室温核融合の怪、科学者の規範は崩れつつあるのか

二年前、1989年の3月の末に、アメリカの田舎()大学、ユタ大学の電気化学の教授ポンスが、共同研究者の英国のフライシュマン教授と共に、室温核融合の実験に成功したと発表して、世界中を騒がせた。何しろ、太陽の中心部にまさる高温、一億度の超々高温でなければ起らないとされて、その高温を作り出すための装置作りに何千億円の金を投じても、三十年経って未だに成功していない核融合が、実験室の机の上で、できたというのであるから、このニュースは人々をびっくりさせるものであった。この二人は、「重い水」つまり、重水素と酸素の化合物を電気分解して、パラジウムの電極の中に重水素を、ぎゅーぎゅー押しこんだのである。パラジウムなる金属はもともと水素を大量に吸蔵する性質があることが知られている物質で、パラジウム原子の数と同数程度の水素原子が入る可能性がある。こうして重水素の密度が高くなり、その原子間の距離が近付けば、あるいは核融合が起りやすくなるのでは、という発想は、それほど悪くなかろう。それにミュー中間子を利用する「極低温核融合」の現象が昔から知られていたのである。これは、普通の電子の代りに、陰電気を帯びたミュー中間子が、二つの重水素核を結合して、「ミュー水素分子」を作るのであるが、ミューの方が電子より百倍も目方が大きいので、その作る水素分子は百分の一の大きさで、二つの重水素核の間の距離が非常に狭くなる。そのために、核融合がいわゆるトンネル効果で起りやすくなるのである。残念ながら、ミュー中間子を作るのには、大加速器が必要であるし、それに実に短い寿命で消えていくものなのである。

こういう背景があるので、ポンス・フライシュマン効果には、追試実験をする人が、世界中に一杯現れ、日本でも大流行となった。ある人々は、核融合に伴う中性子の発生を認めたが、大部分の追試者は、何も出てこなかったと主張していて、どうも評判が芳しくない。もっとも、出ないという主張もあまり説得力がない。実験のやり方がまずかった、というだけのことかも知れないから。

ポンスたちの実験が眉唾ものであることは、その発表の仕方にあった。『ネーチュア』という世界的速報誌に掲載するはずで、確かに投稿されたのは事実だが、レフェリー(論文校閲者)に見せると言ったら、ポンスは論文をとりさげてしまった。そして、実際に論文が掲載されたのは、サーキュレーションの悪い電気分解専門の雑誌であった。

どうして『ネーチュア』のレフェリーを拒否したのか。どうやらポンスには弁護士がついていて、ポンスの論文が生み出すべき巨額の利益を擁護することが、その務めとなっているらしい。何もかも公表してしまうと、公知の事実となってしまって、特許がとれなくなる。学界への発表に際して、弁護士としては、慎重であるべきだと考えている風にも見える。『ネーチュア』誌の編集者は、このいきさつから、ポンスらは、学界の規範も知らない、風上に置けない人物だと見なしているようである。

弁護士ばかりでなく、ユタ大学の周辺には不思議な人たちがいるらしい。ポンスのためにか?州が金を出して、核融合研究のためのナショナル・インスチチュートが設立されたが(ナショナルという形容詞は、アメリカでは連邦政府が設立したものという意味だと思っていたが、この場合は違うらしい)、その所長はポンスではなく、科学者でもないらしい。19903月、「発見」一周年記念の集会に出席した日本の核融合科学研究所(これは歴とした国立)池上英雄教授は、ポンスの周りには利権漁りの人たちがうろついていて、学問の話を複雑にしていると言う。一方、10月に開かれた正式の諮問委員会には肝心のポンスが姿を見せず、彼は夜逃げをしたという噂もひろがっている。

にもかかわらず、ポンスらは物理学界に一つの大きな刺戟を与えたことは疑いない。去年の秋に開かれた「仁科芳雄生誕百周年記念シンポジウム」に出席、講演した高名の理論物理学者(朝永振一郎さんと一緒にノーベル賞をもらった)シュウィンガー教授は、「この話を頭から否定するのはまちがいだ。出てきた実験事実なるものをまともに受けとって、それを理論的に分析すべきだ」と主張しているが、筆者も同感である。科学研究とは、もともとごちゃごちゃしたものの中から、簡単な自然の筋書きを読みとることなのだから。

[『潮』19913月号]

 

ラジウム温泉はやはり効くのか、低線量放射線の効果をどう見るのか

鳥取県の三徳川流域にある三朝(みささ)温泉は、ラジウム温泉としてよく知られている。そのすぐ南には、戦後開発された人形峠のウラン鉱山がある。昔、三十年ほど前のことだが、岡山大学附属の温泉研究所というのがあって、私の高校時代の友人大島良雄さんが所長だったので遊びに行った覚えがある。

その温泉研究所が、今は看板を塗りかえて「環境病態研究施設」と「地球内部研究センター」とになっている。大学附属研究所の数を減らさざるを得なくなった文部省の役人の小細工であろうが、一つには原子力時代に入って放射線に皆が神経質になり、ラジウム温泉という言葉をできるだけ消したかったからであろう。ラドンは稀ガスの性質を持ち、化合物は作らないが、水によく溶ける。それで温泉に溶けて地上に達し、空気中に放出される。三朝の特別な「環境」というのは、この温泉中および空気中のラドンの濃度が高いという点であるから、それを吸ったり、浴びたりすることが、健康にどう影響するかを研究するのが、研究所の役割なのである。

その元研究所長から最近論文を送ってこられた。後継研究者の一人御舩(みふね)政明さんを中心とするグループの研究成果である。低線量放射線の影響を調べるのは非常にめんどうなものである。この現象が統計的であること、とにかく起こる率がきわめて小さく非常にたくさんの事例を集めなければならないからである。御舩さんたちは、三朝町内の三朝地区と周辺地区に住む人たちの三十二年にわたる死亡者の死因を調べて、癌による死亡例の数を比較した。その結果は、普通いわれている放射線の影響予測とは反対に、ラドンのみなぎっている三朝地区の方が、癌の死亡例が少ないことになったのである。三朝の方が、胃癌による死亡例が、周辺地区に較べて六割、肺癌で五割、直腸癌で三割にしかならない。

普通の考え方では、放射線は少しでもあたらない方がよい。実は非常に低い放射線の影響については、実験データがほとんどないから実は何も言えないはずであるが、強い放射線の場合から推量して、線量が千分の一なら効果も千分の一になるだろうという、あて推量でものを言っているのである。このあて推量が、ラドンによる場合にはあてはまらない。ラドンは放射性物質として、少しでも癌を誘発する原因になるとしてきたのはまちがいで、どうやらラドンは癌の予防になるかも知れないというデータが出てきたことになる。

このように極低線量の放射線が、害どころか、かえって有益だという説は昔からあって、「ホルメシス」と呼ばれているのだが、一般には信用されてこなかった。御舩さんたちの研究成果はホルメシスの可能性を、一歩前進させた。大島さんはラジウム温泉に医療的効果があると信じていたので、彼の後継者がそれを実証したのを心から喜んでいる。

多くの人は、そんな小さな効果の話はどうでもよいと思うかも知れない。今日の日本では毎年一万人以上交通事故で死んでいるが、多くの人が自分だけは事故にあわないと信じているらしいからである。十万人に一人の割合で放射線障害が起こると言われても、個々人としては、そうですかと言うだけだろう。しかし行政家の立場からはそうはいかない。それで欧米では、過去において無視してきたラドンの家の中の濃度に神経をとがらし出し、洋風家屋内の通風をよくするように奨励し、補助金まで出そうとしているという話である。御舩さんたちの論文では、アメリカの環境保護局がそのために彪大な予算を組んでいることに着目し、もし低線量放射線の効果が、三朝温泉で認められたような逆の効果であるならば、それは大変な無駄使いになるだろうと警告している。日本では、ラドンの実情がどうなっているのか調査中だと思うが、この話はラドンだけではなく、放射線障害一般の話なのである。

[『潮』19925月号]

 

寺田物理学の周辺―統計現象をめぐって

1932年東大物理三年生のとき、寺田先生の講義があるというので、聴講した。そのときに始めて先生にお目にかかったわけであるが、新聞雑誌で先生の名前に絶えず触れていたので、前から存じ上げていたような感じであった。しかし私の第一印象は先生が肉体的に非常に弱っておられる点にあった。事実、これから二、三年で亡くなられたのである。

 

Schwankung

先生は一種のテクストとして、オーストリアの理論物理学者R. Fuerthが著した

Schwankungenerscheinungen in der Physik

なる小冊子を使われた。(後年、核融合関係の仕事にたずさわったとき、プリンストン大学にあるプリンストン・プラズマ・物理学研究所の所長もしたFuerth(ファース)という人物に会ったが、この人が上述のFuerth(フュルト)の子息であった。) これをどう訳したらよいか。「揺れ動く」をつづめて、揺動現象という訳語が定着したようである。中味は、例えば顕微鏡の視野に現われるブラウン粒子の数をかぞえてみると、それは時々刻々に変わる。ある平均値のまわりに増えたり、減ったり、非常に短い時間間隔で粒子数をかぞえれば非常に相関が強いが、間隔が長くなればそれがなくなる。

こういう事例がいくつか載っていたが、寺田先生はFuerthの本を、ただ参考書にして読めとしただけで、その中味を詳しく追いかける風ではなかった。ご自身の関係した事例を述べられたように思う。

 

◎切符売場の行列

この講義でうかがったのか、新聞雑誌で読んだのかはっきりしないが、先生は社会現象の統計的側面に興味をもたれたようである。お弟子さんたちが数取り器を持って街頭に出かけて、ある道路の一点を通り過ぎる通行人の数の変化を調べたり、駅の切符売場窓口の前に並んでいる人の行列の長さの変化を調べたりする話が記憶に残っている。バス停でバスの来るのを待っている間の寺田先生の観測とその解釈(つまりすぐ団子運転になってしまうこと)は、今となっては常識だが、その時点では大発見であった。

先生の講義の中で一番記憶に残っているのは、雨滴の分布である。先生は吸取紙を窓から突き出して、降っている雨を受け、雨滴の跡が点々と散らばっている模様を示された。これは完全にでたらめに並んでいるのだろうか。もしも成長しすぎた雨滴が、不安定になって途中で分裂したとすると、吸取紙の上の雨滴跡は、統計的に完全に独立なものとはいえない。

 

◎寺田物理学批判

私は寺田先生にいろいろな意味で教えられたが、しかし先輩の中谷宇吉郎や藤岡由夫のように先生のファンにはならなかった。一つはその頃つまり私の大学生時代に、寺田物理学に対する批判が現われてきたからであろう。『科学』の寄書欄に、平田森三の「きりんの斑模様」が胎児のときの割れ目だという説に対し、生物学者丘英通の痛烈な批判が出てきたりした。なかでも東大新聞に出た菅井準一のエッセイ「寺田物理学は小屋掛け学問だ」というのが私に影響を与えた。寺田先生は鋭敏な感覚をもっていて、他人が取り扱いにくいと思って避けている種類の現象に気がついて、それに最初のメスを入れる。しかし、菅井にいわせれば、その後が続かない、西欧の偉大な科学者がその知識を体系化して一大建築物に仕立てていくのに比べると、寺田先生のは小屋掛けをしただけで終わってしまっている、というのである。

 

◎乱雑な力の下での振子の運動

私伏見は、1933年に卒業して、昭和不況の末期のなか幸いにして助手に採用されて、物理数学や力学のチューター役を演じて、多くの後輩に接しえたのは幸いであった。その中に高橋浩一郎(気象台に入り、後気象庁長官、故人)がいて、私の部屋へたびたび押し掛けてきた。高橋は根っからの寺田ファンで、寺田物理の一分野であるハイドロ(灰泥)力学の例題をたくさん持ちこんできて、私は応接にとまどった。

高橋の呈出した問題の一つは、統計現象に属するもので、振子に統計的に乱雑な力が働いたときの運動がどうなるかということであった。私はこの問題をとり上げて、ではまず実験しようということになって、ボール紙を短冊型に切って、中央に糸をつけて、振り振り子を作った。何十秒のオーダーの周期になった。これを部屋の隅に放置されていた大きな鋼鉄製の機構からぶらさげた。この機構は、昔、田丸卓郎教授が地震計を造ったものの残骸であったと聞かされていた。振子の真下に分度器状のふれの角を測るための紙を置いて、半秒ぐらいの時間間隔で振れ角を記録した。この振り子は結構よく振動してくれたが、それはその時期が冬で、暖房がはいっており、部屋の中の空気には絶えず擾乱が起こっていたからである。さてその乱雑な運動の記録から、○・五秒間隔の前と後、一秒間隔の前と後、……の振幅の相関をとってみると、実に綺麗な減衰振動の曲線が出てきた。

高橋はこのような実験観測と、数値のとり扱いが実に手際よくて私は感心するばかりであったが、理論面を担当した伏見は、振動の微分方程式

      md2x/dt2 + γdx/dt + kx = f

を書きおろした。xは偏角で、mは慣性モーメント、kは系の振り係数、fは空気の乱れによって捩り振り子に働く外力で、不規則に変化するものとする。したがってその統計的平均はゼロである(<> = 0)。それで上の運動方程式に平均の操作<>働かせれば

      md2<x> /dt 2 + γd<x>/dt + k<x> = 0

となって、外力が働かない場合の振り子の運動になることはきわめて明らかである。

高橋の計算の速さは、コンピュータができている今日では問題にならないが、結果はいかにも美しいので、気象台に出かけて、そこの研究会で発表したのが、高橋・伏見「不規則な力の働く振子の運動について」と題して後に『気象集誌』という雑誌に載ったものである。気象台に持ちこんだのは、明治の始め日本の気象台組織を作り上げた岡田武松の伝統で、東大物理の卒業生の相当数が気象台に勤めることになったのが機縁になった。高橋が卒業後気象台に入ったのもその流れの中のことである。それに気象台の仕事の多くは、気温だの湿度だの時系列を調べて、そこに何か法則性がないかを追究するのが仕事であるから、興味をもってもらえると考えたからである。この思わくは当たったようである。

 

◎外見周期

私は東京高等学校(東高)という、今は存在しない七年制の高校にはいって、卒業期に山内恭彦先生に力学を習った。高橋は東高の後輩でもあった。大学生時代には、山内先生は工学部力学教室に属していて、小谷正雄、犬井鉄郎とともに三羽鳥とよばれていたが、物理教室本体がまことに人材不足の状態であったから、私は始終力学教室に遊びに行っていた。そのときの会話の一つに、「貴方は何を研究する積りですか」と質問されて、実はよく考えていなかったのに、とっさの返事として「確率統計をやる積りです」といってしまったのである。寺田物理学はある意味で高く評価できるのに、世間で評判が必ずしもよくないのは、随筆に終わってしまって深く掘り下げないからです。掘り下げるためには、確率統計の手段でも磨いて、理論的構築を心がける必要があります。こんな応答をしてしまったのだが、数年経ってこの会話が重大な結果を招いてしまった。山内先生の同窓生の河出書房の主人が準戦時体制の中の用紙割り当てに困って、小説ばかり出さずに、理科系の書籍を出したいとして相談したらしい。その結果が「応用数学講座」を出版することになった。坪井忠二『振動論』、友近晋『楕円関数』(坪井も友近も山内の同級生)、……犬井鉄郎『円濤(とう)関数』ときて、伏見『確率論及統計論』と指定されてしまった。大言壮語した罰で、ことわり切れない始末となった。

確率の本は、電報で催促を受けながら、一九四二年に出版にこぎつけたが、このことを書くのは、その中に寺田先生に関係したことが忘れられずに書かれているからである。

それは、寺田先生の「外見周期」という説である。気象学そのほかの地球物理、天体物理では、ある観測値の時系列の分析がしばしば大きな問題になる。その中には例えば太陽の黒点の数が11年の周期で増減するというような、確実な知識になっているものがある(もっともその理論的説明はいまだに聞いていないが)。これらの例が念頭にあって、多くの研究者がある観測値の統計的に乱れたものの中から、周期を探し出そうとする。そうした雰囲気の中で、時系列の中には平均三日目(毎日の観測値を考えているとして)に極大が現われるという「発見」をする人たちがいたのである。寺田先生はこの三日説はまったく統計的な性格のものであって、物理的な周期性とは無関係であることを指摘されたのであった。

寺田先生の主張を裏づける確率論的計算を、日本の学界では珍しいことに、数学者渡辺孫一郎と、独立に亀田豊治朗とが果たしている。この三人の論文は全部『数物会誌』つまり『日本数学物理学会誌』1916年号に載っている。太平洋戦争の終わった後、数物学会は「数」と「物」とに分離独立してしまったが、あるいは一緒だったほうがよかったかも知れない。

[『科学』199610月号]

(伏見康治「アラジンの灯は消えたか?」日本評論社、1996年。ISBN 4-535-78237-7より)