ハイゲンス「光についての論考」(1690)から

 

- - - それゆえ、各粒子のまわりに,その粒子を中心とする波が作られることになる。

こうして,もしDCFを発光点Aから放射された一つの波とすれば、Aはその中心であり、球面DCF内に包含される一つの粒子Bは、素元波(onde particuliere ハイゲンスが初めて導入した最も重要な概念。直訳すれば、「個別波」となろうが、ここでは現在使われている物理学用語にした)KCLを作っているであろう) ()

http://www.geocities.jp/hjrfq930/Science/nyuumon/huyghikzu.pdf 

 

その波は波DCFと、点Aから放射されたもとの波がDCFに到達したと同じ瞬間に、Cで接するであろう。それが波DCFと接する波KCLの点Cにおいてだけであることは明らかである。すなわち、それはABを通って引いた直線上にある。同様に、球面DCFの内部の他の点、例えば、bbddなども、それぞれの波を作るであろう。しかし、これらの素元波は波DCFに比べて、限軌なく弱くても、いっこうに差支えない。それらの波のすべてが中心Aから非常に遠く離れた面に部分的に寄与して、波DCFが合成されるからである。

加えて次のことがいえる。波DCFは点Aから出発した運動がある時間に達成した端来によって決まる。この波が囲む空間内には、素元波の部分で球面DCFに接しない部分が存在するけれども、波DFの先には運動は存在しない。ここに述べたことはすべて、あまりにも気を使いすぎ、あるいはあまりにも煩瑠に追

求されていると思われてはならない。われわれはこれからの章において、光のすべての性質、光の反射および屈折に関係するすべてのことがらを、この方法によって、原理的に説明することができることを示すであろう。これはこれまで光の波を考え始めた人たちに全く知られていなかったことがらである。それらの人々の中には、「ミクログラフィア」を書いたフック氏(ロバート・フック、1635- 1703。前出のボイルの弟子で、弾性体の変形と力の関係を与える「フックの法則」を発見した)や、私にその論文の一部分を見せてぐれたパルディース神父(バリに在住したイエズス会の物理学者の神父で、ニュートンの光学を積極的に批判したことがある)がいる。パルディース神父は、その後まもなく亡くなったので、その論文を完成することはできなかったが、彼は、波によって反射や屈折の現象を説明しょうと企てた。しかし、私がたった今,行なった説明の中に含まれている主要な基礎が、彼の証明には欠けている。そして残りの部分に関しても、彼は私と非常に異なった意見を持っていた。もし彼の書いたものが保存されているならば、そのことはいつか明らかになるであろう。

さて、いよいよ光の性質について述べることになった。まず波の各部分は、その末端がつねに発光体から引いた同}直線上にあるように広がってゆくことを注意しておこう。こうして発光点Aを中心に持つ波の部分BGは直線ABCAGEで区切られる弧CEに広がってゆく。空間CAE内に含まれる粒子によって起こされる素元波は、弧CEの外にも広がってゆくけれども、それらは共通の接線(今日の言葉でいえば「包絡線」)である円周CEにおいて一つの波が合成されるように、同じ時刻に運動の末端としての波を形成することはない。

このことから、なぜ光は、その光線が反射されたり,折られたりしないかぎり、一直線状にのみ進むか、という理由がわかる。光は光源から物体に至る道筋に何も邪魔物がない場合だけ、その物体を照らすのである。例えば、不透明な物体BHGIで限られた開孔BGがあったとすれば、点Aから出た光の波はすぐ前に示したように、つねに直線ACAEによって区切られるであろう。空間ACEの外へ広がった素元波の部分は、あまりに弱くて、そこでは光にならないからである。

さて、われわれが開孔BGをどんなに小さくしようとも、つねに同じ理由で光はそれらの直線の間を通る。なぜなら、この開孔も、想像できないくらい小さい.エーテル物質の粒子を非常にたくさん含むには十分な大きさをつねに持っているからである。それゆえ波の各小部分は発光点から出る直線に沿って必然的に進むことになる。こうしてわれわれは、光の束をあたかも直線の集りであるかのように取り扱うことができるのである。

さらにまた、素元波の弱さに触れて注意したことではあるが、「エーテル」の粒子がすべて等しい大きさを持つことは必ずしも必要ではないように思われる。とはいっても、大きさの等しさは運動の伝播には適している。なぜなら、大きさが等しくないと、一つの粒子がそれより大きな粒子に衝実したとき、その運動の一部を反跳に用いるようになるからである。しかし、それによっても、発光点に向かって後退するいくらかの部分波が生ずるだけで、それらは光を起こすことができない。それらはCEのように多くの素元波で合成される一つの波にはならないのである。

光の波のもう一つの性質、そして最も不思議な性質の一つは、光のいくつかの波が異なった側から、あるいは正反対の側から来たときでさえ、それぞれの効果をなんらの障害なしにお互いに伝える、という性質である(今日の言葉でいえば「重ね合せの原理」)。これはまた多くの観測者が同じ孔から同時に異なった対象を眺めることができるということ、そして、二人の人間が同時に相手の眼を見ることができるということ、の中にも見られる。光の波がお互いに横切るさい、それらはどのようにしてお互いに破壊し合ったり、妨害しないのか、という光の機能について前にのべた説明によれば、今私が触れたこれらの効果は容易に理解できる(実は、ごくわずかではあるが、妨害し合う。今日、「デルプリュック効果」として知られている)。しかし私の意見では、光を単に運動の傾向を持つ運続的な圧力であるとするデカルト氏の考えによっては、これらの現象を説明することは決して容易ではない。なぜなら、圧力は、お互いに近づこうとする傾向を持たない物体に対して同時に反対側から働くことはできないから、二人の人間がお互いに相手の眼を見ることについて私がのべてきたこと、あるいは二つの炬火(たいまつ)がどうしてお互いを照らし合うことができるかを理解することは不可能だからである。(第1章、終わり)

 

拙訳では、とうてい原文の見事なスタイルを再現することはできないが、ハイゲンスの論文、著書、それにそのためにただでさえ繊細な体質であった彼の生命を縮めた、といわれているおびただしい書簡のどれを見ても、洗練された文体はいかにも当代第一級の知識人であったことを示している。ハイゲンスの若い頃の著書『光学』を読んで、ニェートンは、ギリシアの古典を偲ばせるといって、その典雅な文体を絶讃したといわれている。