物理学とは何だろうか

(日本物理学会創立百年記念特別講演)

 

ただ今お話がありましたように、ちょっと私風邪をひいて、大したことはないのですが、少し熱がありますので、座ってしゃべらせていただきます。そういうわけで、彌永先生のお話のようなきちんとしたお話があんまりできないかもしれませんが、お許しを願いたいと思います。そのうえ、私は悪い癖がありまして、話をするときにどういう話をするか前もってあまりきちんと決めずにおく癖がありますもんですから、何をしゃべってもいいような題をつけておく癖があります()。それでああいう大それた題をつけました。中味は大したことはございません。

物理学というものはいったい何だろうかというようなことを、この年になりましていろいろ考え始めた、そういうことを雑談的にお話ししたいと思います。

 

物理学の成立

彌永先生は百年前のことからお始めになった。徳川時代の話もございましたんで、あるいはもうちょっと古いと言ったほうがよろしいかもしれませんが、私は、物理学が現代の意味での物理学らしいものになった頃からお話ししたいと思うんです。それで、物理学が物理学らしくなったというのは大体いつ頃か。今の物理学の教科書もその辺から始まっているわけですが、それは十六世紀から十七世紀にかけて、ケプラー、ガリレオ、ニュートン、そういうふうな人たちが出た頃と考えてよいでしょう。そしてガリレオが生まれたのは一五六四年ですから、今から四百年前ですね。それを四十五分でしゃべるわけです。

それで、まず今言いました三人の学者ですね、こういう人たちが出る前はどういう状況であったかと申しますと、科学と宗教と、それから哲学と申しますか、そういうふうなものがまだはっきり分化していない、そういう時期がありました。特に科学の系譜の中にありますところの呪術的な、つまり魔法的なものが相当長い間行なわれていた。そして、そういう要素が渾然としていた中から自然科学らしい形で物理学ができ始めたのが、ケプラー、ガリレオ、ニュートンの頃だと、そういうふうに見られるんじゃないかと思われます。ところで、今、呪術的と言いましたものを具体的に言いますと、天文学につながってくる占星術、星占いですね、それから、もう一つは化学の前身と考えられます錬金術、こういうのが非常に盛んに行なわれていました。例えば、ケプラーの師匠でありますティコ・ブラーエです。この人は天文学者ですけど占星術を信じていた人のようであります。その頃の状況をお話ししてみますと、ヨーロッパで神聖ローマ帝国というのがありまして、そこにルドルフ二世という皇帝がいた頃です。この皇帝は非常に変わった入で、プラハにあった自分の宮廷の中に錬金術と占星術の非常に大きな研究所を作って、そして世界中の(と言ってもヨーロッパ中でしょうが)錬金術師や星占術師たちをそこに招聰しまして、そこをそれらの術の中心にしていたという時代であります。

このティコ・ブラーエですが、この人はデンマーク人で、はじめデンマーク王の庇護下でフヴェン島に大きな天文台を作ってもらったりして、王様のための星占いなどをしていました。しかし彼は後にルドルフ二世に招膀されて、そこで星の観測をしていました。言うまでもなく彼の観測の目的は、天体の運動をそれまでよりもっと精密に知ることによって、占星術の適中率をより高くしようという、そういう動機だったというふうに言われております。ケプラーはこの名声高いティコにあこがれてそこへ弟子入りしまして(ケプラーはドイツ人です)、そこでティコの集めた非常に精密で、しかも非常にたくさんのデータを使いまして、星の運行を理論的に推定するという計算をやったのです。当時はなお天動説、地動説、両方あったわけですけれども、彼はこの計算から結局は地動説に傾いていったわけです。これはもう大変な計算だったと思われるんですけれども、結局、ご承知のケプラーの三法則というのを発見したわけですね。つまり、太陽をめぐる惑星の運動は円ではない、長円(楕円)軌道であり、その焦点に太陽があるという第一法則、第二法則は面積速度が一定という法則、それから、第三法則が惑星の周期(軌道を一回りする時間)が軌道の大きさ(円と考えれば直径)の二分の三乗に比例するという比例関係、この三つを見つけた。

それまではこういう観測に無関係に、惑星の軌道は円あるいは円の組合わせであるという考え方が非常に支配的であったわけですが、それを彼は観測に基づいて長円であるということを結論したわけです。そういうふうに、実際の精密な観測に基づいて、計算によって軌道を決定するというやり方(それ以前の人がやらなかったこと)をケプラーが初めてやった。

ガリレオの方は―ケプラーとほぼ同時代、ケプラーより少しガリレオの方が年上なんですけど―むしろ地上の物体の運動です。例えば、振り子の運動であるとかいろいろありますけど、彼が最も力を入れていたのは落体運動、つまり物が落下する運動の研究です。彼は実験によって落下運動についての法則を見つけたのです。落体というのは非常に速く落ちますから、当時の技術ではどれだけの時間にどれだけ落ちるかということを直接見るのは非常に難しいわけです。そこで彼は斜面を利用してその斜面に沿って物体を落とす実験をやった。そうすれば落下の速さがずっと遅くなりますから測れるわけですね。彼はそういう実験をやった結果、一定長さの時間ごとに物体がどれだけの距離落下するかを知ることができ、一区間の落下距離が、1357、…という奇数の比例でだんだん長くなるというようなことを見つけたわけです。

 

天の法則と地の法則

ところで、この辺の話は、皆さん物理あるいは数学の方ですからあまりくどく話す必要もないでしょうし、また時間がなくなっても困りますから、さっそく次のニュートンに飛ばしますが、ニュートンは、いわばケプラーが発見した天体の運動と、ガリレオが発見した地上の物体の運動(特に落下運動)、これを統一する法則を見つけたわけです。

で、彼が万有引力を発見した話になりますが、それに関して、りんごが木から落ちるという話があります。けれど、それがどこまで本当かというせんさくは時間の都合でやめることにして、とにかく、東京にもニュートンのりんごの木の三代目があるということ。これ、ご存じの方おありでしょうか。小石川の植物園にあるんだそうです。私も見たことがないんですが、植物園のどこか、あまり人の知らない所に植えてある。なぜかと言いますとですね、それが人に知られると、世の中の若者あるいは教育ママが、大学へ入れるおまじないにその枝を折ったり葉っぱを取ったりするからではなかろうかと。これは冗談ですが()

とにかくニュートンは地上の法則と天の法則(天界の法則)、これを統一することに成功したわけです。ですから、りんごが木から落ちる時の落下の現象も、月が地球のまわりを回る現象と同じ万有引力の働きである。そういうことですね。

それじゃ、なぜケプラーやガリレオのできなかったことをニュートンができたかと言いますと、彼が微積分を発見したということです。それまでの人々は天体の運動にしろ落体の運動にしろ、積分したものを発見していたわけですね。ところが、運動に関する自然法則は、もう一つそれを微分したところで成り立っている。つまり、運動の変化が力、万有引力のようなものと関係するという、そういう形で自然法則が成り立っている。つまり、変化というものを数学的につかまえるということが可能な、そういう数学を発見したのがニュートンの大きな仕事であったのです。先ほど、関孝和はニュートンと同時代の人だったというお話がございましたけれども、ニュートンの方はただ微積分を発見したというだけでなくて、それがすなわち、自然が自然法則を書き表わす時に使った言葉であったことを発見した。これが非常に大きな発見であったわけです。

ところで、ガリレオがしばしば言っているんだそうですけれども、「自然の本は数学によって書かれている」という、よく引用される言葉なんです。つまり、自然には法則があるが、その法則は普通の言葉で書かれているんじゃなくて数学の言葉で書かれている、そうガリレオは言っているというのです。ところが、ケプラーやガリレオたちはその言葉に必要な語彙と文法を見つけることができなかった。ところがニュートンはそれを見つけた。このことはニュートンの非常に大きな功績である。

その結果、地上の法則と天の法則とが統一されたというのですね。で、この数学というのはですね―今日は半分は数学者がいらっしゃるわけで、あまり人の領分のことを言いますとあらが出ると思うんですけれども―非常に抽象的なものである。しかし、この抽象性こそは、一見違って見えることを統一するには欠くことのできないものなのです。つまり違って見える物事の中から同一性を見出すには、どうしても具象性から離れねばならないわけで、そのためにはどうしてもそのことを抽象的な言葉で語らなければならないんですね。

そういうわけで、このニュートンの時代からそろそろ物理学の特徴であるところの数学的に抽象化することによって法則がより普遍的になるという、そういうことが見られている。この頃に、運動の学問が近代的な物理学の性格を備えてきたというのは、一つは法則の論拠として観測とか実験とかいう方法を使うようになったこと、そしてもう一つは、今言いました数学によって法則を言い表わすということです。そして法則を数学化することによって、一見脈絡がないように見えるたくさんの事柄をごく少数の基本的な法則から証明、証明、証明という連鎖によって導いてくる。こういう手続きによって初めて、天の法則と地の法則が共通のものであるということができたわけです。

ところで、ケプラー、ガリレオ、ニュートンの時代から、科学が魔術のようなもの、あるいは宗教のようなものから分化してきたということを言いましたが、ケプラー自身はやはり占星術を信じていた時期があります。しかし、彼の動機は占星術であったにしても、彼のやったことは非常に近代科学的なものです。つまり観測から数学によって軌道を導き出してくるというやり方は、星占いじゃなくて、ちゃんとした実証精神に貫かれた科学です。彼のやったことは、ですから近代的な科学になっているわけですね。そういうふうにして呪術あるいは魔術から科学が独立してきた。もう一つは宗教との関係なんですけれども、ご承知のように、ガリレオは彼の唱えた地動説が異端的であるという理由で法王庁から宗教裁判にかけられたという話があります。しかし、この時彼の考え方は、要するに、教会の守備範囲と科学の守備範囲とを分けようという考え方であったのです。そういうわけで彼は決して無神論者じゃなかったんで、彼によれば、神の啓示は聖書というものの中に現われているけれど、もう一つは自然そのものの中に現われている。そういうことを彼は考えている。このガリレオの考え方、すなわち宗教と科学がおのおのの守備範囲をはっきり持っているという考え方は、その後次第に一般的になってまいりました。

 

科学と技術の関係

あまり古い話ばかりしているとどんどん時間が経ちますんで、一足とびに今度は科学というものと技術というものがどういう関係にあるかということを少しお話ししてみたいと思うんです。

科学というものと技術というものは、しばしば、今日普通の人たちには混同されておりまして、同じように見られていることは皆さんすでに経験ずみでしょう。しかしながらその本質から言いますと、科学というのはあくまで自然の法則を知るという、つまり知るというところに重点が置かれ、技術の方はそれを知っていろんな人間の生活がより楽になるように、あるいはより豊かになるようにするというわけで目的がはっきり違うのです。しかしながらこの二つはまた切り離せない面もある。例えば科学なしに技術はありえないのです。つまり、自然法則に反するようなことをいくらやろうと思ったってできないわけですから、科学なしに技術はありえないのです。けれども、一方科学の方も技術なしには成長できないことも事実です。これも皆さん十分ご承知のことだと思うんです。

ところで、十八世紀頃までは科学から技術が生まれるということよりも、いろんな意味で技術が科学に新しい発展をもたらしたという逆の関係が多かったのです。それは、技術上の発明が科学に新しい研究手段を与えたということもあるでしょうし、また技術の要求によって科学に新しい問題が提起されるということもあるでしょう。いずれにせよ十八世紀頃までは、この種の逆の関係の方がむしろ多かったと言えるように思われます。例えば、望遠鏡というものは決して幾何光学が先にあって生まれたものじゃなくて、オランダのめがね師が偶然に見つけたといわれています。ところが、これが逆に、望遠鏡を使って天体を見るということが科学に非常に大きな影響を与えております。そのあらわれは、先ほど申しましたケプラーもガリレオもニュートンも三人とも、望遠鏡を使って天体を観測したという事実に見られます。そういうわけで、ご承知のように望遠鏡にガリレオ式望遠鏡、ケプラー式望遠鏡、ニュートン式望遠鏡とちゃんと三つあるわけで、三人三様に望遠鏡を作って使って天体を見ている。ニュートン式というのは反射望遠鏡ですね。ガリレオ式というのはオペラグラスにある凸レンズと凹レンズを使うもので、今の天文学者が用いる屈折望遠鏡がそれです。この三つがおのおのいいところ悪いところがあるわけですけれども。

それで、ガリレオが宗教裁判にかけられたのは彼の地動説にあるのですが、そのきっかけは、彼が望遠鏡で星を見ましていろんな発見をしている頃にさかのぼることができるのです。彼は、望遠鏡を用いることによって太陽に黒点があるとか、月にクレーターがあるとか、また木星に四つの衛星があるとかということを発見しましたが、彼が自分の発見したことをいろいろ書いたものが、どうも教会の方の教え方や、古い学説を唱える学者たちにとって具合の悪いという点もあったんでしょう。そのあたりから彼と教会との不和が始まっているのです。

しかしニュートンの時代になりますと、ニュートンはかなり異端的な考え方をしているにもかかわらず―彼も無神論者じゃないんですけれども、キリストが神の子であることを否定したり、聖職の存在を認めなかったりしている―、もはや教会の方が彼を裁くことはできませんでした。それというのも、もはや教権が科学の領分に口を出すことができなくなってきたからでしょう。そしてそれも結局は望遠鏡で星を見るというのが常識になってしまい、ガリレオを非難した教権の旗色が悪くなっていたことによるのでしょう。そういうわけで技術上の発明が科学の発展に非常なプラスであったことがわかります。このほかにも技術上の発明が科学に新しい活力を与え、新しい分野を開くのに役立ったという、むしろそういうことがしばしばあったのです。さらにもっと新しい時代になりますと、十七世紀から十八世紀にかけて蒸気機関の発明から、物理学が熱の奇妙な性質と取り組むことになった話を例にあげることができます。

 

熱現象の法則化

十七世紀の半ば少し過ぎた頃ワットが蒸気機関を改良したという話があるんですけれど、熱力学を生んだ歴史がそれです。ご承知のように、きっかけはフランスのカルノーが一八二四年に書いた論文です。それが「火の動力についての考察」という論文で、彼がこれを書いたのは確かに蒸気機関を改良するということが動機になっている。事実、彼が書いたものを見ますと、蒸気機関というものは非常に大きな発明であるけれども、それの改良は今までのところ、行きあたりばったりに行なわれているだけで、あまりちゃんとした理論的考察がないということから、自分はこの考察を書いたと言っているのです。けれども彼が一番問題にしましたのは、熱から動力を発生させる、その動力ですね―動力というのは今の言葉で言うと熱効率と言っていいかと思うんですけれど―、それには何かの上限があるだろうか、これ以上は原理的に不可能だという限界があるんだろうかという問題です。それともそんな限界なんかなくて、うまい機械を作ればいくらでも熱効率をよくできるのか。そういうことを考察しようと彼は言っている。しかもその熱効率の上限というのは機械の構造や、水蒸気を使うかあるいは他のものを使うか、そういうことに関係のない普遍的限界があるんじゃなかろうか、そういうことを少し考えてみようというわけで、有名なカルノー・サイクルということを考えまして、熱機関というのは、その構造に無関係に、ある限界があるということを見つけている。これが有名な熱力学の起りになるのですが、彼の論文はあまり人目を引かなかったらしくて、二十年ほど後になって、イギリスのウィリアム・トムソン、つまり後のケルヴィン卿が初めて彼の論文を取り上げて世に紹介した。

ご承知のように熱というものはエネルギーの形態であって、それと機械的エネルギーの和が保存するという考えが十九世紀の中頃確立されましたが、それだけではいけないんで、その保存則のほかにもう一つ何か法則があるとしないと、カルノーの言う熱機関の限界は出てこないということが、同じ頃大きな謎でありました。つまり、カルノーは限界の存在を証明したと言っていますが、それに関するカルノーの議論は熱素説という問違った説によっていたんです。そこで、クラウジウスというドイツの学者が―ご承知だと思うんですけれども―熱力学の第一法則、すなわち熱エネルギーと力学的エネルギーとの和は保存するという法則の他に、もう一つ、第二法則というのを付け加えると、カルノーの限界が導かれることを発見した。つまり「何の変化も他に残さないで、熱が自分自身で低温から高温に移ることはありえない」という第二法則ですね。これを付け加えることによって、結局、熱は熱素という物質的なものだという誤った説から、カルノーが導いていた熱機関限界説を正しい軌道にのせたのです。つまり、第二法則によって証明を多少修正すれば、カルノーの結論はそのまま成り立つということをクラウジウスは見つけたのです。

ところで、こういうふうにして蒸気機関を改良しようという要求から出てきた熱力学は、初めの目的である熱機関の改良を越えて、熱の関係するあらゆる現象が、しかも宇宙全体を通じ、また生物の体内においてさえ、それによって支配されているということがわかったんです。つまりそれは一つの普遍的な原理であったのです。この時、ご承知のようにエントロピーという概念が出てくるわけですが、「熱は自分自身で低温から高温のものに移れない」というこの第二法則ですね、それが熱機関を越えた普遍法則になるためには、何よりまずそれを数学を用いて抽象的に表わすことが必要です。しかし、そのことはとてもじゃないけれど難しいことだということはすぐおわかりになると思うんです。第一法則の方は、すでに「和が一定である」という数学の言葉で言い表わされているわけですけれども、「熱は自分自身で低温から高温に移ることができない」ということを数学で表現するのはとても難しいことだということは、今さらながらわかると思うんです。ところがクラウジウスの天才は、ここにエントロピーという不思議な概念をキーワードとしてつかまえまして、これを使うとちゃんと数学の式で法則が言い表わせる。それがどういう式かということは皆さんご承知だから省略いたします。これなんか驚くべきことだと思うんですね。

そういうわけで、むしろ技術が科学の進歩、あるいは新しい展開に非常に大きなモーメンタムを与えているということがおわかりかと思うんです。

逆に科学の発見から新しい技術が生まれたというのはそれより少し後になりますが、典型的な例は有名なファラデーの電磁誘導の発見です。それは一八三一年の出来事でしたが、これを発電に利用しようということはかなり時間がかかってからで、それはドイツのジーメンスが初めて実用に耐える発電機、いわゆるダイナモを作った一八六六年のことです。その結果、蒸気機関に代わる動力源が見つかってきた。これなどは何と言ってもファラデーの発見が先で、それが新しい電気工学という応用の方に延びていった例です。

今世紀に入るとそういう例はいくつもあります。例えば、半導体の研究からいろいろな新しい電気の素子が作られるようになったというふうなこと、また原子エネルギーの利用といったようなこと、これら新しいことは皆さんよくご承知だろうと思うんです。

 

物理学と生物現象

そういう経過をたどりながら物理学はだんだん普遍性を増してきました。初めは物の運動だけだったのが、その他、光、熱、電磁気、原子、分子、その他もろもろ、それから化学まで物理の中に含むようになった。ご承知のように、最近は分子生物学というようなものができまして、生物現象の一部、すなわち遺伝の現象がやはり物理学、あるいは化学と言った方がいいかも知れませんが、化学も物理学の中に入っちゃっているわけですから、こういう物理的な法則に従っているということがわかった。すなわち、長い間、生物の世界と無生物の世界とは非常に違いがあると見られていたわけですが、そのギャップの一部が分子生物学で埋められた。これは、ちょうど天の法則と地の法則、それが昔は全然違う法則だというふうに峻別されていたのをニュートンが一つの傘の中に入れたように、この分子生物学が無生物の法則と生物の法則と違うというふうな考え方が必要でなかったことを、少なくとも遺伝に関する限りでははっきりさせたわけです。これも画期的なことなんですが、このとき遺伝という現象は非常に決定論的な現象で、したがって特に物理現象に近いものだったのではないか。そして生物にはその他にもろもろの現象があって、それは物理法則に従っていると言えるだろうか。特に生物の中でも人聞がものを考えるというようなことを、物理学や化学の現象としてつかまえることができるだろうか。そういう問題が出てくるわけです。

例えば、生物研究の中には神経や脳の働きを生理学的に調べる分野があるわけですが、そういう分野が進歩すれば、ものを考えたり知ったりする脳のメカニズムが物理法則によって明らかになるのではないか、という期待が当然浮かんでくるでしょう。もちろんそこにはまだわからないことが山のようにあるわけですけれども、はたしてそういうものを研究していくと、われわれがものを考える、ものを知覚するとか、あるいは意識するとか、そういうふうなことがすべて物理の法則、化学の法則の傘のもとに入るだろうかというようなことが考えられます。

しかしこの点について分子生物学者、例えばデルブリュックなども、結論を保留しているということをお伝えしておきましょう(1)。つまり、まだ今、そんなことをはっきり言えないというわけです。それではどういう理由で彼らが答えることを躊躇しているのか、ステントという人の言うことを聞きましょう。この人も分子生物学者の一人で、やはりデルブリュックと同じような保留をつけております(2)。どういう保留かと言いますと、彼は自著『進歩の終焉』という本の中で、「脳によって脳自身の働きを説明することは不可能かもしれない」ということを言っている。だが注意すべきことは、分子生物学者の言っているのは、脳についていっさいの物理的説明は不可能だとか、そこでは物理法則と異なる法則が支配しているだろうとかいうことでなく、そこはやはり物理法則の世界であっても、そのことを物理法則によって証明できないという事情が起るかもしれない、ということなのです。

ここで再度、数学の先生たちの前で変なことを言う羽目になりますが、この予想あるいはむしろ予想の保留を、分子生物学者ジャコブはこういう言い方をしています。「ゲ…デル以来われわれは、ある論理体系がその体系そのものを記述するのに十分でありえないのを知っている(3)」ということになります。われわれがここで遭遇するのは、論理学でいうところの、命題それ自身についての命題なのです。いったいそれはどんなものか、卑近な例を取りますと、「いま私の言っていることはウソである」といった命題です。私がこう言った時、それは本当であるかウソであるか、そこにパラドックスが現われますが、デルブリュック、ステント、ジャコブたちはこういう事情を念頭に持っているようです。

私は分子生物学者たちのこういう考え方を知った時、盲へびにおじず、数学者ゲーデルの有名な「不完全定理」のことを少しでも知りたいと思い、それに関する通俗的解説書を一所懸命読んでみました。そして大雑把にわかったような気がした限りでは、ゲーデルは、今言いましたウソつきのパラドックスとの関連において数学の基礎を論じたもののようで、その結果彼は、数学の中に、真であるけれどもその体系によっては証明できないような、そういう命題が存在するということを論理的に証明したということなのです。

 

科学と人聞

さて、自然法則が数学の言葉で書かれているとするならば、物理学者はゲーデルのこの発見に無関心であることはできません。しかし、物理学とそれとの関連を今論ずるにはまだいろんなことを知らねばならないと私は思うんです。それよりもここで大事なことをもう一つ申し上げないといけない。それは、そういうふうな物理学の先の先の話は別といたしまして、現在すでに大きな問題になっていること、つまり物理学というものは何であろうかと考えた時に抜かしてはいられないことがある、その話です。つまりわれわれが物理学―自然科学というふうに少し広げてもいいんですけれど―、それによって自然の奥の奥にある法則を知るということですね。そして、それを発見することは物理学者にとっては非常に喜ばしいことだという考えです。その喜ばしさを最も率直に言っているのがケプラーなんですが、ここで、ケプラー自らをしてその喜びを語らせてみましょう。すなわち彼は第三法則を発見した時の喜びを『世界の調和』(4)という本の中に書いているので、それをちょっと読んでみます。彼はまず第三法則を見つけてきたいきさつをこう述べている。

「十八ヵ月前に最初の曙光を見、三ヵ月前に朝を迎え、しかし、ほんの数日前に輝きわたる陽光を仰いでからの今となっては、何者をもってしても私を抑えることはできない。」

つまり、ずいぶん長い間宇宙の調和を求めてきた彼の心に、第三法則らしいものが十八ヵ月前にぼんやりと見えてきて、それがだんだんはっきりしてきて、数日前にはそれが非常にはっきりした形で自分の心の中に浮かんできた。そうなるともう今では何も自分を抑えるものはないと言い、それにつづけて、「私は聖なる疾走に身を委ねるばかりなのだ。……そして現在または後の世のための一冊の著書を書く。私にとっては現在も後世も同じである……」。そして彼は百年もの間読者を待たねばならないならそれでもよい、とこういうふうに言っているわけです(事実、ニュートンがケプラーの法則を取り上げるまで約半世紀の時が必要でした)。そしてこの『世界の調和』のおしまいに、非常に熱っぽい文章でこういうことを書いています。

「偉大なるかな我らの主よ、主の力、主の英知の偉大なることは数えつくせず、誉めたたえるべきかな主の天、誉めたたえるべきかな太陽、月、惑星……。」そう言って天地の創造の偉業と造り主を賛美している。こういうふうな発見の喜び、それによって神様のお造りなった偉大な宇宙の中の調和が見つけられたということの喜びを声高らかに彼は歌いあげているわけです。

それからまたアインシュタインは、一九四一年に『科学と宗教』(5)という題でこういうことを述べております。

「自己中心的な執着、欲望、恐怖の絆から、できるかぎり人類を解放することが宗教の目標の一つであるとすれば、科学的推理はまた別の意味で宗教を助けることができます。……科学の領域において立派な進歩をなしとげた強烈な経験を持つすべての人々は存在の中に明らかにされた合理性に対して深い畏敬をいだくものです。理解を通じて、そのような人々は、個人的願望や欲求の足かせから遠く自らを解放し、存在の中に具現している合理性の荘厳さ―最も深遠な深みにおいては人間は近づくことのできない荘厳さに―対して、謙虚な態度をとるに至るのです。・・・人類の精神的進化が進めば進むほど、真の宗教への道は、生や死に対する恐怖とか盲目的信仰に通じているのではなく、合理的知識への努力に通じていることが、ますます確実となるように思われます。……」

ところが今度の戦争で原子爆弾が作られて、かつそれが使われたということに関して、オッペンハイマーがこういうことを言っています(6)

「・・・物理学者たちは〔この戦争において〕原爆の開発を示唆し、支持し、そして最後にはその大規模な実現をなし遂げたが、それについて、彼らは特別に深い内的責任を感じたのである。さらにまた、それが実際に使われ、そしてその結果が近代戦争の非人間性と悪とを残酷なまで劇的に示したことを忘れることができないようになったのである。どんな粗雑な論法によっても、どんなユーモアによっても、またどんな誇張的言辞によっても、拭い去ることができないようなある種のなまなましい意味において、物理学者たちは罪を知ってしまった。……」

この罪というのはキリスト教の方で言う原罪の意味だと思うんですけれども、オッペンハイマーに至って、物理学者の前にそのことがつきつけられたのです。つまり科学によって自然の奥深くかくれている法則を知るということは、ケプラーにとっては宇宙の美しい調和と神の栄光を知ることでした。それから、アインシュタインにとっては、自然の中にある合理性の荘厳さを知ることによって個人的願望や欲望の足かせから解放されることをそれは意味しました。しかしこのオッペンハイマーの言っていることは、私流に敷衍いたしますと、科学によって自然の奥の奥を支配する法則を知る時、その自然は、善の元になるもの、悪の元になるものすべてを容赦なくわれわれに知らせてしまうことです。ですから、そういう意味で一種の罪を知ったということだろうと思うんです。このオッペンハイマーの文章というのは、浅薄な読み方をしたのでは真意を捉えていないかもしれないので、あるいは私の取り違えがあるかも知れません。けれども、少なくともかつてケプラーが子供のような純な心で科学をやった時代は遠く過ぎ去って、現代ではもっと大人の、と言っていいかもしれませんが、もっと複雑なそして屈折した心でそれに対面しなければならない、そういう時代になってきたのだということではないでしょうか。

「物理学とは何であろうか」という題をつけた私の話は、こうして物理学者たちがたどりついた場所を皆さんに示してみて、皆さんはどうお考えでしょうか、という問を皆さんに向かって投げかけるつもりでありました。それについて私がここでああ考えるべきだ、こう考えるべきだとは申し上げませんけれど、やはり時々はそういうこともじっくり考えていただきたい。そういうわけでございます。

(1) M. Delbrueck, A Physicists Renewed Look at Biology, Les Prix Nobel en 1969, P. 147. (Inprimerie Royale P.A. Norstedt & Soener, Stockholm, 1970)

 (2)ガンサー.S.ステント著、渡辺格・生松敬三・柳沢桂子訳『進歩の終焉』(みすず書房、1972)101

(3)フランソワ・ジャコブ著、島原武・松井喜三訳『生命の論理』(みすず書房、1977)312

(4)ケプラー著、島村福太郎訳『世界の調和』(世界大思想全集、社会・宗教・科学思想篇31、河出書房、1963) 235

(5)アインシュタイン著、市井三郎訳『科学と宗教』(世界大思想全集、社会・宗教・科学思想篇35、河出書房、1960) 239 – 240

(6) J.R. Oppenheimer, Physics in the Contemporary World, Bulletin of the Atomic Scientists 4 (1949), No. 3, p. 66.

 (日本物理学会創立百年記念特別講演、1977108日、共立女子学園講堂、『日本物理学会誌』19784月号、『みすず』」 19788月号)

(From 朝永振一郎著作集7「物理学とは何だろうか」、みすず書房、1982. ISBN 4-622-00870-6. pp. 335 – 355)