パラダイム・創造性・科学革命

 

いったん科学者の間にパラダイムが成立すると、それは彼らを拘束し始める。これから生じる決定的弊害を、第一線で活躍する科学者の立場から考察する

 

赤祖父俊一

 

 歴史が単に過去の事件の年代記に終っては興味がないのと同様に、科学史が単に科学発見史にとどまってしまっては意味がない。

トーマス・クーン(Thomas S. Kuhn)は1962年に、The Structure of Scientific Revolution (邦訳『科学革命の構造』)という著書で「パラダイム」(Paradigm)、「通常科学」(normal science)という概念を導入して、科学者が科学史から本当に何を学ぶべきかについて画期的な意見を述べた。多くの科学者は、科学の急速な進歩、激しい競争で忙しく、科学史などは歴史家や哲学者の余興の種でよいとしているが、忙しければ、それだけにまた科学史の流れの中で自己を発見することも無意義ではない。

 

1。パラダイムと通常科学

話をまずクーンの観察からはじめよう。科学史をひもといてみると、科学の各分野で、一つのグループの科学者の間に、理論的な仮定と、その仮定の枠内で解決されるべき問題の両方について、高度に考え方の一致する期間がある。その結果出来上がる研究の首尾一貫した因習を「パラダイム」と定義する。さらに、その結果として生まれてくる科学を「通常科学」と定義する。しかし、ここでは、この定義を理解しようとしたり、こだわったりせず、話を進めてゆこう。クーンのパラダイム論に批判も多いが、定義にこだわり、議論が問題の本質から遠ざかってしまっては、元も子もない。

パラダイムをわかちあう科学者のグループは、同一の慣習、慣例、法則に従う。そして通常科学に従事する科学者のグループは、結局その慣習、法則を基礎にした演習を行うにすぎない。例えばニュートン力学のパラダイムでは、「時間」「空間」「質量」というような〈確立〉された固定観念があり、その範囲内でのみ科学者は研究に従事した。固定観念からはみだして「時間」と「空間」とは関係があるとか、質量は速度で変るとか、「質量」は「エネルギー」に変換できる、などとは考えない。ニュートン光学では、光は「粒子の流れ」という固定観念があり、その見解のもとに研究が行われた。光が波のような性質ももっている、などと考えてはならない。

もっと身近な例を物理学にとると、ある現象を記述すべく、ある物理学者が一つの方程式を提案するとしよう。すると、この方程式こそ、その現象の基礎方程式で<あるとする>科学者のグループが出来上る。そのグルーブではもちろん<あるとする>、すなわちそう仮定することで全員が一致し、その方程式を中心に研究が進められる。

したがって、通常科学の研究問題は、ちょうど<はめ絵>のパズルのようなものである。まず第一に、解が約束されている。すなわち上の物理学の例でいえば、その基礎方程式が解ければ問題の現象は<記述できるはずである>、というより、<記述できる>とする。それは、あたかも教科書の凡例;練習問題のようなものである。実はパラダイムの語源の一つは「凡例」である。第二は、パラダイムの法則、慣例に従わなければならない。はめ絵のパズルの例でいえば、全部の片を使わねばならない。各片が組合うように組合わせなければならない。穴が出来ないように組合わせなければならない。たとえ、その慣習に従わない絵が、出来上るべき絵より面白いものであっても、それは〈解〉としては許されない。ニュートン光学で、光は波のような性質ももっているとすると、ある矛盾が氷解するとわかっても、そう仮定することは許されない。

科学の各分野は、その大部分の期間を通常科学の段階ですごす。その意味で、現在では、通常科学という述語より「通常期間」という言葉の方が使われている。したがって、大部分の科学者はほとんどの時間をバズルを解くことですごす。すなわち、パラダイムで与えられた問題と解を理路整然と系統立ったものとするため、解を立証・確証するため、解の厳密・精密・詳細をきわめるため、残余のあいまいさを取り除き、異例を調和させるためにすごす。ある意味で研究医より開業医に近く、仕事は俗にいえば片付け作業のようなものとなる。とはいえ、オイラー、ラグランジエ、ラプラス、ガウスなどの大数学者が、ニュートンの創造した力学のパラダイムを理路整然とした力学論に仕立てるために一生を費やしたことを考えてみれば、一般の科学者が何も恥ずべきことでも、自嘲することでもなく、当惑すべきことでもない。それであればこそ、科学は長い目で見れば進歩するのである。

 

2。パラダイムから生じる弊害

しカヽし、パラダイムが成長し始めると、決定的弊害が起きてくる。それが問題の本質であり、これを論ずるのがこの小文の目的である。それは、パラダイムを共有する科学者グループがその慣習・法則にもとづいた固定観念にこだわりはじめ、結局は完全にこだわってしまうことである。

これはもちろん科学者個人についてもいえることで、どんな偉大な科学者でも限界があることを示す。アインシュタインでさえ、自然とは完全に客観的に観測できるもの(“out there”)という観念から脱することができなかったし、また「神はサイコロをもてあそばない」という名句を使って、量子力学の波動関数の確率的解釈を受け入れなかったという面もあり、ボーアから冗談まじりに、“アインシュタインさん、神に何をすべきか、とやかくいうべきではありませんよ”とたしなめられている。また、ごく最近のアメリカ物理学会誌Physics Todayでワリー(K.C. Wali)は「チャンドラセカール対エディントン―予期しなかった対決」という記事を書いており、その中でエディントンという偉大な天文学者が固定観念から脱けきれず、チャンドラセカールの学説を受け入れなかった事情を詳しく述べている。このような、科学者個人の限界の話はきりがない。この限界はオリンピックの100メートル競走のメダル保持者に限界があることに相当する。ただし、オリンビックでは次々と新人が記録を更新してゆけるが、科学の世界では、新人は前の記録保侍者が道をゆずってくれるか、彼をつきとばさなければ新記録はつくれない。ベブリッジ(W.I.B. Beveridge)はThe Art of Scientific Investigation (邦訳『科学研究の態度』)の中で、既成観念に固執する学者を、ゆでてしまったタマゴをあたためているメンドリにたとえているのがおもしろい。

クーンのパラダイム論は、科学の世界ではこのような問題が、科学者個人、個人で起きるほか、もっと深刻な問題は、この現象が集団で起きることを指摘し、解析しているのである。通常科学のこの弊害が進行してくると、特に科学にとって最も大切な若い科学者がパズルを解くことにだけ魅惑され、一つのパラダイムの狂信的な支持者になり、さらに排他的にさえなる。というより、パラダイムの指導的立場にある科学者が意識的に、または無意識的に、大切な若い科学者をそのように育ててしまうのかもしれない。(政治的極左。極右をきらって嘲笑する科学者も、それに近いことをしている可能性がある。)科学者は誰でも学習の段階をすごさねばならないが、その学習が習慣になり、固定観念を植えつけてしまうのかもしれない。(これを聞いた私の学生たちが、もう電磁気学演習はしなくてもよい、と冗談に言っていたが、これは次元の違う話である。)したがって大部分の科学者は、たぶん芸術家より一般に独立していないかもしれない。(これは、筆者には芸術の世界がわからないので確言はできないが。)

科学の世界では、各分野に一つのポピュラーなモデル―(パラダイム)がある。それはたいてい一人の科学者によって創造されたものである。先の物理学の例を使えば、一人の物理学者がある現象を説明するために、ある一つの基礎方程式を提案することである。天体物理学や地球物理学では、現象論の場合も多い。そのモデルがポピュラーになりはじめると、多くの科学者がそのモデルにむらがり、〈改良〉することを試みる。その行動は、有名な絵、例えばレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」の絵に微細な〈改良〉を試みることに相当する。モナ。リザはもっと大きなえくぼをもっているとか、ほくろがどこにあるか、というたぐいである。基礎方程式でいえば、その基礎方程式をわずかながら変形するとか、初期条件・境界条件をささいな範囲で変えることに相当する。それはそれでよい。科学はそれでもわずかながら進歩する。

問題は、モナ・リザの絵以外の絵が完全に忘れ去られ、かえりみられなくなることである。モナ・リザの絵を改良しなければ、科学者として人並みに扱われなくなることである。また、それ以外の絵に注目することは、科学者の自殺行為でさえあり得る。筆者の学生時代、「大陸移動」という言葉は地球物理学者の間では禁句であった、といわれているが、今では逆である。

 

3。パラダイムヘの信頼に対する危機感

しかし究極的には、そのパラダイムでは解けない問題、異例、バラドックスが、一つ二つ登場してくる。それは篭の中に<くさった>リンゴが一つ見つかったといった情況であり、それは偶然一つまざっていると判断される。やがて異例が次々と現われはじめると、グループのパラダイムに対する信頼が次第に侵食されてくる。この信頼に対する危機感は、パラダイムを共有する共感がこわれはじめることを意味する。

この危機にあるパラダイムから新しいパラダイムヘの転換、すなわち「科学革命」は、現存するパラダイムが研究を行うために十分に機能していないという危機感が増大し始めることによって生じてくる。先の基礎方程式の例でいえば、一つの物理学者のグループが共有する基礎方程式では矛盾に遭遇することが多くなり、その基礎方程式では問題の現象を説明できないのではないか、という危機感を覚え始めることに相当する。(クーンはこれを集団的に考えているが、一般には、この危機感は一人の科学者にだけ芽生えて成長し、他の科学者はまった<〈感覚〉しない>場合も多くある。)

いずれにせよ、この〈感覚〉は、ちょうど<くさった>リンゴが一つ発見された後に、かごを精密に検査すればするほど、<くさって>いるリンゴの多いのに気がつくのに似ている。

しかし、クーンの観察によると、科学者は一般的には重大な危機や、いつまでもつきまとう異例、反例があっても、それには反応しない。彼らは今までの慣習、法則をぎりぎりの線まで延長し、パラダイムへの信頼感を失い始めても、それだからといって、パラダイムそのものを放棄したり、否認したりはしない。彼らはパラダイムに次々に出てくる矛盾を除こうと、いろいろ異なった系統立った方法を生み出したり、理論の修正を試みる。そして、あまり勝手に仮定をつけ加えていくうちに、共有している仮定とそうでない仮定の間に混乱がおき、グループの性格が変化してしまう。先の例でいえば、共有する基礎方程式の<問題の現象>への適用性については疑わず、式の根本に関係のない変形を試みるのである。

問題が解けないと、ちょうど教科書の練習問題の場合のように、それは科学者の不面目にはなるが、パラダイムの根底にある概念、理論、基礎方程式を信用できないものとはしない。その極端な状態をケスラー(A. Koestler)は、彼の著書The Art of Creation (邦訳『創造活動の理論』)の中で「集団的知能封鎖」と呼んでいる。さらにベブリッジはThe Seeds of Discovery(邦訳『発見と創造』)の中で、パズルを解決するにはパラダイムで支えられた法則一つしかないという錯誤に、科学者は集団としておちいる、と言っている。先の基礎方程式でいえば、それ以外の基礎方程式は考えられないし、また考えることを許さず、もしそれ以外の方程式を提案すれば、それは邪道であると決めつけるようになる。少々脱線を許していただけるならば、豊臣秀吉が侍あがりで、なまじっかな侍兵法を学んでいたなら、合戦をせずに中国地方を平定するというような芸は、邪道と考えてできなかったかもしれない、という推定も可能である。

オーロラ科学の例をとると、一時オーロラの問題はすべて電磁流体力学で論ずるべきである、とした時代があった。1962年から1975年のことである。この分野では一般的に磁力線に沿って電場はないとして理論を展開する慣習があり、磁力線に沿って電場があり得ると暗示したアールヴェン(H. Alfvén)は、電磁流体力学の創始者であるにもかかわらず異端者として扱われた。

 

4。新しいバラダイム候補の出現

クーンはさらに観察を統ける。科学者は異例、反例に対決させられただけではパラダイムを放棄しない。新しいパラダイムの候補が古いバラダイムの位置にとって代って、はじめて古いパラダイムは無効と宣告される。新事実だけでは、生き延びた古い理論を滅ぼすことは出来ない。科学者は観測に忠実であることになっているが、科学者自身は測定器具を備えたロボットではなく、<信号>と<雑音>のより分けは科学者の主観によるところが多く、特に、ある一つの通常科学の末期には、反例などはまったく考慮されないことが多い。

新しいパラダイム候補の出現は、過去の知識の累積作用にはよらない。すなわち、古くなったパラダイムを理路整然と系統立てることから生まれるものではない。空想力、想像力に加えて、突然の霊感ともいうべきひらめきにもとづく独創によることが多い。直感的な、非論理的な、芸術的で優美な、新奇な、それにもましてケスラーの言う<非科学的>な創造によることが多い。これは、古来から偉大な科学者が述べてきたことで、今さら何もつけ加える事はない。独創は科学、芸術に限られたものではなく、孫子の兵法にも、宮本武蔵の『五輪書』にも、その必要性が述べられている。

ここで強調したいことは、〈非科学的〉とは、論理的に精密をきわめて考察を進めても、古いパラダイムを基礎にしていては、突破口は発見できないということである。基礎になる物理方程式が問題に適合しなければ、いかにもがいても問題は解けない。ニュートンの運動方程式では、光速に近い速さで動く物体の運動は、なんとしても絶対に記述できないのである。科学研究の真髄とする創造は、学問とは単に古典(またはパラダイム)を学ぶこと、学習すること、と考えていては、できないということである。

この<非科学的>な創造という意味では、科学者と芸術家の間に相違はない。突然の霊感のひらめきで、科学者、芸術家、詩人、音楽家も、彼らの対象とするものを抽象する。そしてそれを数式、絵、詩、音楽で表現しようとする。科学者にとってこの抽象作業は、基本となる方程式を選び、その式の中の最も大切な、本質と感ずる項を選び、初期条件およぶ境界条件を簡単化し、ほかのすべてを無視することである。実際に、科学者は論文の中で「無視する」という言葉を使って、自分の選択を宣言する。

[この科学をするという作業、研究の対象となる実体を、方程式を使って描写し表現することは、日本や東洋では文化活動とはみなされなかった。すなわち異質文化であった。この西欧文化の特産物の一つの大きな弊害は、実体を描写することは実体そのものを把握することよりも遥かに容易であるため、実体そのものと表現されたものとを混同してしまうことである。これはボーア、ノヽイゼンベルグなどによって指摘されてきたし、カプラ(F. Capra)の著書The Tao of Physics(邦訳『タオ自然学』)にくわしい。しかし、この問題はここで論じている問題から少々離れる。]

横道にそれたが、先の方程式、初期条件、境界条件の選択は、もちろん科学者によって異なるはずである。したがって、異なったモデルが生まれてくる。それは同じ対象物であっても、異なった芸術家によって異なった絵が描かれ、異なった詩人によって異なった詩が創作されることに相当する。ピカソの描く少女の絵が、われわれの描くものと異なるのは当然である、

ここで大切なことは、ヘツセ(M.B. Hesse)Revolutions and Reconstructism in the Philosophy of Scienceの中で言うように「観測事実に、原則として多かれ少なかれ適当に適合する理論は、無限にあり得る」ということである。一つのパラダイムを共有する科学者の間では、これが忘れられてしまう。

科学史をひもとけば、一般に<真理>と言われているものは、単に現代の専門家の間で一致した論理に過ぎない、ということがすぐわかる。しがって、この<真理>は、時代とともに科学革命によってどんどん変ってゆく。現在の科学の急速な進歩からすると、一つの<真理>の寿命は10年程度である。科学者は誰でも、学術書が次々と時代おくれになることから、このことをよく知っているはずである。ところが、一つのパラダイムに属すると、すぐこれを忘れてしまう。ギジシアのある哲学者は「窮極的真理とは、単に一つの推測によって編まれた織物にすぎない……」と言ったといわれるが、科学が進歩したと言われる20世紀の今日でも、これはまさに科学の真髄をつく言葉である。新奇なアイデアに対して、「もし彼のアイデアが正しかったら、われわれはみな気が狂っていることになる……」といった表現が、パラダイムの指導者から聞かれることがしばしばあるが、これは上述の厳粛な事実をわきまえていないことを証明するようなものであり、その指導者の浅薄さを証す以外の何物でもない。

 

5。異例・反例に対する〈感覚〉

前にも述べたように、ほとんどの科学者は実際問題として常に一つのパラダイムに属し、パラダイムの慣例、法則に束縛されているから、異例、反例らしきものが発見された場合、それが本質的なものか、あるいは見掛け上のものかを区別する<勘>または<感覚>を養わなければならない。原子物理学の父といわれているラザフォードが、彼の実験結果がヘリウムのアイソトープであれば説明がつくことに気づき、夜中にもかかわらず助手を電話でたたき起した。助手が“なぜ、そのように…・‥”というのに答えてラザフォードは、“理由か、理由か、勘で分かるから言っているのだ”と答えたそうであるが、これは実験家の<感覚>であろう。アインシュタインは、神が彼に「鋭い嗅覚」を授けてくれたことに感謝すると言ったそうであるが、これは理論家の<感覚>であろう。本当の研究者養成教育とは、この〈感覚〉を育成することである。<くさった>リンゴが籠の中に見つかったとき、<くさった>のはそれだけか、他のリンゴも<くさって>いるかを判断する〈感覚〉である。いずれにせよ、他の科学者の総合論文を頼っては元も子もない。ほとんどの総合論文は、<くさって>いるのは一つだけと教えてくれるだけである。バラダイムとはそういうものである。(科学総合論文雑誌の編集者の一人である筆者が、こういうことを言うのは申し訳ないが、問題は総合論文の読み方である。)

そして、さらに大切なことは、他のリンゴも<くさって>いると確信したときは、他の科学者が一つだけであると主張し、断言しても、自分自身で篭を処理ずることを考えなければならない。処理とは放棄することだけではない。ほとんどの場合、古いバラダイムはー面の真理をもっている。真理とは超多次元のものであり、新しいパラダイムは多くの場合、古いパラダイムに一つ次元が加わってゆく。すなわち、古いパラダイムを一次元高い観点より解釈できることが多い。アインシュタインの特殊相対性理論が出現したからといって、ニュートン力学は放棄さるべきものでなく、月ロケット、宇宙探査船の軌道計算に十分使える一次元低い理論として見直すことができる。プランクの黒体幅射の式は、前からあったレイリーの式とウイーンの式を統一し、この現象の理解の次元を高めた。(もっともクーンは、もっと厳しく、このような考えを否定している。)

 

6。新しいパラダイムをめぐる闘争

新しいパラダイムを創造する<非科学性>は、その容認をめぐって必然的に闘争をよぶ。新しいパラダイムが出現する時点において、古いパラダイムはすでに数学的に詳細をきわめている。したがって、古いパラダイムを分かちあう科学者のグループは<非科学的>創造を批判するのに、数学的厳密性を強力な武器として使用できる。そして創造作品の非厳密さをもって、決定的な欠陥があるという印象を与えることができる。ある現象を説明するために提案された基礎方程式が、その現象に適合しなければ、その方程式をいかに正確に、すなわち、たとえ大型コンピューターを使って非線形を考慮して解いても、その現象の説明にはならない。それがためにこそ、パラダイムの危機が訪れているのであるが、その時点でも新しいパラダイムの非厳密さを批判する。例えば、「…線形近似では話にならない」というたぐいである。実際、物理学、天体物理学、地球物理学の分野でのパラダイムの末期的症状の一つは、数理物理学者だけがその分野を我が物とすることである。多くの物理学者が指摘してきたように、これは根本になる物理的考察が忘れられてしまうからである。これに関連してジィマン(J Ziman)はReliable knowledgeおいて、地質学という進歩した分野で地質学者が、数理物理学者の一言で、大陸移動の第一級の証拠である化石、岩石、大陸の形状などの事実を50年もの長い間打ち捨ててしまったのは、まことに理解できない、と言っている。

先駆的な論文は、定義といってもよいくらい、厳密ではあり得ない。その非厳密さを厳密にすることこそ、パラダイムの任務であり、パラダイムと通常科学の意義がある、というものである。

新しいパラダイムの候補が出現すると、古いパラダイムに従う科学者は、一般社会人と同類の反応を示す。ケスラーの観察によると、「他の一般社会と同様に、彼らは意識的に、または無意識的に、現状維持に傾く。それは反主流的な革新が古いパラダイムの権威を脅かすからであり、また彼らが苦労して築き上げてきた知的な大建築が、衝突によってこわれはしないかと深刻に恐れるからである。」

クーンはこの社会革命との類似性を指摘して、パラダイムの転換を「科学革命」と呼んだわけである。「科学の<権力機構>(establishment)は高度に保守的であり、古いパラダイムの支配層に対する反逆者に対して、彼らの権力を維持する方法を考え出す」と、グラジィア(A. de Grazia)はVelikowsky Affairの中で、有名なベルコフスキー論争を論評して言っている。(クーンの論文その他、関連する論文に出てくる“establishment’という言葉を“制度”と訳している人がいるようであるが、少なくともこの場合には意を得ていない。)古いバラダイムの科学者は、新しいパラダイムの創造を、次のような形容詞をもって迎える。

空想的、無経験、無知、刺激的、定性的、主観的、思惑的、独断的、立証不可能、洗練されていない、反正統的、反伝統的、乱暴な、怪奇な、こじつけの、気の狂った、ばからしい、白痴的、少数派意見、反逆的、神秘的、不正直、……

と、きりがない。したがって「先駆者は科学権力機構の外辺ぎりぎりのところで―人立ちせざるを得ない」と、ベブリッジは言う。さらに彼によると、これは人間のオリジナジティに対する本能的な反応で、洋傘を発明して、はじめてロンドンの街を歩いた人に対する嘲笑と、本質的に同じであるという。

古いバラダイムが倒れ、新しいパラダイムが出現する直前の期間には、科学者は最も激烈な論争に巻きこまれる。窮極的にはパラダイム候補の一つが、新しいパラダイムの地位を確立する。その理由は、その候補が他の候補に比較して古いパラダイムの異例、反例を多少よけいに解決できることによる。そしてこのようにして確立された新しいパラダイムは、独創的、エレガント、優美というような形容詞をもって迎えられることもあるし、そんなことは昔からわかっていた、といわれる場合も多い。

 

7、新しいパラダイムの確立

新しいパラダイムの出現は、かならずしもその分野の進歩を意味するものではない。ケスラーは言う。「進歩は定義として誤った方向に進行しない。ところが、進化はどちらの方向にも進行する」。厳密を期する科学も同じである。ラングレー(S.P. Langley)は、科学の進歩は、真理に向って軍隊が堂々と行進して行くようなものではない、と言い「……猟犬の一群にまったく似ていないというわけでもない。すなわち窮極的には獲物を捕えるかもしれないが、途方にくれると一匹一匹別々の方向に走り、ある犬は前進し、ある犬は後退し、一番やかましくほえたてる犬は、多くの犬を正しい方向、あやまった方向に同じ比率で、ときには全部をとんでもない方向に率いていってしまう……」と述べている。

20世紀の科学にそんなことが起こり得るか、と疑う者もあるかと思うが、例をあげればきりがない。例えば、オーロラ科学では、オーロラ現象は電磁流体力学の方程式を解くことに帰着する、というバラダイムがあったことをすでに述べた。それに反対したアールヴェンは、電磁流体力学の創始者でありながら、反正統的異端者として取り扱われたこともすでに述べた。このパラダイムでは、磁力線に沿って電場はないという仮定をめぐって、科学者の間に高度の一致があった。ところが、この電場こそ、実は肝心要の解であることが、ここ数年来わかってきた。すなわち、最初の仮定によって、「電磁流体カ学の教えるところによれば……」として、解を投げ捨ててしまっていたのである。したがって、如何にもがいても解は出てこない。このようにして、オーロラ科学は少なくとも10年後退した時期があった。

このような混乱は、後世の教科書の編集者によって除かれてしまうだろう。したがって、学生が学習をするときには、科学とは、単調に、漸近的に真理に向って進行するもの、という錯覚を起こさせる。将来の科学教育では、この点を考慮すべきではないだろうか。先に述べた<感覚>は、そんなことから自然に育つのかもしれない。

 

8。科学創造の人間臭さ

現在の民主主義という社会制度は、人間がそれをつくり上げるまでに、何回も王を断頭台に送り、その血煙りの中で育ってきた、といえよう。科学教育でも、科学者が如何に迷い、躓きながら歩んできたかを教えるべきであろう。科学の歴史の中には、人間の葛藤もある。ガリレイの地動説についての宗教裁判は誰でも知っているが、その一因が彼の個人的葛藤によることを知る人は少ない。

今世紀後半のDNAの二重らせん構造の発見にいたる歴史は、葛藤とまでいかなくとも、それに近い。これについてはワトソン(J.D. Watson)が著書The Double Helix(邦訳『二重らせん』)で述べている。

パラダイムをめぐっての論争は、論争というより社会階級闘争的様相を呈することがしばしばである、すなわち、古いパラダイムは権力機構となる。例えば、地質学の歴史は、ある意味でノヽツトンにはじまる「斉一説」(Uniformitarianism)とキュビエを元祖とする「天変地異脱」(Catastrophism)の闘争の中で育ってきたともいえる。「斉―説派」はどちらかというと権力階級的で、「天変地異説派」を反正統的とみなしてきた。「恐竜の絶滅」をめぐってのこの論争、いや闘争は、今も続いているといえよう。

科学革命について、このように長々と書き続けているのは、科学創造がこのように人間臭くてリアルであることを認識しなければ、科学の創造などはできないからである。これは先にも述べたように、<真理>とは科学者の共同体(科学社会)に受け入れられるものでなければならないという、現在の科学の行き方の必然性によるからである。逆説的にいうと、本当の真理に近い創造ほど受け入れられないのかもしれない。

新しいパラダイムが出来上ると、それに導かれて科学者は新しい研究器具をととのえ、新しい研究を始める。しかし、重要なことは、たとえ古い器具を使って今まで見なれてきたものを見ても、新しく異なったものに見えることである。クーンは「アヒルであったものが、科学革命後にはウサギに見えてくる」と言っている。偉大な天文学者ジェームス・ジーンズによると(1930)、太陽は単に消滅する運命をもった火のかたまりであったが、星の進化論のパラダイムの成立した現在では、核融合のるつぼであると考えられている。(この星の進化論のパラダイムは、現在、太陽ニュートリノの異例に直面している。)先のリンゴのたとえで言えば、<くさって>いたと思ったリンゴは、実はミカンであったというたぐいである。

ここで強調したいのは、前にも述べたように、科学者はロボットではないから、観測<事実>は、時のパラダイムに強い影響を受ける。多くの科学者が、対象物はリンゴであると言うとそれがリンゴに見えてくるし、ミカンであると言うとミカンに見えてくる。そして、ミカンであるということを証明立てる実験、観測、論文があとをたつことなく発表される。これもパラダイムの影響で、そのような論文が発表しやすいということによる。

こうして<祝福>されて確立される新しいパラダイムも、結局は一般社会と同様に、間もなく革命が新しい主流派、正統派をもたらし、ケスラーが言うように「主流派はその避けがたい徴候として一方的になり、専門化しすぎ、他の分野との接触もとだえ、究極的には真理からも疎遠になる」。新しいパラダイムにしても、決して真理に到達し得ないから、やがてまた危機がおとずれ、新しい革命となり、話は循環する。ミカンであったと思ったものが実はオレンジであった、というたぐいである。すなわち科学史も繰り返す。科学社会も一般社会と異なることはない。結局、科学は人間によって創造されるものであるから、科学の歴史は人間劇であってなんの不思議はない。

 

9。無名の反逆者にささげる

科学者はみな、科学大革命については十分学んでいる。アインシュタイン、ダーウィン、ウェゲナ一の業績は、物理学、生物学、地球科学におけるフランス大革命に相当する。それゆえ、前にも述べたように、一般の科学者にとって、科学革命は自分には無縁のもので、科学史などは歴史家、哲学者の余興の種でよいと思っている。しかし、クーンが指摘するように、われわれ自身、自分の専門分野の科学史をひもといてみれば、小さなスケールの革命は常に起きていることがわかる。したがって、科学史を学ぶことによって、現在の時点での自分の専門分野のパラダイム、自分との相対関係、自分の通常科学の<余命>や<寿命>について、冷静な判断を下せるかもしれない。筆者自身も小さなバラダイムをつくってきて、これらの点を振り返ってみているのである。またこれに関連して、科学の進歩には多くの科学者が必要であるが、そうかといって、単にバラダイムの技術者のマス・プロダクションを行っては、烏合の衆の養成に終ってしまう危険が十分にある。この点、次の世代の科学者を養成するのに、科学史は非常に重要な役目を果せるのではないだろうか。

ここでもう一度、ケスラーの言うことに耳を傾けよう。「科学の歴史には名声を博した革命家の大神殿がある。一方また、不成功に終わり、無名にして忘れ去られた反逆者たちのひっそりと眠る地下納骨室もある。」この稿を、その地下納骨堂にささげて終えることにしよう。

〔アラスカ大学地球物理学研究所〕

 

(「自然」19833月号、pp. 38-45)