくましい人であったか,驚かされるに十分だと思います。

じっさい,「この訳書の最大の意義は,ロバート・フックという人の想像力のたくましさを知ることにある」といってもよいと思います。フックの名は,これまで「弾性(ばね)に関するフックの法則」の発見者、または「細胞」の最初の発見者として知られるほか,「たえずニュートンと先取権争いをしてニュートンに嫌われた人」として有名だったりするのですが,私はニュートンよりフックの想像力のたくましさのほうに強くひかれるのです。

もっとも,「フックという人はどんなに想像力が豊かで好奇心が旺盛だったか」などということを知っても、今日の私たちには何の意味もない,という人がいるかもしれません。しかし,考えてもごらんなさい。フックの時代はギルバートやガリレオなどのおかげで近代科学の研究がはじまったばかりで,実験装置といえば今の小中学生でも手にしうるような望遠鏡や顕微鏡,温度計などしかなかった時代なのです。数学だって微積分法もまだで,やっと代数と解析幾何学が使えるくらいの時代だったのです。つまり,今の小中学校程度の数学的知識と,少し科学好きの小中学生なら自宅にもっている程度の実験器具だけをもとにして,これだけのことを研究し考えていたのです。

ということは,この程度のことは,今の小中高校生にも教えられるということです。「原子とか分子などはまったく見えなくても,このくらいのことは考えられる」ということなのです。私がこの本に強くひかれたのは,まさにそういうことを知りたかったからなのです。「小中学校程度の数学と実験だけで、どれだけのことが研究しうるものか」を知るには,ロバート・フックのこの本がもっともすばらしい見本を示してくれる、と思ったからです。

「はしがき」にも書きましたように,この本は「身近にある雑多なものを思いつくままに顕微鏡で観察し,図に記録しただけのもの」と誤解されてきて,とても低い評価しか与えられてこなからたわけですが,フックがその顕微鏡でいちばん見たかったものは、原子や分子そのものだったような気がします。結局、原子や分子は見えなかったわけですが,フックはそれでもその関心を捨てきれず,この本の最初に毛細管や分子運動論の生き生きした話を書いているのだと思うのです。この本の図版を眺めただけだと,「最初に顕微鏡を手にした人なら,だれでもこのくらいの観察はできる」と思う人がいるかもしれませんが,けっしてそういうことはないのです。

ガリレオは望遠鏡を自分でつくって,それでもって天文学上の大発見をしました。しかし,「だれだって最初に望遠鏡を手に入れれば,そのくらいの発見はできる」と思うと大間違いです。いや、「頭のいい天才ならば」と限定してもダメなのです。じつは,ガリレオは顕微鏡もつくって微小な世界ものぞいているのですが,こちらでは細胞はもちろんのこと,何も発見していないのです。ベネチアの元老院のお偉方たちは,ガリレオのつくった望遠鏡をはじめて手にして,遠くからやってくる船や人間を見ただけでしたが,ガリレオも「顕微鏡でみるとアリが巨大に見える」と驚いただけだったのです。いくら頭のよい人でも,とくにチャンスを得てすぐれた問題意識をつかまないと,すばらしい実験道具を手にしても、おいそれとそう大発見ができるものではないのです。

ロバート・フックの伝記をはじめとする、やや詳しい「フック論」といったものは,すでに書きあげてあります。じつは、それは『フックの弾性の理論』の翻訳にのせるつもりで書いたので、ここにはのせられないのです。その訳書も、ボイルの『気体の法則』と合わせて一冊にして、本訳書と同じシリーズとして仮説社から出版を予定しているのですが,今のところ思わぬ故障が生じて完成がおくれているのです。遠からず陽の目を見させたいと思っていますので,そのときまでお待ちくださるようお願いします。

この本の訳出に、すごく長い時間がかかったことについてはすでに書きましたが,この本の訳出は、次のようにすすめました。まず、はじめに永田が大ざっぱな下訳をして,それをもとに板倉が永田と頭をつき合わせて,辞書をひき直したり話しあったりしながら,一語一語検討して全面的に訳しかえていきました。文章が難解ということのほかに,出てくる事柄について私たちがよく知らないことも少なくないので,それで内容を理解するのが容易でなかったわけです。それだけにまたこの過程でいろいろなことを発見できて楽しい思いをしました。

こうして,はじめ訳出を予定したところをひと通り訳しおえたのち,その他に訳しておいた方がよさそうなところに目ぼしをつけ,その部分も同じようにし,訳出しました。こうしてひと通りの訳文ができたあと,また二人で,すらすら読める日本語に訳し変える作業をすすめたのですが,これも大変な仕事でした。わかりやすい日本語にしようとすると,内容の理解が改めて問題になり,いろいろな本を調べ直したり,観察してみたりすることが絶えず必要となったからです。その間に,また新しく訳出したいところがでてくることもありました。結局,どの文章も一語一語34回は訳し変えてこの形になったわけです。そのため、ずいぶん読みやすくわかりやすくなったと思います。しかし,英文の解釈のほか事柄の理解のうえでも、思わぬまちがいをしているところがあるかもしれません。気のついたことがあったら、御教示くださるようお願いします。

板倉聖宣

永田英治

 

(ロバート・フック「ミクログラフィア、微小世界図説 ―顕微鏡を使って観察研究した微小物体についての自然学的な記述―」、仮説社、1984, ISBN/JAN 9784773500530より)

 

なお、訳書「ミクログラフィア」の「序論と本論からの抜粋」は、次のページに掲載されています。

http://www.geocities.jp/hjrfq930/Science/nyuumon/nyuuhookmic.htm