量子力学の最初の数年間

R. E. パイエルス

(Kbant(クヴァント) No.10 pp. 2 – 9 (1988). 小島英夫訳)

 

パイエルス (Rudolf Ernest Peierls 1907. 7. 5 ) の名前は1960年代の学生たちの間では良く知られている。 また、彼の著書「自然の法則」は彼らの多くを物理学に向かわせたといっても過言ではないだろう。

 専門家の間では、ロンドン王認協会のパイエルス教授の名前は、固体物理学の理論、数理物理学、量子力学、核物理学の領域における確固たる古典的な業績と結びついている。ここで長い研究生活において彼が取り扱った全ての問題をこれ以上詳細に数え上げることはとてもできない。

 ベルリン生まれではあるが、パイエルスはその長い人生の大部分をイギリスで過ごした。マンチェスター、ケンブリッジ、バーミンガム、オックスフォードの各大学で働いた。第二次世界大戦中には、ロスアラモス(USA)で原子力の領域の研究に従事した。1987年の秋にはソ連邦科学アカデミーの招待でモスクワを訪れた。量子力学の形成過程と彼の仕事についてのバイエルスの講演は、科学界の多くの注目を集めた。物理学問題研究所のホールは種々の世代の物理学者−学生からパイエルスの同世代の研究者まで−によって埋められた。彼の長い人生で(当時彼は81歳だった)パイエルス卿は殆どすべての20世紀の代表的な科学者と会い、一緒に研究した経験があった。彼ら−自分の師と同僚について、かれは講演のなかで触れている。それは目撃者の証言、よどみのない、生き生きとした詳細に富んだ、的確で好意あふれる性格描写であり、繊細なユーモアに富んだ講演だった。その名がすでに教科書や百科事典に載っている学者が、それぞれ個性と独創性を持った同時代の人々を聴衆に紹介した。それは文字どおり現代物理学の基礎が形成された数年間という注目すべき時期の雰囲気を感じ取ることを可能とした。

 パイエルスの講演はロシア語でなされたので、この記事ではI. N. Arutyunyanの速記した講義録をつかって、彼のスタイルの特徴をできるだけ保つよう試みた。(Kbantの編集者の注)

 

図1.パイエルス

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 自分自身のことから話を始めることをお許し頂きたい。普通の話と違って、自分の個人的な印象について話すつもりなので、始めに自分について語らねばならないのです。

 私は1925年に大学に入学しました。今だから言えるのですが、私が物理学を選んだのはそれが興味のある学科で、急激に発展していたからです。しかし、それだけでは正確ではありません。私がもっともなりたかったのは技術者でした。それは、飛行機、新しい自動車が発展した時期であり、子供が技術者になりたいと思うのは自然だったのです。しかし、私が技術者には向かず、よい技術者にはなれないだろうと誰かが言いました。それで、自分の夢に最も近いと思った物理学を選んだのです。

 私はベルリンにある大学に1925年に入学しました。ベルリンは私の家があった町でした。遠くへ行くには私が若すぎると両親は考えたのです。ベルリン大学で私はプランク1) の講義を聴きました。それは私が聴いたなかでは最も退屈な講義でした。プランクは彼の書いた理論物理学の教科書を文字どおり読んだのです。あなたが教科書を持っていれば、一行毎にテキストを追うことができたでしょう。プランクはとても有名でしたが、私たちはそれを当時は全く知りませんでした。プランクの通常の講義が終わって、ボーア原子やそれに類する全ての事柄をボーテ (Walter Bothe) の講義で初めて聞きました。(ボーテは後に原子核物理学者になりました、)そこで私にはっきりしたことは、物理学になにか新しい、真に興味あることが起っているということでした。

 

1) 訳注(以下同じ) Max Planck (1858-1947) 。熱放射の研究で1918年にノーベル物理学賞を受賞。1900年にプランクが唱えた振動子のエネルギーの量子仮説が量子物理学を生む端緒となった。彼の書いた理論物理学教程は日本語に訳され、多くの読者をもった。

 

一年経って、私はベルリンを離れるのに充分丈夫になったと思いました。私は当時の最も優れた理論物理学の教授、ゾンマーフェルト2) がいたミュンヘンに移りました。それは理論物理学が華々しい時期でした。量子力学が創られ、あらゆる事柄がどんなに急激に起こるかは誰にも言えない時でした−実際には2年間だったのです。

 

2) Arnold Sommerfeld (1868 - 1951) 1906-1946年、ミュンヘン大学教授。 量子論の基礎を形成する多くの優れた研究をすると同時に、ハイゼンベルグ、パウリ、デバイなどを育て、彼らはゾンマーフェルト学派と呼ばれる。物理学教程全6巻が邦訳されている。

 

 ちょうどこの時に私は大学に入り、一年経つか経たないうちに量子力学の論文を読むことができたのです。しかし、その定式化をするには私は遅すぎたのです。人生をもう一度繰り返すことができるものならば、私は1年か2年早く生まれたいと思います。ブロッホ3)は後に説明しました、全ての人が新しい理論を創る能力を持っているわけでないし、われわれはそれを応用する時期に生まれ合わせたのさ。私に関しては、その言葉は真理でした。古典物理学で解くと矛盾が生ずるような何かの問題を取り上げ、それを量子力学をつかって解くのに最も適した時期でした。

 

3) Felix Bloch (1905-1983)。 金属電子論、強磁性体論、磁気共鳴吸収法などで、優れた業績を残し、1952年ノーベル物理学賞を受賞した。

 

 このようにして、私はゾンマーフェルトの所へ行ったのです。彼は背は低いが、大きな口髭をたくわえていました。学生たちはときどき彼を「上半身プラスアルファ」と呼んでいました。ゾンマーフェルトはかなり勿体振った様子をしており、Geheimrat−枢密顧問官の肩書きを持っていました。それは現在のアカデミー会員の称号に相当し、彼はそう呼ばれるのを喜んでいました。一人のアメリカ人の学生が最初それを知らずにゾンマーフェルトに単なる「Herr Professor(教授殿)を使いました。12週間経って彼は事情を呑み込み、次に会ったときゾンマーフェルトに「Herr Geheimrat」を使いました。ゾンマーフェルトはそれに気がついて、彼のドイツ語がこの前会ったときにくらべて随分うまくなった、と言いました。

 

図2.ゾンマーフェルト(左)とパウリ.パウリはとても礼儀正しく、控え目に見える(いつもはそうでない!)。彼はかつての自分の教授にたいしては、いつもこのような態度だった。パウリ自身それを<学生コンプレックス>と呼んでいた。

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しかし、大学でのゾンマーフェルトはわれわれにとって全くGeheimrat (枢密顧問官風)ではなく、われわれは彼をそう呼んだことはありません。彼は学生にとっても、大学院生にとっても素晴らしい教師で、きわめて分りやすい講義をしました。それらは出版され、いまでもその価値を失っていません:それは今でも読まれるべき本です。ゾンマーフェルトはいつもこう言っていました:科学としての理論物理学はいつでも実験事実に基づかなければならない。彼はわれわれに、あれこれの理論的法則がどのような実験事実に基づくのかを忘れないように注意しました。

ゾンマーフェルトは数学を非常によく理解しており、非常に有益な多くの純粋数学の論文を書いているくらいですが、あまりペダンチックではありませんでした。こんなこともありました。金属電子論の講義をしていたとき、黒板で計算しながら途中で因子2を落としてしまいました。われわれはそれに気がついていましたが、それはたいしたことではないと思っていました。最後に、彼はヴィーデマン-フランツの法則を導き出しましたが、この法則の数係数はよく知られたものです。そこで彼は、結果が正しくないのに気付きました。われわれは彼がどうするかに興味を持って見ていました。誤りに気がついたゾンマーフェルトは、ただちに、右から左に向かう電子に加えて、今度は左から右に向かう電子を考慮すると言って、必要な場所に落とした因子2を書き加えました。

ゾンマーフェルトは山の中に小さな別荘を持っており、ときどき大学院生や教授達を招待しました。そこで彼は、セミナーでの私の最初の発表を許可してくれました。ちょうど変換論に関するディラックーヨルダンの論文が出たときでした。ゾンマーフェルトは言いました:「この論文を私はまだよく理解してないので、それを君がわれわれに説明してくれませんか?」大学に入学して未だ2年も経っていない学生にとって、それは難しい問題でした。しかし私は喜んで引き受けました。セミナーの他の参加者がそれを読んでいたのかどうかは知りませんでしたが、私自身にとってそれは非常に勉強になりました。

 

3.山でスキーをするゾンマーフェルト彼の外見のどこにも枢密顧問官の称号のかけらも見えない。

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当時ミュンヘンにはベーテ4) が大学院生としていました。彼は私より1才年上でしたが、その年代ではそれは大きな違いでした。私にとってベーテはなんでも教えてもらえる物知りに見えました。われわれはみんなベーテと親しい友人になりました。彼は今でも私より1才年上です。もうそれは大した問題ではありませんが、いまでも私には彼から学ぶものがたくさんあります。

 

 

4) Hans A. Bethe (1906 - ) 金属電子論、原子核論、素粒子論などで優れた研究をし、1967年ノーベル物理掌賞を受賞した。

 

私はミュンヘンに1年半滞在しました。もっとそこにいたかったのですが、ゾンマーフェルトがアメリカへ半年から1年行くことになりました。私は彼の勧めに応じて、ライプツィッヒでハイゼンベルグと一緒に研究することにしました。

ハイゼンベルグ5) は、ゾンマーフェルトとはまるで違っていました。ゾンマーフェルトがいくらかGeheimratであったとすると、彼はまったくそうではありませんでした。一見して分るように、いつでも彼は非常に謙虚でした。大抵、毎週セミナーがあり、その前にティータイムがありました。教授自らお菓子屋へいって、適当なケーキを買ってきました。こんなことがあったのも思い出します。たしか当時ハイゼンベルグの助手だった一人の同僚が、教授ともあろうものがお菓子屋へなど行くべきでないと私を説得しました。それは、彼がウィーンの出身で、それが何を意味するかを知っていたということです。どうやら、それはハイゼンベルグがライプツィッヒに居ないときのことだったようです。

 

5) Werner K. Heisenberg (1901 - 1976) シュレーディンガーと独立に量子力学を創り上げる。不確定性原理、強磁性体論、場の量子論、原子核論、素粒子論に優れた業績をあげる。1932年にノーベル物理学賞を受賞。

 

ハイゼンベルグは卓球がとても好きで、また上手でした。われわれもみな暇なときには卓球をしました。あるとき中国の物理学者がやってきましたが、彼はハイゼンベルグより上手でした。それはセンセーションを巻き起こしました。私がその後聞いたところでは、船でアメリカから日本へ行ったとき、ハイゼンベルグは二度とそんな目に会わないように毎日練習していたということです。

ハイゼンベルグは純粋数学が好きでなく、必要な道具としか考えていませんでした。彼の方法は次のようなものです。問題を熟考してから、解を推量し、それからその解を与える数学的方法を選ぶのです。ハイゼンベルグのような優れた直感があれば、これは良い方法です。そうでないと、これは少々危険な方法です。

ライプツィッヒで私は自分の最初の論文を書きました。それは異常ホール効果と呼ばれる現象に関するものです。

金属片を磁場中におき、電流を流すと、電流と磁場に垂直な方向に電位差が生じます。これは磁場によって電子がずらされるからです。ところが、金属によってはこの効果は符号が逆転します。現在われわれはそれを説明するのに、そのような物質では電流が電子ではなく正孔によって運ばれるといいます。しかし当時はこの問題については説明がついていず、ハイゼンベルグは単にこう言いました:ブロッホが金属の電子論を創り上げたが、君はそれをつかってこの問題を取り扱ってみないかね。うれしいことに、それは実際に可能で、私はこの問題を解きました。

 私はライプツィッヒに数年間いました。ハイゼンペルグはアメリカへ招かれ、彼は休暇をとって出掛けました。彼の要請で、私はチューリッヒへ行き、パウリ6) と一緒に仕事をすることにしました。彼のところで私は博士論文を書きました。一言述べておきたいことは、休暇とアメリカへの招待が私には非常に恩恵を与えてくれたことです。そのために私はこのような先生方とのすばらしい出会いを持っことができたのです。

 

6) Wolfgang Pauli (1900 - 1958) 相対性理論、パウリの原理を含む量子論、場の量子論、素粒子論で優れた業績をあげる。1945年にノーベル物理学賞を受賞した。

 

よく知られているように、パウリは無遠慮な批評をすることでも有名です。最も辛辣な悪口の一つは、パウリがステユッケルベルグ7) と話していたときのものです。こんな会話だったようです:「パウリ、そんなに早ロで喋らないでください。私はあなたのように頭の回転が速くないのです。」パウリは答えて、「君の頭の回転が遅いのはたいしたことじゃないよ。私が問題にしたいのは、君が考えるより先に論文を出すことだよ。」

 

7) Ernst Stueckelberg、 場の量子論、素粒子諭で業績を上げた物理学者、中間子論でユカワ(湯川秀樹) と同じ考え方の計算をしたが、符号が合わないことをパウリに批判されて発表をしなかったという。 バウリ'が日本にはいなかったことがユカワには幸いした、と言われている。後に、符号の違いはスカラー波動関数を擬スカラー波動関数に改めることで解決された。

 

 ある人が、それほど良いとは思わない若い物理学者の論文を、パウリの意見を聞こうとして彼に見せたときのことです:すぐに論文を通読したパウリは、言いました「これは正しくはない、と言うこともできない代物だ。」

 パウリにはこんな習慣がありました:夕方は映画館とか演奏会とかに行く。11時頃に帰ってくるとすぐに机に向かいます。長い時間仕事をして、朝は遅く起きます。あるとき9時に始まる会議に招かれましたが、彼は断って言いました:「駄目、駄目、そんなに長い時間眠らずに起きているなんて、とても私にはできませんよ。」

 あるとき、パウリは他所の町へ行って、そこの物理学者に映画館へ行く道を尋ねました。彼は道順を説明して、次の日にパウリに結果を聞きました。パウリは答えて、「君は、物理学以外のことを話すときは、全く分りやすく説明してくれるね。」

 私はパウリの所で3年間を過ごしましたが、同じ様な話は何回となく耳にしました。しかし、それはまだ非常に深刻というほどのものではありません。バウリにとっては、誰でもがイライラの対象にならないものはなく、多分彼自身が、彼の考えその物がそうだったのです。あるとき、彼はなぜそんなことをしたのかを私に説明しました。彼の考えでは、〈痛む魚の目〉を何度も踏まれても生きて行ける感性豊かな人達がどれだけいるか疑問なのです。それが本当の理由かどうか、私には分りません。

 

41930年のチューリッヒ.ランダウ(左)は例によってこっけいなしかめ面をしている。中央はアンバルツシャン、右はブロンシュテイン(?)。

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 その間に、ランダウ8) がチューリッヒを2度訪れました。最初は1930年の1月でした。当時はソ連邦とスイスの間に外交関係がありませんでした。彼には2週間の滞在許可が与えられ、2週間毎に期間を更新しなければなりませんでした。その手続きはまったく厄介なものでした。しかし最後には、彼は強制退去させられてしまいました。そのとき冗談に彼はこう言いました:「レーニンはスイスに数年滞在していたけど、ここには革命が起きなかった。きっと、当局は私が革命を起こすのを心配しているんだよ。」

 

8) L.D. Landau (1908-1968) 物性論、素粒子諭、場の量子論で優れた業績をあげたロシアの理論物理学者。1962年にノーベル物理学賞を受賞した。

 

1年経って、彼はロックフェラー奨学生として戻ってきましたが、今度はなにも問題はありませんでした。彼は好きなだけ滞在できたのです。われわれは一緒に研究しました。ランダウはまだ非常に若かったのですが、既に非常に綿密な物理学者でした。彼に興味を持たせる何かの問題が見つかると、彼はそれについては何も読まず、ただちに自分で計算を始めます。そして彼が結果に満足すると、それから論文をじっくりと読むのです。彼は全てを系統化することに興味を抱いていました。例えば、彼は物理学者を幾つかのランクに分類しました:第一ランクには、ボーア、ゾンマーフェルトが属していました。アインシュタインは、一人だけ特別のランクに属しています。ランダウ自身は、謙虚にも第二のランクに属しています。そのような〈系統化〉を、彼は人生の他の問題にも適用していました。

 ランダウは顎ひげが嫌いで、あれはビクトリア朝の遣物だと言っており、とくに若者の顎ひげは嫌いでした。われわれの仲間に、顎ひげでなく、とても長い頬ひげを生やしている物理学者が一人居ました。ランダウはそれもブルジョア的だと考えており、その男の奥さんに電話して、言いました:「何時あなたはご主人の滑稽な頬ひげをそり落とすよう説得しますか?」彼は、西洋のチューリッヒでは、ロシアのレニングラード(現サンクトペテルブルク)より顎ひげが多いと信じていました。われわれは賭けをして、通りで何人の顎ひげに会うかを数えました。後に、私がレニングラードを訪れたとき、同じように数えて、レニングラードの方が顎ひげが多いことが分りました。私は賭けに勝ちましたが、ランダゥはその理由を説明して、集団農場化で多くの農民が町へ移住したからだと言っていました。

 ランダウは、青年だけが役に立つ仕事をすることができると信じていました。確かに、彼はその後この考えを変えました。いつだったか、われわれがお喋りをしていたとき、話に彼の知らない一人の理論家の名前がでてきました。彼が27才だと分ると、ランダウは言いました:「その年でまだ無名だとは!

 

図5.ガモフとフェルミ。

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 ランダウの他にも、チューリッヒにはガモフ9) を含む人々がいました。ガモフは当時すでに有名で、ユーモアに富んでおり、あらゆる冗談が好きでした。あるときわれわれが山に登ったとき、とても面白い名前のピークがありました。そこでガモフは鞄から紙束を取り出しました。それは雑誌〈Nature〉に投稿する何か核反応についての論文の未完の原稿でした。ガモフは頂上に座って、その論文を完成しました。最後の文章を書きながら、彼はそれが書かれたピークの名前を記し、そこで仕事をすることを許してくれた彼の同伴者に感謝を捧げる謝辞を書きました。

 

9) George Gamow (1904-1968) 量子力掌のトンネル効果を発見し、アルファ崩壊の理論、原子核論、宇宙論などで優れた業績をあげた。ビッグバン宇宙論を創唱した。

 

 その当時も、今と同様に物理学者は会議や研究会に出席するために、旅行するのが好きでした。当時の鉄道は、切符を買うのが容易でなく、 3等列車の客車の隅に一晩中座って旅行したことがよくありました。しかし、私がオデッサで開かれた物理学会の会議に招かれたときには、少なくともロシア国内はお客さんとして快適に旅行しました。フレンケル10) が私の研究を知って、私を招待してくれたのです。

 

10) Yakov Ilich Frenkel。 格子欠陥の一種のフレンケル欠陥に名を残す固体物性論の理論家

 

 旅行者にとって最も魅力的な場所の一つはコペンハーゲンで、そこにはボーア11) がいました。彼は素晴らしい人でした。ボーアは他の人々を侮辱することを嫌い、同時に何事であれ真理に反することが話されるのを許すことができませんでした。この二つの特性から、面白い組合わせが生じます。それで、あるときボーアは言いました:「私がこう言うのは批判のためではなく、そのう、単なる無駄口なのです。」またあるとき彼は言いました:「明瞭さと正しさは、相補的な概念です。」実際、彼は研究において着々と究極の真理に近付いていったのです。

 

11) Niels Bohr (1885-1962) 1913年に"ボーアの原子模型"を創り、対応原理をつかって前期量子論の建設を中心になって行い、相補性原理をつかって量子力学のコベンハーゲン解釈を確立した。 1922年にノーベル物理学賞を授賞した。

 

 ボーアの所で研究を論文に仕上げる過程はかなり複雑です。ボーアが口述することから始まり、外来研究者の一人が全てを記録しなければなりません。それから校正が始まり、書かれた事柄に誤りがないように表現が改められます。変更は多岐におよび、文章が書き改められ、それからタイプされ、それから再び訂正され、最終的に、完成原稿がデンマーク・アカデミーの雑誌に送られます。それはボーアが編集にタッチしているもので、大きな権威を認められていました。その後ではゲラ刷りの校正がありますが、その数は時には16に達しました。

 ボーアが論文作成だけに関わっていたのでないことは、明らかでした。あるとき、彼は研究所のために建てられていた新しい建物を視察するように呼ばれました。彼を良く知っていた現場監督は言いました:「ボーア教授、この壁をごらんなさい。もしもう一度この位置をずらした方がいいとお考えなら、コンクリートが固まるまでの3時間の間に決めてくださいよ。」

 教授としては、ボーアはかなり物にこだわらない方でした。こんなことがありました;お喋りしているとき彼はいつも葉巻を唖えていました。一息吸ってマッチはありますか、と不意に言います。マッチが手渡されます。彼はマッチを擦ろうとしますが、話しながらなのでうまくいきません。すると彼はマッチを箱に入れてしまいますが、5分後には同じ質問をして、初めからの繰り返しになるのです。私は煤けたチョークのかけらをしばらくしまっておきました。:彼は葉巻とチョークを同時に片手で持っていることがよくあったのです。

 

図6.コペンハーゲンにおけるボーア。ボーアは右方でボールを手にしている。彼はサッカーがとてもうまかったが、彼の弟で数学者のハロルド・ボーアほどではなかった。弟の方はプロ級だった。ハロルドが母親と市電に乗っていたとき、乗客の一人が叫んだという;「この中に誰が乗っているか分かりますか有名なサッカー選手ハロルド・ボーアですよ!」芝生にはボーアの子供たちがおり、彼らの真ん中にいるのは、未来のノーベル賞受賞者である四男のアーゲ・ボーアである。

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 そうこうするうちに、ドイツでは不穏な動きが始まり、コペンハーゲンでも、会話は物理学だけではなく、ドイツとオーストリアから来ていた研究者の仕事を探す問題に及びました。すべての研究者にとって、それは容易ならぬ時代でした。経済的危機の時代で、大学は拡張されず、現職が定年や死亡でいなくなっても、その地位は埋められませんでした。博士号取得者にたいしても、科学研究のための地位は保障されてはいませんでした。私は1年間のロックフェラー奨学金を受けてチューリッヒを後にし、半年をローマで過ごし、残りの半年をケンブリッジで過ごしました。私より前に、すでにベーテが冬をケンブリッジで、夏をローマで過ごしていました。私は逆の順序をえらび、いまでもその方が良かったと思っています。

 ローマではフェルミ12) と会う機会がありました。彼もまた優れた物理学者でした。何かの問題を彼に尋ねると、殆どいつでも書棚に案内しますが、そこにはその問題がすでに彼によって解かれているのでした。基本的に、それらは単純でした−フェルミは複雑な問題を好みませんでした。しかしここで、単純な問題とは何かという疑問が生じます。既にフェルミがそれらを解いた後だから、簡単になったのではないでしょうか?

 

12) Enrico Fermi (1901-1954) "フェルミ統計“、原子の統計的模型、ベータ崩壊の理論、中性子による元素の人工変換、核分裂の連鎖反応、中間子物理学など、理論と実験の両分野でトップレペルの業績をあげた。1938年にノーベル物理学賞を授賞した。

 

 フェルミについての最も強烈な印象は、もっと後で原子爆弾の実験のときにロスアラモスで受けたものです。誰もが爆弾の威力を正確に知りたがっていました。それを計算するには多量の計算をする必要がありました。ところがフェルミは小さな紙片を持っていて、衝撃波が到達したとき(われわれは爆心地から約15キロメートルのところにいました)、彼はその紙片を手放しました。紙片が飛んだ距離から、彼は直ちに爆発の威力を決定してしまいました。あんなに驚いたことは未だかってありません:どんな方法で、また紙片を手放す正確な時刻をどうやって決めたのか。私だったら、きっと、彼と同じようにやろうとしても紙片を早く手放したり、それを全く忘れてしまったに違いありません。

 前に言ったように、私は妻と一緒にローマからケンブリッジへ行きました。そこで最も面白かったのはディラック13) と会ったことです。ディラックは非常に礼儀正しく、われわれを特別に歓待してくれました。われわれは自動車を持っていなかったのですが、彼はそれを知っていて自分のご自慢の愛車に乗せてくれました。こんな冗談が言われていました:ディラックのところには特別な運転手がいる。彼の車はゼロと最高速度の二つの速度しか出せない。

 

13) Paul A.M. Dirac (1902-1984) 量子力学の定式化、量子電気力学、統計力学、磁気単極子の理論、重力場の量子化など、多くの優れた業績をあげた。1933年にシュレーディンガーと共にノーベル物理学賞を受賞した。

 

 ディラックは自分自身の奇妙な反応にいつも驚いていました。しかし、後で考えてみると、彼の言葉や態度は、確実に前のからの論理的な帰結であることが分かります。一つの例を挙げましょう。あるときケンブリッジに科学史家が訪れ、ディラックに会いたいと言いました。彼はカレッジに案内されました。ディラックは食事をしていて、しばらく沈黙が続き、なにか雰囲気を和らげる必要がありました。歴史家は雨が降り始めたのに気がついて、天気の話を始めました。ディラックはちょっと黙っていて、それから立ち上がり、ドアに近付き、それを開けて耳をすましました。話が本当だと納得して初めて、彼は自分の同意を一言`Yes'で表明しました。

 

図7.動物園での私の妻(右)、私(中央)およびディラック(左)。今ディラックは、これからどんな生物に会わなければならないか、という問題に真剣に取り組んでいる。

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 話の最後に憶えておいて頂きたいのは、私がここでお話したのは、言葉を選び、適当な強調点を考慮する科学史家としてではないことです。これは、物理学におけるもっとも偉大な理論の一つである量子力学の創造の輝かしい時期の目撃者の印象と、幸運にも私が出会い、研究を共にすることのできた友人達の思い出話なのです。 (訳 こじま ひでお)