ニュートン 「自然哲学の数学的諸原理」(プリンキピア)河辺六男訳(中央公論社「世界の名著」26巻) 

訳語の後の[ ]内の言葉は原語(ラテン語)の仮名読みである。訳注は原文では[ ]に入れられているが、この引用では、原注とどうように( )に入れた。

公理、または運動の法則

法則 I すべて物体は、その静止の状態を、あるいは直線上の一様な運動の状態を、外力によってその状態を変えられないかぎり、そのまま続ける。

投射体は、空気の抵抗によって遅らされず、重力によって下方へ押しやられないかぎり、その運動を続ける。各部分が凝集することによってそれら自体をたえず直線運動から引きもどしている独楽は、空気によって遅らされないかぎり、回転することをやめない。諸惑星や諸彗星といったいっそう大きな物体は、抵抗の僅少な空間中においてそれらの前進運動も円運動もともにさらに長い時間継続する。

 

法則 II 運動の変化は、及ぼされる起動力に比例し、その力が及ぼされる直線の方向に行なわれる。

ある力がある運動を生ずるものとすると、2倍の力は2倍の運動を、3倍の力は3倍の運動を、全部一時に及ぼされようと、順次にひき続いて及ぼされようとかかわりなく生ずるであろう。そしてこの運動は(常にそれを生ずる力と同じ方向に向けられるから)、物体がその前から動いていたとすると、その運動に向きが一致するときには加えられ、逆向きならば減ぜられ、斜めのとぎには斜めに加えられ、それと両者の向きに従って合成される。

 

法則 III 作用[アークテイオー]に対し反作用は常に逆向きで相等しいこと。あるいは、二物体の相互の作用は常に相等しく逆向きであること。

他のものを押したり引いたりするものはなんでも、同じだけそのものによって押されたり引かれたりする。指で石を押すと、指もまた石によって押される。馬が綱に縛りつけられた石を引くとき、馬もまた〔そういってよければ〕等しく石のほうに引きもどされる。なぜなら、張りつめられた綱は、両端においてそれをゆるめようとする同じだけのコーナートゥスによって、石を馬のほうに引くのと等しく馬を石のほうに引き、一方の進行を助けると同じだけ他方の進行を妨げるであろうからである。

*引用者注、コーナートゥスを訳者はそのまま使っているが、ラテン語のconatus = conatumは、試み、攻撃、努力、衝動などの意味を持つ。また、後出のインペートゥスも、ラテン語impetusは、殺到、突進、強烈、熱狂などの意味を持つ。

 

あるひとつの物体が他の物体に衝突し、その力によりなんらかの仕方で他方の物体の運動を変えるとすると、その物体もまたそれ自身の運動において(相互の圧力は相等しいから)、他方の力により逆向きの同じ変化を受けるであろう。これらの作用によっては速度ではなく運動量の変化が相等しい、もちろんそれらの物体が他の物体によって妨げられない場合にである。というのは、正反対の向きに行なわれる速度の変化は、運動が等しく変えられるために、各物体(の物質量)に逆比例するからである。またこの法則は、すぐ後の注解で証明されるように、引力においても成り立つ。

 

系 I 物体は合力によって、個々の力を辺とする平行四辺形の対角線を同じ時間内に描くこと。

物体が与えられた時間内に、場所〉において及ぼされた力Mだけによって一様な運動でAからBに運ばれ、また同じ場所で及ぼされた力NだけによってAからCに運ばれるとし、平行四辺形ABCDをつくると(1)、両方の力によってこの物体は同じ時間内にAからDへ対角線上を運ばれるであろう。

 

第1図

http://www.geocities.jp/hjrfq930/Science/nyuumon/newtprizu1.pdf 

 

なぜなら、力NBDに平行な直線ACの方向に作用するから、この力は法則IIによって、いま一方の力によって生ぜられる、(物体を)直線BDに近づける速度をまったく変えないであろう。したがって、物体は、力Nが及ぼされていようといまいと、同じ時間内に直線BDに達し、その時間の終わりには直線CD上のどこかに見出されよう。これゆえ物体は両直線が交わる点Dに見出されることになるであろう。ところが法則Iにより物体はAからDへの直線運動によって進むであろうからである。(以下略)

 

付録 上記引用文の前に、原文では次の定義があり、定義を先に読むべきであるが、量的な配慮から、このような配置にした。適宜、利用していただきたい。

 

 

 

 

 

 


ニュートン 「自然哲学の数学的諸原理」(プリンキピア)河辺六男訳(中央公論社「世界の名著」26巻) 

訳語の後の[ ]内の言葉は原語(ラテン語)の仮名読みである。訳注は原文では[ ]に入れられているが、この引用では、原注とどうように( )に入れた。分かりやすさを考えて、以下の文中の一部の語句を太字にした。

 

定義

 定義 I 物質量[カンテイタス マテリアエ]とは、物質の密度と大きさ[マグニトゥードー](体積)とをかけて得られる、物質の測度[メンスラ]である。

2倍の密度をもち2倍の空間を占めている空気は、(その物質量において)4倍であり、3倍の空間を占めているときは、(その物質量は) 6倍である。圧縮または液化によって濃縮される雪や塵とか粉末についても同様に考えよ。またどんな原因によるにせよ、さまざまな仕方で濃縮されるあらゆる物体についても、同じである。物体の諸部分の間の隙間に自由に浸透する媒質については、そのようなものがあるとしても、ここでは顧慮していない。そして以下すべてにおいて、物体[コルプス]とか質量[マッサ]とかいう名の下にわたくしが意味するところは、この物質量のことである。またこの量は個々の物体の重量として知られている。というのは、後で述べるように、わたしはきわめて精密にしつらえられた振子の実験によって、(物質量が)重量に比例することを見いだしたからである。

 

定義 II 運動量[カンテイトタス・モトウス]とは、速度と物質量とをかけて得られる、運動の測度である。

全体の運動は各部分における運動の和であり、それゆえ、(物質量が)2倍大きく相等しい速度をもつ物体では、(その運動量も)2倍であり、2倍の速度をもてば(運動量は)4倍になる。

 

定義 III 物質の固有力[ウイス・インシタ]とは、各物体が、現にその状態にあるかぎり、静止していようと、直線上を一様に動いていようと、その状態を続けようとあらがう内在的能力[ポテンテイア]である。

この力は常にその物体(の物質量)に比例し、質量の慣性[イネルテイア](不活動性)となんらちがうところはない。言い表わし方がちがうだけである。物体がすべてその静止の状態、あるいは運動の状態からたやすく移されることがないのは、この物質の慣性によるものであろう。このことから固有力は、いちばんよく内容を表わす名前として、慣性力[ウイス・イネルテイァ]と呼ぶことができよう。しかし物体は、それに加えられた他の力が物体の状態を変えようとする場合にだけ、この(固有)力を働かせるにすぎない。またこの力の働きは抵抗[レシステンテイア]とも、インペートゥスともみることができる。物体が、その現在の状態を保つため、加えられた力にあらがうかぎりにおいては、これは抵抗である。一方、物体が障害物の抵抗力に容易には屈せず、その障害物の状態を変えようとする点では、それはインペートゥスである。人は普通、静止している物体については抵抗とみなし、運動している物体においてはインペートゥスとしている。しかし運動しているか静止しているかは、通常考えられているように、相対的に区別されるにすぎず、一般に静止しているようにみられているものが、かならずしも真に静止しているとはかぎらない。

 

定義 IV 外力[ウイス・インプレツサ]とは、物体の状態を、静止していようと、直線上を一様に動いていようと、変えるために、物体に及ぼされる作用[アークテイー]である。

この力は作用のうちにだけあって、作用が終わればもう物体中には残っていない。なぜなら、物体はあらゆる新しい状態をその固有力だけによって維持するものだからである。そして外力は、打撃からとか、圧力からとか、向心力からとか、さまざまな原因による。

 

定義 V 向心力[ウイス・ケントロペタ]とは、中心とするある一点に向かってあらゆる方向から、物体が引きよせられたり、押しやられたり、またはなんらかの形でそのほうに向かわされるところのものである。

この種の力は、諸物体を地球の中心に向かわせる重力とか、鉄を磁石に引きよせる磁気力とか、どのような性質のものであるにせよ、諸惑星が直線運動からたえず引きもどされ、曲線上を回転させられる力とかである。石投げ器でふりまわされている石は、それをまわしている手から遠ざかろうとし、そのコーナートゥスによって、速くまわされるほど強く、石投げ器を張りひろげ、放たれたとたんにとび去ってしまう。このコーナートゥスと逆向きの、石投げ器が石をたえず手のほうに引きもどし、その軌道上に保たせる力を、軌道の中心である手のほうに向けさせるところから、向心力とわたくしは呼ぶのである。そして事情は、円上に動かされるあらゆる物体について同じである。それらはすべて軌道の中心から遠ざかろうと努め、そしてもしこのコーナートゥスと逆向きの、物体をその軌道にとらえとどめておく力、それゆえ向心力と呼ぶのであるが、それが存在しないとすると、物体は直線上を一様な運動をもって離れ去ってしまうであろう。投射体が、重力に作用されないとすると、地球のほうに曲がらず、一直線に空にとんでいってしまうであろう。

そしてそれは、空気の抵抗がとり去られたとしたら、一様な運動でもって行なわれるであろう。投射体はその重力によって直線径路から引きもどされ、地球のほうにたえず曲げられるのであるが、その大小はそれの重力と運動の速度とに比例する。その物質量に比例する重力が小さいほど、または投げだされる速度が大きいほど、投射体は直線径路からそれることが少なく、遠くにまで達するであろう。ある山の頂上から火薬の力で水平方向に打ちだされた鉛のたまが、地上に落下するまでに、曲線に沿って2マイルの距離に達したとすると、それは、もし空気の抵抗が除かれるならば、2倍に速度でもっては約2倍遠くに達し、10倍の速度では約10倍遠くまで達するであろう。そして、速度を増すことによって、思いのままに投射される距離を増すことができ、描かれる曲線の曲率を減らすことができよう。そして10度、30度、または90度の()距離に落下するように、あるいはまた地球全体をひとまわりするようにも、また最後には、(地球には帰ってこないで)天空中に進み入り、その前進運動によって無限遠にまで達するように、できるであろう。また投射体が重力によって軌道のほうに曲げられ地球全体をまわるようにできるのと同じ理由で、月もまた、それが重量を持っていさえすれば重力によって、あるいは(月を)地球のほうに押しやる何か別の力によって、直線径路からいつも地球に向かって引きもどし、その軌道のほうに向いているようにできる。そのような力がなければ、月はその軌道の上に維持されえない。この力は、あまりに小さすぎると、月を直線径路から十分には曲げないであろうし、大きすぎれば、曲げすぎて、月をその軌道から地球に向かって引きおろしてしまうであろう。いうまでもなくちょうどぴったりの大きさであることが要求される。そして、物体を与えられた任意の軌道に与えられた速度で正確に維持させうる力を見出すこと、また逆に与えられた任意の場所から与えられた速度で出発した物体が、与えられた力によって、曲げられ辿らされる曲線経路を見出すことは、数学者の仕事である。この向心力の三種類の量とは、絶対値、加速量および起動量である。

 

定義 VI 向心力の絶対量[カアテイタス・アブソルタ]とは、力の原因がそれを中心からまわりの領域中に伝える効果[エフイカークス]の大小に比例する、向心力の測度である。

磁気力は、磁石の形の大小や強弱の度合いに従って、ある磁石では大きくある磁石では小さい、というようにである。

 

定義 VII 向心力の加速量[カンティタス・アッケレラトリクス]は、この力が与えられた時間内に生ずる速度に比例する、向心力の測度である。

たとえば、同じ磁石の力でも距離の小さいところでは強く、大きな距離では弱い。また重力は谷では大きく、高い山の頂上では小さい。地球本体からはるかに遠くへだたったところでば〔後に示されるとおり〕さらに小さくなる。しかし相等しい距離ではあらゆる方向において同じである。あらゆる落下物体は〔重いものでも軽いものでも、大きなものでも小さなものでも〕、空気の抵抗を除けば、等しく加速されるからである。

 

定義 VIII 向心力の起動量[カンティタス・モトリツクス]とは、(この力が)与えられた時間内に生ずる運動に比例する、向心力の測度である。

たとえば、重量は大きな物体ほど大きく、小さな物体ほど小さい、また同じ物体では、地球に近いほど大きく、天空では小さい。物体全体の向心性すなわち中心に向かう傾向、または〔わたくしはそのように呼ぶであろうが〕重量は、この種の量である。それは、ちょうどその物体の落下を妨げうるだけの、反対方向の相等しい大きさの力によって常に知ることができるものである。

カについてのこれらの量を、簡単のため、起動力[ウイス・モトリツクス]加速力[ウイス・アツケレラトリクス]絶対力[ウイス・アブソルタ]の名で呼ぶことにし、区別のためにそれらを、中心に向かう物体に、その物体の場所に、力の中心に、関連づけることにする。すなわち、起動力は、物体の各部分が中心に向かうコーナートゥスから合成される全体の中心に向かうコーナートゥスとして、物体に関連させ、加速力は、その中心からまわりのあらゆる場所に広がりそれらの場所にある諸物体を動かす、

ある効果[エフィカータス]として、物体の場所に関係づけ、そして絶対力は、ある付与された原因、それがないとしたら起動力がまわりの領域中に伝えられないようなものとして、その中心に関係させるのである。その原因が、ある中心的な物体(磁気力の中心にある磁石とか、重力の中心にある地球とか)であろうと、まだ現われていない他のなにものかであろうとかまわない。ここでは、(力の)数学(的概念)がとりあげられているにすぎない。わたくしはいま、力の物理的な原因や所在を考察しているのではないからである。

そういうわけで、加速力は起動力に対して、速度が運動に対するのと同じ関係にある。というのは、運動量は速度に物質量をかけて得られ、また起動力は加速力から同じその物質量をかけて得られるからである。なぜなら物体の各微小部分における加速力の作用の和が物体全体の起動力だからである。したがって、加速的な重力すなわち重量を生ずる力が、あらゆる物体において同じである地球の表面近くでは、起動的な重力すなわち重量は、その物体(の物質量)に比例する。ところが加速的な重力がより小さくなる領域に上がると、そこでは重量も同様に減少し、常にその物体(の物質量)と加速的な重力との積に比例するであろう。それで加速的な重力が半分に減るような領域では、(地表で)1/2または1/3の物体の重量は、1/4または1/6になるであろう。

さらに引力や衝撃についても、同じ意味で、加速的および起動的と呼ぶことにする。また引力とか、衝撃とか、中心に向かわせる任意の種類の傾向とかいった言葉は、区別なくたがいに無差別に使い、それらの力は物理的にではなく数学的にだけ考えられなければならない。だから読者は、これらの言葉によってわたくしが何かの作用の種別または仕方ないし作用の原因または物理的理由を規定するものとは、どのような箇所においても考えないように、あるいはわたくしがたまたま、中心から引かれるとか、力が中心に属するとかいったとしても、ある中心(それは数学的な点である)に現実にかつ物理的に力を付与するものとは考えないように、注意されたい。

 

注解 

これまでは、あまり知られてはいない言葉を以下においてどのような意味にとるべきか、という説明がみられました。しかし、時間、空間、位置、運動については、だれにでもよくわかっていることとして、規定しませんでした。ただ注意すべきことは、人々はそれらの量を、感覚でとらえられる対象についての関係から以外では考えていないということです。そしてそこから若干の偏見が生じ、その偏見をとり去るためには、それらの量を、絶対的なものと相対的なものに、真のものと見かけ上のものに、数学的なものと日常的なものに、区別するのが適当でしょう。

 

I 絶対的な、真の、数学的な時間は、それ自身で、そのものの本性から、外界のなにものとも関係なく、均一に流れ、別名を持続[ドウラチオ]ともいいます。相対的な、見かけ上の、日常的な時間は、持続の、運動による(精密にしろ、不精密にしろ)ある感覚的で外的な測度で、人々が真の時間のかわりに使っているものです。一時間とか、一日とか、ひと月とか、一年とかいうようなものです。

 

II 絶対的な空間[スパテイウム・アブソルトウム]は、その本性として、どのような外的事物とも関係なく、常に同じ形状を保ち、不動不変のままのものです。相対的な空間は、この絶対空間の測度、すなわち絶対空間のどのようにでも動かしうる広がりで、われわれの感覚によってそれの物体に対する位置より決定されるものであり、人々によって不動の空間のかわりにとられているところです。地球に関するその位置によって決められる、地下空間の広がりとか、大気圏の広がりとか、天界の空間の広がりとかいったものです。絶対空間と相対空間とは形も大きさも同じですが、数値的にはかならずしも同一とはかぎりません。なぜなら、たとえば、地球が動いているとすると、われわれの大気圏は相対的には地球に関していつも同一のままですが、ある時刻には空気が突入し通過する絶対空問の一部であり、他の時刻には絶対空間のまた別の部分であって、したがって絶対的にみれば、地球大気の空間はたえず変わっているであろうからです。

 

III 場所は物体が占める空間の一部であり、その空間が絶対空間であるか相対空間であるかに従って、絶対的な場所となり相対的な場所となります。わたくしは空間の一部を場所といっているのであって、物体の置かれている位置をいっているのでもなければ、物体をとりかこむ表面をいっているのでもありません。というのは、相等しい固体の占める場所は常に等しいのですが、それらの表面は、形がちがうために、しばしば等しくないことがあるからです。また位置[シトウス]というのは本来大きさをもたないもので、場所がいろいろな性質をもつほどには、場所自体になりかわれないものです。全体の運動はその部分の運動の和と同じです。すなわち、全休のそれの場所からの移行は、その各部分のそれぞれの場所からの移行の和と同じものです。それゆえ全体の場所は部分の場所の和と同じであり、したがって物体全体の内部です。

 

IV 絶対運動[モトウス・アブソルトウス]とは物体の絶対的な場所から絶対的な場所への移行であり、相対運動[モトウス・レラテイウウス]とは相対的な場所から相対的な場所への移行です。ですから帆走中の船の中で、物体の相対的な場所とは、その物体が占めている船の部分、あるいはその物体が満たしている船の空所(あきま)全体のことです。したがってそれは船といっしょに動きます。また相対的な静止とは、物体が船の、あるいは船の空所の、同じ部分にひきつづきあることです。しかし真の、絶対的な静止というのは、その中を船自体も、その空所や、船にあるものすべてとともに運動している、不動の空間の同一の部分に物体が存続することです。それゆえ、地球が真に静止しているとすると、船に相対的に静止している物体も、船が地球に対して運動する速度と同じ速度で、真に絶対的に運動することになるでしょう。しかし地球もまた動いているとしたら、この物体の真の絶対的な運動は、一部は不動の空間における地球の真の運動から、一部は地球に対する船の相対運動から、生ぜられるでしょう。また物体が船に対しても相対的に運動しているとすると、それの真の運動は、一部は不動の空間における地球の真の運動から、一部は地球に対する船の相対運動ならびに物体の船に対する相対運動から、生ぜられることになるでしょう。そして後の二つの相対運動から、地球に対するこの物体の相対運動が生ぜられます。

いま船が存在している地球の部分は東に向かって10010部分の速度で真に運動し、また船は帆に風をはらんで西方に10部分の速度で運ばれるとし、一方水夫がこの船上を東に向かって1部分の速度で歩くとしますと、この水夫は、不動の空間に対しては10001部分の速度で束に向かって真に絶対的に動き、また地球に対して相対的に西に向かって9部分の速度でもって動く、ということになります。

絶対時間は、天文学では見かけ上の時間の均分によって、相対時間と区別されます。といいますのは、自然日は普通均等であるとみなされ、時間の測度として使われていますが、本当は不均等だからです。天文学者たちは、天体の運動をもっと正確な時間で測定できるように、この不均等を補正するのです。おそらく、それによって時間を正確に測ることができる均等な運動などというものは存在しないでしょう。あらゆる運動が加速することもできれば減速することもできるのですが、絶対時間の流れはどんな変化も受けてはならないのです。ところが物の存在が持続される、あるいは永続されるということは、その物の運動が速かろうと遅かろうとあるいはまったく運動していなかろうと、変わりありません。ですからこの持続性は、それの単なる感覚的測度とは区別されねばなりません。そしてその感覚的測度から、天文学の均分というてだてで、持続(絶対時間)を演繹するのです。ある現象の時間の決定のためには、この均分が必要であることは、振子時計の実験からと同様に、木星の衛星の蝕によっても立証されるところです。

時間の各部分の順序が不変であるように、空間の各部分の順序もまた不変です。これらの空間の各部分がそれぞれの場所から動かされるとしましょう。そうすると空間の各部分は(こういう言い方が許されるなら)それら自身から動かされることになります。なぜなら時間や空間は、あらゆる他の事物の場所であると同様に自分自身の場所でもあるからです。ありとある事物は、継続の順序に関しては時間のうちに置かれ、位置の順序については空間のうちに置かれています。それらが場所であることは、それらの本質からくるものであり、事物の本来の場所がさまざまに動かしうるというのは、おかしなことです。ですからそれらの場所は絶対的な場所であり、それらの場所からの移行は、ただ絶対的な運動があるだけです。

たしかに空間の部分というのは眼で見ることができず、わたくしたちの感覚によってたがいに識別することができないものですから、それらのかわりに感覚でとらえられる測度を採るわけです。といいますのは、わたくしたちは不動とみなされる任意の物体からの事物の位置や距離より、あらゆる場所というものを定義し、次に、このような場所に関して、諸物体がそれらの場所からどれくらい移動されるかを考え、すべての運動を見積もるからです。こうして絶対的な空間と運動とのかわりに相対的なものが、人間的尺度(ふつう)のことがらでは何のさしさわりもなく使われていますが、哲学上の問題では感覚から抽象されねばなりません。(他の物体の)場所や運動の基準とされるどのような物体も真に静止しているものはないことが実際いえるからです。

しかし、絶対的および相対的な静止と運動とは、それらの特性、原因、結果によってたがいに区別されます。真に静止している諸物体はたがいに他の物体に関して静止している、というのが静止の特性です。そこで、遠くへだたった恒星の領域で、あるいはさらに遠くに、なにかある物体が絶対的に静止している、ということはありうるかもしれませんが、われわれの領域にある諸物体の相互の位置から、それらの物体のどれがこの遠く離れた物体に対して与えられた位置を維持しているかいないかを知ることはできないでしょう。真の静止はそれらの諸物体の相互位置からは決定されえない、ということになります。

全体に対して与えられた位置を保っている各部分が、それらの全体の運動にあずかる、というのが運動の特性です。なぜなら、回転運動をする物体の部分はすべてその運動の軸から遠ざかろうと努め、前進運動をする物体のインペートゥスはそれの各部分のインペートゥスの合成より得られるからです。したがって、まわりの諸物体が動けば、まわりのものに対して相対的に静止している物体も(いっしょに)動くわけです。それゆえ、真の絶対的な運動は、一見静止しているように見えるだけの物体の近傍から移動するということでは決定されえません。外部の物体はただ見かけ上静止しているだけではなくて、真に静止しているのでなければならないからです。そうでないとすると、そこに含まれているすべての物体が、まわりの物体の近傍からの移動の上に、さらにまわりの物体の真の運動にもあずかることになるでしょう。そしてその移動がなかったとしても、真に静止しているのではなく、その静止はただそのように見えているだけのことになるでしょう。まわりをとりかこんでいる諸物体は、とりかこまれているものに対して、全体の中の外側の部から分が内側の部分に対するのと同じ関係に、あるいは殻(から)が核に対するのと同じ関係にあるからです。殻が動けば核もまた殻の近傍から移動することなく全体の部分として動くでしょう。

上に述べたのと極めてよく似たひとつの性質は、場所が動くとすると、その場所に置かれているものがいっしょに動く、ということです。ですから、運動している場所から動かされる物体は、それの場所の運動にもあずかるわけです。それゆえ、運動している場所からのあらゆる運動は、全体的かつ絶対的な運動の部分にすぎません。そして全体的な運動はすべて、物体のそれが最初あった場所からの運動、場所のある場所から別の場所への運動、等々からなり、最後には、前に述べた水夫の例におけるように、何か不動の場所に達します。そういうわけで、全体的かつ絶対的な運動は、不動の場所による以外には決定されえません。それゆえわたしは先に、絶対運動を不動の場所に関連させ、相対運動ぽ動きうる場所に関係させたのでした。そして不動の場所は、無限遠から無限遠まで、すべてが与えられた位置をたがいに保っているもの以外にはありません。そしていつも動かぬように保持され、わたくしが不動と呼ぶところの空間を構成します。

真の運動相対運動とがたがいに区別される原因(もと)は、運動をひき起こすため物体に及ぼされる力です。真の運動は、動かされる当の物体に力を加えることによる以外、ひき起こされることも変化させられることもありません。しかし相対運動は、その物体になんの力も及ぼさずに、ひき起こしたり変化させたりすることができます。なぜなら、当の物体と関係する他の諸物体に力を及ぼし、それらの物体を動かすことによって、相対的な静止または運動においていた相互関係を変えることで十分だからです。また真の運動は、物体に運動をひき起こす力によって常に変化させられますが、相対運動はそのような力によってかならず変化を受けるとはかぎりません。といいますのは同じ力が関係する他の諸物体に相対的な位置が保存されるように及ぼされるとしますと、相対運動をつくっている関係はそのまま呆たれるからです。それゆえ、あらゆる相対運動は、真の運動は変えないままで、変化させることができ、また真の運動が変化を受けるときでも、相対運動はそのままに保っておくことができます。ですから真の運動は決してこのような相互関係のうちには存しないのです。

絶対運動を相対運動と区別する効果は、円運動の回転軸から遠ざける力です。なぜなら、そのような力は、純粋に相対的な円運動では存在しませんが、真の絶対的な円運動では、その運動の運動量に従って大きくなったり小さくなったりするからです。長い紐でつるした容器を、その紐が強くよじれるまで何回もまわし、次に容器に水を満たして、水とともに静止させておき、これに急に他の力を働かせると、容器は逆向きにまわり、紐のよじれが解けてしまうまでの間、ある時間容器はこの運動を続けます。このとき最初は、水の表面は、容器が動きはじめる前と同様、平面ですが、そのあと容器はしだいにその運動を水に伝え、見てとれるほど水を回転させはじめ、しだいに水を中心から遠ざけ、容器の縁の水位が上昇し、水は中心のくぼんだ形をつくってゆきます。(わたくしが実験したとおり)この運動が速くなればなるほど、水は高く盛り上がり、ついには水の回転が容器の回転と同じ時間で行なわれるようになり、水は容器に対し相対的に静止するにいたります。この水の盛り上りは、水がその運動の軸から遠ざかろうとするコーナートゥスを示すもので、そのようなコーナートゥスによって、水の真の絶対的な円運動が、その相対運動とは正反対の向きのものですが、認められ測られるわけです(1)。最初、容器に対する水の相対運動が最大であったときは、その運動は回転軸から遠ざかろうとするコーナートゥスをまったく生じませんでした。水は周辺に向かい容器の縁において盛り上がる傾向を示さず、水面は平らなままでした。ですから水の真の円運動はまだ始まらなかったわけです。しかしそのあと、水の相対運動が減ったときには、容器の縁における水の盛り上りが水の回転軸から遠ざかろうとするコーナートゥスを明らかにしました。そしてこのコーナートゥスは、水の真の円運動がたえず増大し、ついには、水が容器に関し相対的に静止したとき、それが最大になることを示したのでした。それゆえこのコーナートゥスは、水がまわりの物体に関して移動することに依存するものではなく、したがって真の円運動は、そのような移動によって規定することができません。回転する任意の物体の真の円運動はただひとつしかなく、固有の持続される効果として唯一のコーナートゥスに対応するものです。ところが相対運動は、外部の諸物体に対するさまざまな相互関係に従って無数に存在し、相互関係という形にあって、それのただひとつの真の運動と関連するという以外、何か別の真の効果をまったく欠くものです。ですから、わたくしたちの天球が、恒星の天球の下に回転し、それにつれて惑星が運ばれていると想像する人たちの体系にあっては、天球の各部分と、その近傍の天球に対して相対的に静止している諸惑星とは、真に動いていることになります。なぜなら、それらはたがいにそれらの位置を変え〔これは真に静止している諸物体では決して起こらないことです〕、それぞれの天空といっしょに動くことによって、それらの運動にあずかり、回転する全体の部分として、その運動の回転軸から遠ざかろうとするからです。

(1) これに対するE・マッハの批判についてはDie Mechanik in ihrerEntwicklun, historisch-kritisch dargestellt 第二章第七節(伏見譲訳マッハ『力学』二〇五〜二二四へージ)参照。

 

そういうわけで、相対的な諸量は、その名を負う量それ自身ではなく、感覚でとらえられるそれらの測度(精密にしろ不精密にしろ)であり、測られるそれらの量自身のかわりに通常使われているものです。言葉の意味というものはその使われ方によって決められるべきだとしたら、時間、空間、場所、運動といった名称は、当然それらの(感覚的な)測度と解されるべきでしょう。そして測られる諸量自体を意味するとぎは、その言い表わし方も通常のものとはちがい、純粋に数学的なものとなるでしょう。ですから、これらの言葉を測られる諸量そのものに解する人たちは、厳格に保たれるべき言語の的確さをこわすものです。また真の諸量をそれらの相互関係や感覚的な測度と混同する人々は、数学的および哲学的真理の純粋性を少なからず汚すものです。

特定の諸物体の真の運動見かけの運動から発見し、効果的に区別することは、実際に非常にむつかしい問題です。なぜなら、それらの運動が行なわれる不動の空間の部分というのは、決してわれわれの感覚の観測下には入ってこないものだからです。しかし事態はまったく絶望的というわけではありません。といいますのは、われわれを導くいくつかの論証があるからです。その一部分は真の運動の差であるところの見かけの運動から、一部分は真の運動の原囚であり結果である力から、得られるものです。たとえば、二つの球が、一方から他方へのある与えられたへだたりに、それらを結びつける紐によって保たれ、それらの共通の重心のまわりに回転するものとしましょう。するとこの紐の張力から、これらの球がその運動の回転軸から遠ざかろうとするコーナートゥスがわかり、それから二つの球体の円運動の運動量が計算できるでしょう。次に、任意の相等しい力を一時に球体の反対側の面に働かせて、それらの円運動を増大または減少させるとすると、紐の張力の増減から、二つの球体の運動の増し高または減り高を推定できましょう。そしてこれから、球の運動を最大に増すには、どの面にその力を加えるべきかがわかるでしょう。すなわち、それらの球の後面、円運動で後からついてゆく面、であることが見いだされるでしょう。ところで後面が知られるならその結果反対側の前面もわかり、二つの球の運動(の向き)が決定されるわけです。こうしてわれわれは、この円運動の運動量と運動(の仕方)の規定との両方を、これらの球体と比べることのできる、外部の、あるいは感覚にとらえられる何物も存在しない、広大な真空の中においてさえ、見いだせることでしょう。そこでさらに、この空間中にいくつかの遠く離れた物体が置かれ、いつもたがいに与えられたへだたりを保っているとしましょう。たとえば、恒星がわれわれのいる領域において果たすようにです。このとき実際にはそれらの物体の間での球体の相対的な移行からでは、その運動が球体に属するものか遠くの物体のほうに属するものか、決めることはできないでしょう。しかし球体をつなぐ紐を観察し、紐の張力が球体の運動に要するまさにその張力であることがわかったなら、この運動は球体のものであり、(遠くの)諸物体は静止しているのだと結論することが許されましょう。そして最後に、物体の間での球体の移行から、球体の運動の規定がわかるわけです。真の運動をその原因や効果や見かけの上の差から知ること、また逆に真の運動または見かけの運動からそれらの原因や効果を知ることは、以下でもっとくわしく示されるでしょう。そのためにこそ以下の論述を書いたわけだからです。