ロバート・フック「ミクログラフィア : 微小世界図説」(1665) から

板倉聖宣, 永田英治訳 : 仮説社 , 1984.

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ということについての平明な説明をすることができるでしょう。またこのことから,私は本当にそう思うのですが,「雪〔の結晶〕が不思議と六角形になる原因」とか、「太陽や月のかさの見える原因」とか,「空が急に厚い雲でおおわれる原因」や,さらに「その雲が薄れて見えなくなる原因」などきわめてたやすく推論することができます。というのは,これらすべてのことは,私がしばしば使っているわずかな化学の道具類を使うと,コップー杯のアルコール飲料の中でごくかんたんにまねすることができるからです。また,どこか他の点でもっと大きく関係づけることができるかもしれないからです。しかし.いまはそれらのことを書き留める余裕がありません。

しかし,なおもつづけていうと,〈〔エーテルや水とはちがって〕もっと大きな粒子からなりたっていて,より凝集しやすい形をもった物体〉もあって,これはもう少し大きな撹乱を要します。それは☿(水銀),発酵したブドウ酒の精,いく種かのchymical oils (それはこれらの酒精にたいへん似ています) などです。けれども,他のものは,水のように〔形をくずすのに〕,もっと大きな撹乱を要します。そしてさらにもっと大きな,ほとんど無限大の撹乱を要するものもあります。というのは,「この世には,いくばくかの撹乱や熱を与えても流体にならないようなものはほとんど存在しない」と思われるからです。

 

〈親和性と反発性とを,二、三の実験によって目に見えるようにする試み〉

以上で流動物体についての私の考えを簡略に書き下したので,次には〈親和性とは何か〉ということについて考察することにします。これは,前にも言いましたように,流体間の相対的な性質です。ある物質は,そのために他のあれやこれやの物質に似ているとか似てないとか言われたり,それによってあれやこれやのものとまざったり,まざらなかったりすることになります。

ここで,私たちは前に見たお粗末な実験を再びとりあげて考えることにしましょう。こんどは,その鉢の中に何種類かの砂,大粒のものや小粒のものやずっとこまかいものなどをまぜるとします。すると,その撹乱によってこまかい砂は小さな石のより大きいかさのものなどをすべてその外に投げだし;追い出してしまって,こまかい砂が全部一ヵ所に集まってくることが見られるでしょう。そしてもし,その中に性質のちがう他の物質があるとそれはひとりでに一ヵ所に分離されて一緒になってとび上がるようになるでしょう。

これは,「流体の部分相互の凝集力または一種の引力・粘着力」である親和性のもっとも重要な性質にぴったりとは合いませんが,いわばその大体の影をうつしており,かなりそれと似ています。というのは,まさに同じやり方にしたがって,私は「熱のパルスが物質の小さな包みをゆり動かす」と考え,「大きさや形や質の似たものは一緒になって踊り,ちがう種類のものはそれらの間から押し出されたり突き出されたりするのだろう」と考えるからです。というのは,まったく似ている諸粒子はみな,楽器の「張りも長さも等しいたくさんの弦」と同じように,一種のハーモニーつまり同音で一緒にふるえるからです。それに反して,他の似ていないものは(たとえどんな理由にもせよ,その不均衡が他の点でつり合いをとられることがなければ),同音でない弦のように,たとえ同じ撹乱のパルスを受けても,まったくちがう種類の振動やはね返りをします。ですから,たとえそれらが一緒に動かされても,相互に逆らって気分をこわすほどにそれらの振動は非常に異なり,あたかも相手に対して調和せず,相互に妨げあい,くいちがって,結局相互に和合することができずに,それと似た粒子の方にたがいに飛び戻ってしまうのです。

さてここで,みなさんに「ある物体のある点での不つりあいは,いかにしてその物体の他の点での逆の不つりあいによって相殺されるようになるか」という一つの例を示すことにしましょう。このことから私たちは,「微細なブドウ酒の精が,多くの点で非常に異なる性質をもつ水と親和性があって,水と容易にまじり合う」ということが分かるからです。その実例をあげるには,同音は「太さも長さも張力も同じ二本の弦」によって生み出されるだけでなく,「太さが同じだが〔長さが長いぶん張力も大きい,つまり〕長さと張力とが相殺するように異なる二本の弦」によっても,また「長さも太さも張力も違がったり,長さが同じで太さと張力とが違がったり等々の二本の弦」によっても生み出される、ということを考慮するとよいでしょう。

弦の場合のこれら三つの性質〔太さ,長さ,張力〕に対して,(つまり物体の粒子)の場合にも三つの性質,つまりその質 (matter or substance), その形 (figure or shape) およびその大きさ (body or bulk) の三つが対応することになります。すべてのものが同一のパルスや振動によって突き動かされるにもかかわらず,その流動性の性質には無限の多様性が生ずるのは,これら三つ(粒子の質,,大きさ)のバラエティーによるのかもしれません。そして,楽器の弦のときと同じように,これら三つのバラエティーによって協和音と不協和音とをつくりだすたくさんの方法があるのかもしれません。

さて,これで「流体間相互の性質の違いに起因する親和性と反発性の原因は何か」ということを見たことになります。そこで,上述のことからして私たちは「流動体と固体との間の性質のちがいの原因は何か」ということについても,考えをまとめることが簡単にできるでしょう。というのは,すべての物体はこのような「質,,大きさ」の粒子からなりたっているからです。しかしそれらが,あらゆる振動運動によっても相互に解き放たれるにはあまりにもよりしっかりと結びつけられているような場合には、(私は「この世にあるどんな物体だって,前にも言ったように,ある程度以上強い撹乱があれば,諸粒子をつき動かし,自由に解き放ってその結果それを流体としてしまう」と思っているのですが) それらの結合している粒子は自由に解き放たれている粒子とほとんど同じように振動して、それらに対して同音や不協和音となるといってよいかもしれません。

すべての物体の諸部分は,必ずしもそんなに強く結びついていないで振動していますから,「あらゆる物体はその中にある程度の熱をもっている」ということと,「完全につめたいというものは未だ見いだされたことがない」ということとは,なんら証明を必要としないと思います。私はまた事実,「〈その中の成分粒子が静止している〉,つまり, 〈この世界という大劇場の中で怠けていて動かないでいる〉などというようなものが,この自然の中に存在する」などとは信ずることができません。それは,この宇宙の壮大な理法 (the grand oeconomy) にまったく反しているからです。

そこで私たちは,<感応Sympathy>,すなわち, <ある物体が相互に結合ようとする理由〉は何か」また,<反感antipathy>つまり〈他のものから相互に脱出する理由〉は何か」ということがわかります。というのは,「〈親和性〉というのは感応以外の何ものでもなく,〈反発性〉というのは物体の反感以外のなにものでもない」と思われるからです。ですから,「すぐに結びつく〈類似の物体〉は容易に分かれないし,ひとたび分離させられた〈似ていない物体〉同士は再び容易に結びつくことがない」のでしょう。またこのことから,水や水銀がそのいつもの位置の上に支えられる理由もごく容易に推定することができます。そのことについては後でもっと詳細に示すことになるでしょう。

 

〈親和性と反発性から説明しうること〉

それゆえ,これらの〔粒子の〕諸性質は,(いつも流動体に付きものである)以下のような目に見うる結果をもたらします.

第一に,それはある流体の諸部分をそれと似ている固体に結びつけ,それとは似ていないものから引き離したままにします。水銀が(前にも指摘したように),銀、錫,鉛などにくっつき.それらと結びつくのに.羊毛や石やガラスなどからは、(もしほんの少しでもその水平面の外に位置しているのでなければ〉ころげ出るのはこのためです。そこで,塩をしめらせたり溶かしたりする水だって,獣脂やそれと似たものにはまったく付着しないでずりおちることになります。水滴をほこりっぽい表面の上においたときに見られるのと同じように、です。次に,それらは「均一な流動体の諸部分か容易に相互にくっついたり、混じりあったりする原因」となり,「異なった成分からなる流動体がそれを極度にきらう原因」ともなります.

また,このことから,「二粒の小さな水滴は,それが転がることのできる任意の表面上で,たまたま相互に接触することになったら,すぐに結合して第三の一つの水滴になってしまう」ということもわかります。同様のことは机やガラスの上にある二粒の水銀の玉についても観察することができます〈もっともこれは,水銀粒の表面がよごれていなければの話です〉。きれいな水面に浮いている二粒の油なども同じです。さらに,ブドウ酒や食塩水,,ブドウ酒の精.その他類似のものの上にのせた水は,すぐに(もし,それを振ればなおさらのこと)その上全体にひろがってしまいます。

また反対に,水銀の上に酒石オイルを,そのオイルの上にブドウ酒の精を,その精の上にテレピン油を,そしてその油の上に空気を注いだものは,一本の罎の中にぎっしりと詰められても,そんなに強く振らなければ,長い間他の液のどれかと結びついたり,取り込まれたりすることを許さないということも、このことから理解されます。上に列挙した液によって,「アリストテレス学派の四元素と.それからさらに微細なエーテルとの作りだす五段階の階層を平易にあらわすことができる」と考えることもできます。

「一粒の水滴だって,空気と入り混じったり,空気の中に消えてなくなることがなくて、それがおそらくその中に含まれうるほどの小さな空間,すなわち丸い小球体(round globule)(あらゆる側にそれを等しく押しだすその流体によって)押しだされる」というのは,まさにこの性質によるものです。これと同様に,水の下に吹いて作られた小さな空気は,それをとりまく水によってひとつの泡にまとめられて押しこまれるのです。そして,空気や水やその他ほとんどどんな液にせよ,とり囲まれた一粒の水銀は,まるいボールの形にさせられるのです。

 

〔以下本文5ぺージ半,項目のみ訳出〕

    液体の表面が丸くなることの説明(3)/

    流体がそれと異質なもの〔ぬれないもの〕の孔へ入ろうとするとき,それはその反発性によってどのように妨げられるか(3.4,5)

    これによって説明しうるたくさんの現象(6>

 

表紙と図3−6

http://www.geocities.jp/hjrfq930/Science/nyuumon/hookmiczu3-6.pdf 

 

 

 

 

 

注釈

近代科学の創成期の科学者たちの業績は、ガリレイやニュートン以外の科学者のものは一般にはほとんど知られていないと言っていいでしょう。したがって、科学することの生の姿が伝わって来ず、科学を単なる暗記物にしてしまう危険性が高いということにもなります。

「ミクログラフィア」の序論には、近代科学の創設者の一人としてのフックの、今でも読むに値する哲学と科学方法論とが明確に表明されています。そこで、「序論」の中からフックの科学論が述べられた部分と、「本論」の最初にある物体の顕微鏡観察の実際を(図を含めて)掲載し、フックの全体像を理解するための資料を提供したいと思います。

また、フックの「ミクログラフィア」を翻訳した板倉、永田の両氏の同書への「はしがき」と「あとがき」を引用し、科学史家がフックの「ミクログラフィア」に見た「科学すること」の真髄を知っていただきたいと思います。

順序は、訳書の中のものに倣って、「訳者はしがき」、王認学会(Royal Society)への献辞、序論と本論の抜粋、「訳者あとがき」とします。

 

訳者はしがき

この本は,ロバート・フックの主著『ミクログラフィア』(1665年刊)のうち,とくに現代でも注目するに値すると思われる部分を選びだして翻訳したものです。

科学史の通史を書いた本の中にはたいていこの本への言及があって,しかもその場合書名が『ミクログラフィア』と片仮名で書かれることが多いので,ミクログラフィアという言葉はもうすでに日本でも親しみ深いものとなっています(フックのこの本を念頭において,自分の著書に『ミクログラフィア』という書名をつけている人もいるほどです)。しかし,はじめてこの本を手にとる読者の中には「『ミクログラフィア』では何のことかよくわからない」という人もいることと思います。そこで本書には日本語の副題をつけることにしました。これまでこの本の書名を訳したものをみると,『顕微鏡図説』といった書名が多くつかわれているようです。そこで一時は本書の副題も「顕微鏡図説」にしようかと考えたのですが,「微小世界図説」と改めることにしました。「顕微鏡図説」という題名だと,本書についてこれまで多くの人びとが抱いてきた誤解を固定化する恐れがあるからです。

じっさい,科学史上の古典の中で,この本ほど有名で,しかもろくに読まれもせず,その内容を誤解されてきた本は少ないようです。そしてその誤解は,この本を「顕微鏡で観察したことを記録した本」と理解することに発しているのです。

もしこの本が「顕微鏡で観察したことを記録しただけのもの」であるなら,本書に収められたたくさんの図版を眺めただけで,ほとんどその内容をうかがうことができるでしょう。じっさい,そう考えてこの本を手にして図版にざっと目を通してみた人は少なくないようです。また,かりに本文を読もうと思っても,原本の文章はセンテンスが長ったらしくて,とても読みにくいのに閉口した人も少なくないことでしょう。そこで,「本文を読むのはちょっと大変だ」ということで図版だけに目を通すと「この本でとりあげられているテーマはまったくアトランダムで,手もとにあるものを片っ端から顕微鏡で見て,それを図に描いて記録しただけ」といった印象しか残らないことになります。それでも,その多くの図版の中に今日なお特に注目するに値すると思われる図を探すと,「コルクの細胞を記録した図がのっているだけ」といったことになってしまうのです。そこでたいていの科学史の本は,「『ミクログラフィア』は科学史上とても有名な本だが,その内容はたいしたことない」といったことしか書いてないことになるのです。

この本を手にしたことのない人が,誰かの話を受け売りでそう書くのなら仕方ありませんが,じっさいにこの本を手にしてその図版だけをていねいに見て,それで本書に「ざっと目を通した」という気になった人がそう書くのですから,誤解がなかなか解けないわけです。

『顕微鏡図説』というと,多くの人びとは「これは生物学の本だな」と思います。今日「顕微鏡観察」と名のついたような本を見ても,それはたいてい生物ないしそれに鉱物を加えた博物の観察を記しただけのものが大部分なので,多くの人がそう考えるのはもっともなこととも言えます。実は、はじめ訳者の一人(板倉)もそう思っていたのです。しかし,ある時イギリスの物理学者ブラッグBraggの書いた本の中に,フックの分子運動についての見事な論証がのっているのを見て驚きました。そして,「フックはどこでそんな議論を展開しているのだろう」と探しまわって,ついに『ミクログラフィア』にたどりつき,考えを新たにすることになったのです。

分子運動論は図になりませんから,その部分には図がありません。文章ばかり続いている箇所で,フックは分子運動論や分子間力の理論をいろんな事実や実験をもとにして生き生きと論じているのです。

もともとロバート・フックという人は,生物学よりもむしろ物理学を得意としていた人なのです。そして,この『ミクログラフィア』でも生物分野よりも物理や化学の分野のほうに注目すべき内容がたくさん盛り込まれているのです。物理や化学の関係者は『顕微鏡図説』という書名ではなかなか手にとろうとしないので,この本の真価が見逃されてしまったというわけです。そう思ってこの本を見ると、「手当たり次第にいろいろなものを観察しただけ」などとは到底いえないことがわかります。とても体系的に,顕微鏡では見えないような微小世界を含めて,私たちのまわりの全ての自然物・自然現象が取り上げられているのです。有名な細胞の発見も偶然の結果ではないのです。そこで,この本の訳名(副題)も『顕微鏡図説』とせずに『微小世界図説』としたわけです。

また抄訳に際しては,その訳名にそって,物理や化学に関する部分を多く訳すことにしました。そのかわり,本文を訳さないところには,原書巻末にあるTable(詳細目次)を訳出して本文中に挿入し,それで本文の内容のあらましを伺い知ることができるようにしました。また図版だけは全部収録して,フックがどんなものを観察したのかが分かるようにしました。原本は20×30cmほどのとても大きい本ですが,それでも多くの図版はその本の大きさよりもずっと大きく描かれています。これらの図版はそのままの大きさでコピーしたかったのですが,そうするとこのような小型の本ではかえって扱いが不便になります。そこで,本書の大きさでは入りきらない図版はしかたなく縮小してのせることにしました。そして,原本の図版の大きさを推察することができるように,ノミの図版(本文「観察53)だけを折り込みで加えることにしました。本書とは別に図版だけを原寸大で複写した本も作る予定ですので,そちらも御利用下さい。(編者注、「ミクログラフィア ― 微小世界図説 ― 図版集」仮説社、1984

ところで,原本の序論はとても長いのですが,科学方法論上からして興味ある問題が論じてあります。しかし,この部分は具体的な事実の観察・実験からかなり離れて抽象的な議論をしているところが少なくないので,かなり読みにくいところが多いと思います。ですから,この序論はむしろ後まわしにして,本文から読み進んでいただけるとよいと思います。

板倉聖宣

永田英治

 

王認学会に捧ぐ

わが学会の偉大なる設立者にして保護者であらせられる国王陛下への献辞にひきつづき,私は,皆さまが小生に課してくださった多くの仕事について考えるにつけて,この貧しい労働の成果を,この輝かしい皆さまの集まりに対して献上することをみずからの義務と考えざるをえないものであります。

皆さまは,以前にこの本の草稿にあたる粗末な観察報告を喜んで受けいれてくださいました。私はその後,それにいくつかの記録と私自身の推論とをつけ加えたのであります。そこで,皆さまの受諾を乞うとともに,御許しを乞わなければなりません。

皆さま方が,哲学〔理学=科学〕の進歩において皆さま御自身で御決めになった方針(ルール)は,これまで実行されてきたもののうちで最上の方針と思われます。そのうちでもとりわけ「独断を避け,実験によって十分に基礎づけられ確かめられていないような仮説はいかなるものもその採用を避ける」という方針は,そのように思われます。このやり方はたいへん優れたもので,理学(フィロソフィー)と博物学(ナチユラルヒストリー)とをこれまでの腐敗から守ることができます。

こういうと,私は,この著述における私自身のやり方を責めねばならないようにも思えます。というのは,この本には,皆さまの定めが認める以上に過信しているようにみえるような表現が,多分にあるかもしれないからであります。それらを単に「推測」とか「疑問」(それらも皆さまの方法ではまったく許されないものですが)として御理解いただければありがたいと思っています。その場合,私がたとえ度を越したとしても,それは皆さま方の御指示によってなされたのではないということを明言しておくのが適切だと思います。というのは,このささやかな観察によって皆さまがごく小さな評判を得る一方で,小生の推測の欠陥によって非難をこうむるなどということは,まったく理屈に合わないことだからです。

皆さまのもっとも卑しく,もっとも忠実なる下僕

ロバー一ト・フック

 

[序論と本論からの抜粋]

 

序論

0.はじめに〕

人類の,他の諸動物に優る大きな特徴は何か ― それは,ただ単に自然の業を見たり,自然の働きによってかろうじて自分たちの生活を維持することができるだけでなく,それらをいろいろな目的のために,考察し,比較し,変化させ、助長し、改良する力をもつているということであります。これは一般に,人類に固有な特徴であります。そこで,技術と経験により,観察したり帰納することにおいて、ある人びとが他の人びとにはるかに優るということが可能となるのです。しかもそれは,ちょうど人類がけものに優越するのとほとんど同じ程度に可能なのです。そのような人為的な装置と手段とは,これまで人類が、自らの怠慢や不注意によって引きおこした誤りや不完全さを、ある意味で補うことが可能でありましょう。また、人々は自然の定めや法則性を気ままかつ迷信深く無視するからこそ、生まれながらにして持っている欠陥や,教育や,人びとの交際によって,あらゆる種類の誤りに陥りやすいのですが、そのような装置・手段は,ある意味ではそのような法則性の無視を補うことも可能でありましょう。

〈もともと人間がもっている完全性〉をいくらかでも回復するために,私たちに残された唯一の方法,それは,〈感覚〉と〈記憶〉,そして〈理性〉の働きを正すことであるように思われます。なんとなれば,私たち人間の行為を導びくような光明はすべて,証拠と説得力と誠実さ,そしてそれらが正しく調和することによって改められるべきであって,事物に対する私たちの支配もそれにもとづいて確立されるべきであるからです。

それゆえ,人間のいくつかの欠陥を想起することは,もっとも考慮に値することであります。そうすれば,私たちは,その欠陥をいかにして補うとよいか,また,どんな手段によって人間の能力を拡大することができるか,そしてそれらがそれぞれの役割を果たすのを保証するにはどうしたらよいかを,よりよく理解することができるようになるでありましょう。

 

1.人間の感覚・記憶・理性の欠陥〕

感覚の鋭さについていえば,人間よりもむしろ他の生きものの方が多くの点でずっと優っております。人間の感覚は,完全にはほど遠いことを認めないわけにいきません。これらの感覚の欠陥は,二重の理由に基づくものです。@そのひとつは,対象が感覚器官の能力を超えていることによります。つまり,無数の事柄が感覚器官に入りえないということであります。そして,Aもうひとつは,知覚の誤りによるものです。この場合は,感覚器官に入った事物が正しく受けとられないわけです。

同様な欠陥は記憶にも見いだされます。すなわち,私たちは,しばしば記憶すべき多くの事柄をすっかり忘れてしまったり,記憶していることの大部分は,どうでもよいことであったり,間違っていたりします。また,たとえ記憶が確実で大切なものであっても,時間が経つうちに忘れ去ってしまいます。そして,結局は,もっとつまらない考えに圧倒されて,その下に埋もれてしまうので,いざ必要という時になっても思い出せないということになるのです。

認識のふたつの基礎,つまり感覚と記憶とは、私たちをあざむきやすいものです。そこで,私たちが,それらをもとにして行う仕事 ― 議論、結論、定義,判断,その他あらゆる種類の理性の業(reason)も、同じ欠点をもちやすく,それが無益であったり不確かなものになってしまったとしても,驚くにはあたりません・ですから,理解の誤りには,感覚と記憶とに責任があって,知識の量と質との両方に欠陥が生ずるのです。というのは,私たちの思考の及ぶ範囲は,自然それ自体の広大な広がりにくらべると,小さいからです。すなわち,自然のいくつかの部分は理解するにはあまりにも大きすぎ,また,あるものは認知するにはあまりにも小さすぎるのです。

そこで,対象に対する行きとどいた知覚をもたないときは,それについての概念や,そのうえに設けられる立論はすべて,まったく不完全でちぐはぐなものになるに違いありません。私たちは,しばしば物の影を見て物質ととり違え,ちょっとした見かけをもとに物質を見まちがえ,類推を定義ととり違えるのです。そして,私たちがもっとも確実な定義であると考えている多くの事柄でさえ,じつは,事物そのものの本質ではなく,私たち自身が誤って理解したことの表現にすぎないということになるのです。

これらの不完全さの結果は,その人の気質や性質によって,それぞれ異なった形で現れます。つまり,ある人びとは,はなはだしい無知に陥りやすいし,またある人びとは,何の保証もないのに大胆に独断したり,他の人びとに〔自分の〕意見を無遠慮におしつけたりするようになるのです。

かくして,人間の行為のあらゆる不確実さや誤りは,@私たちの感覚が狭く不確かであることにもとづいており,また,A私たちの記憶が不確かであったり,思い違っていたことによりますし,さらにB私たちの理解には限界があり,軽率であることに発しているのです。ですから,「自然の因果法則に対する私たちの能力の改善は,まったく遅々としか進まない」ということは何ら驚くに値しません。私たちは,自ら働きかけ考えようとすることがあいまいであることを考慮しなければならないだけでなく,「私たち自身の精神力さえ,自らをあざむくことがある」ということを見ればそういえるのです。

人間の理性の過程には,このような危険が伴うのですが,それを乗り越える方法は,真実の機械論的な実験哲学〔自然科学のこと〕からのみもたらされるものであります。実験哲学は,まさにこの点で,かの理屈と議論の哲学 ― 感覚と記憶にもとつくはずの根本原理をほとんど考慮せずに,主として演繹と結論の巧みさをめざしており,演繹と結論を正しく順序づけ,それらを相互に役立つようにしている哲学 ― に対して優位を保っているのです。

 

2.感覚の欠陥を補う方法〕

この重みのある仕事においてまず最初に着手すべきことは,@感覚の誤りを警戒することと,A感覚の領域を拡大することとであります。

そのためには,まず,@第一に次のことが必要です。それは,「個々の事実を認めるに当たって,その実在性や普遍性や確実性について,慎重に選択し厳しく検査すべきである」ということです。これは,真理というものがその上にはじめてなりたつそもそもの根本であります。ここでは,もっとも厳格かつ公平であらねばなりません。証拠や用途を考慮することなしに,すべての事柄を蓄えこむようなことは,ただ,暗やみや混乱に資するだけでありましょう。

私たちは,その哲学的な財産の豊かさを,数だけによってはかるべきではありません。その価値によってはからなければならないのです。もっとも低俗な事実も無視すべきではありませんが,とくに教訓的な事実を歓迎しなければいけません。自然の歩みを跡づけるには,自然のふつうの現象に目を向けるだけでなく,自然が術策をこらして何回も繰り返したり,方向を転じたりして,私たちの発見を逃れようとしてある種の技巧を用いるように思われるものにも,注目すべきなのです。

感覚に関して,A次にとられるべき配慮は,感覚の虚弱さを道具によって補うことであります。いわば自然の器官に人工の器官をつけ加えるのです。

光学器械の発明によって,あらゆる種類の有用な知識に,莫大な利益がもたらされたのは近年のことであります。望遠鏡が使用されるようになったので,「遠くにあるために私たちの視界に入らない」というようなものはなくなりました。また,顕微鏡が用いられるようになったので,「小さすぎるために私たちの探究から逃れる」といったものもなくなりました。そこで,目に見える世界が新たに見いだされ理解されるようになったのです。そのため、天空も開かれて,莫大な数の新しい星,新しい運動,新しい生成物が,天空に現れました。それは,古代の天文学者たちがまったく知らなかったものです。また,光学器械によって,私たちの足もとに横たわる大地も,私たちにまったく新しいことを示しました。そして今や,私たちは,物質の一つひとつの小さな粒子の中にも,これまで全宇宙の中に数えることができたのと同じくらいの多様な創造物を見ることができるのです。

これらの光学器械によって,物体の素成,物体の各部分の構造,物質のいろいろな組織それらの内的な運動の仕組みと運動様式,その他事物のあらゆる可能なあらわれ方の微細な事柄を,より詳しく見いだすことも不可能ではないと思われます。昔のアリストテレス学派の人びとは,これらのことをみな,質料(matter)と形相(form)というふたつの一般的で(さらに説明でもしなければ)役にもたたないことばで,解釈することで満足していました。しかし,これからは,今日の時代がめざしていると思われる操作的・機械的な知識の増大にむかって,多くのすばらしい利益が生じるでありましょう。なぜなら,私たちは,人間の知恵によって工夫された車輪やエンジンやバネによって働く技術の産物を見るのと同じように,自然の内密な働きもすべて認識することが可能であると思われるからです。

私はここに私の至らない努力の結果を世の中に提示するものでありますが,これは,他の点ではたいして評価すべきものではないということになるかもしれませんが,「哲学の改造」という主要なねらいには,何ほどか役に立つものと期するところがあります。というのは,「哲学の改造のためには,想像力の強さとか,方法の正確さとか,考察の深さとかいうものは(それらをつけ加えることが可能なところでは,そうすることによってより多大な落ちつきをもたらすにちがいありませんが),事実それ自体を現れるがままに調べて記録する誠実な手や忠実な目ほどには必要ではない」ということを示すことだけはできるからです。

ところで,読者にお許し願いたいのですが,私があえて次のことを断言するのをお許しください。すなわち,〈この現在の知識の状況下においては,私が「かくあれかし」と努めてきたように,人は「感覚を正しく用いよう」という決意・誠意・明確なもくろみさえもっていれば,真の哲学に向けてのその仕事の真実性・有用性において,他の人びと ― より強くより鋭い思索の人ではあるが,「感覚による」という同じ方法を用いない人びと ― の仕事に匹敵することすらある〉ということをあえて断言したいのです。

「自然についての科学(サイエンス)は,これまであまりにも長い間,頭脳と想像だけの仕事とされてきた」というのが,本当のところであります。今や,物質的で見やすい事物についての観察の明白さと健全さとに帰るべき好機です。

大帝国については,「帝国を崩壊から守る最良の方法は,帝国がそれを基礎として始まった根本原理と技術にたちかえることである」と言われています。同じことは,疑いなく哲学においてもいえるのです。哲学は,目に見えない概念の森にあまりにも深くさまよいこんでしまって,ほとんど崩壊してしまっています。そこで哲学は,それが当初進んできた同じ知覚しうる道へ引きもどすこと以外には,生まれかわり持続することはできないのです。

それゆえ,もしも読者の皆さまが,私に何らかの誤りのない結論や確かな公理をお望みならば,私は自らのために次のように言うべきでありましょう。そのような智恵と想像による強度の仕事は,私のひ弱な能力を超えるもので,たとえそうでなかったとしても,当面のこの著述においては,それを用いなかったつもりです。そこで,もしも皆さまが,「私が観察した事柄の原因について,何らかのささやかな推測を試みている」と思われるところでは,それらを疑いのない結論や論破されない科学の事柄としてばかりではなく,単に疑わしい問題として,あるいは不確実な当て推量とみなしてくださるようお願いします。すなわち私は,ここで,何ごとによらず暗黙のうちに読者の理解を得ようとして提出しているものは,何もないのです。私は,そういう立場とはほど遠いところにいます。読者の方に望むことは,私の目による観察に絶対的な信頼をおかないでほしいということです。将来,誠実で偏見のない発見者たちによる視覚的な実験と食い違うことがあるかもしれませんから。

私といたしましては,もしも「この私の小さな労作が,自然観察の大きな蓄積,非常に多くの人びとの手によって蓄えられてきたストックの中で,しかるべき位置を占めるに値する」と考えられるなら,所期の目的を達成したことになります。もしも,私が,ごく粗末にせよ基礎を築くのに寄与することができ,他の人びとがその上により高貴な建造物を建てうるようにしえたとするならば,たいへん満足でございます。つまり,私の念願することは,光学器械を作るひとやレンズみがきの人びとが私に対してしてくださったように,私も今日の偉大な哲学者たちに役立てばいいということであります。そして,哲学者たちにいくつかの素材を準備し供給しようということであります。哲学者たちは,将来それを,はるかに大きな利益を得るように,よりすぐれた手腕で注文したり管理したりすることができるでしょう。

 

3.記憶と理性の欠陥の克服〕

人間の精神的な活動のこの一般的な改革のための手だては,次に〈記憶〉に適用されるべきであります。そしてその手だては,「私たちの目的にとって蓄積されるに値する最良のものは何か」,また,「それを蓄積・保管する最良の方法は何か,つまり安全に保存するというだけでなく,必要なときにはどんなときでも引き出せるようにし,便利なように蓄積する方法は何か」ということを,私たちに知らせるような処方から成っているべきであります。しかしながら私はここで,他の論文で論じようと思っていることを自ら妨げるつもりはありません。他の論文では,自然誌や人工史(artificialhistory)の編さん方法,および哲学的な一覧表〔科学資料集〕に個々の事象を記録・配列する方法についてのいくつかの考察を,公理や理論をもちだすのにもっとも役立つように提起するつもりであります。

これにつぐ手だては,じつに冒険的な企てであり,しかももっとも必要なものであります。すなわちそれは,人間の判断力と理性(これは治療し改善すべき第三番目の能力です)に対して,それがもっともさらされやすい危険を避けられるように注意をはらうことであります。前述した人間の判断力や理性のために生ずる不完全さというものは,人間の知識の範囲や質に属するものであります。そこで,この困難は一層大きいのです。少なくとも,あるものに対しては薬と考えられるものが,他のものにとっては毒となってしまいますし,また,知識を増やそうとすると私たちはその知識を貧弱で不確かなものにしてしまうことになるのです。そして,知識のあらゆる状況についてあまりにも綿密かつ正確であろうとすると,こんどはそれを制限しせばめるということになってしまうのです。

このふたつの中間の道がとられるべきであって,何ごとも無視してはなりません。そして,あらゆる事柄を十分よく熟考すべきであります。専門的職業にたずさわる人びとや世界のあらゆる地域の人びとの知恵の中で軽んじられてよいものは,一つもありません。そして,あらゆることを厳しく吟味して,疑問や不安のおきる余地がないようにすべきであります。ものごとを承認するにはより厳格にし,ものごとを比較するにはより厳密にし,また,論ずる際にはさらにゆっくりと議論し,決定を下すにはより慎重にしなければなりません。〈悟性(understanding)〉は,〔感覚などの〕より低次の精神的機能のすべての働きに命令を下すべきです。しかしそれは圧政者としてではなく,正当な主人として行うのでなければなりません。しかも,それは感覚や記憶の職務を侵害することになってはいけませんし,そのどちらかに属している仕事を肩代わりすることになってもいけません。それ〔悟性〕はまた,感覚の異常を警戒しなければいけませんが,それが感覚より先にすすんだり,感覚からの情報を妨げてもいけません。記憶の中に蓄えられている財産を調べたり,整えたり,処分しなければなりません。しかし,悟性は,ときとしてそれがそこで出くわす誤ったイメージや無茶なアイデアと,まじめによく集めた財産とをきちんと区別しなければなりません。

真の哲学が依存しているくさりの輪はたくさんあります。そこで,もしもそのくさりの中のどれかひとつでもはずれたり弱かったりすると,くさり全体がばらばらになってしまう危険性があります。それゆえ,真の哲学は,まず手と目とをもとにして活動を始め,記憶を通じて前へ進み,理性によって引き継がれるべきものであります。しかも,そこに留まるべきものではなくて,ふたたび手や目に帰ってくるべきものであります。そして,こうして一つの機能から他の機能へと果てしなくめぐることによって,その生命力は維持されるべきであります。それは,人間の肉体が,血液循環つまり,腕や足や肺臓や心臓や頭など肉体の諸部分を循環する血液によって,その生命力を維持するのとまったく同じであります。

もしも,先に述べた方法がひとたび勤勉・慎重に実行されるならば,〈人間の才知の力(あるいはそれよりもはるかに効果的な人間の努力)が及ぶ範囲にあるもので,私たちが理解しえないようなもの〉は何もないことになります。私たちは,コペルニクスやガリレオ,ギルバート,ハーベイ,その他〈火薬,羅針盤,印刷術,腐食銅版法,銅版彫刻,顕微鏡等々の発明家で,今ではすでにその名を忘れられている人びと〉の仕事に匹敵するような発明を期待することができましょう。そればかりでなく,それらよりもはるかに優れた多くのものをもたくさん期待することができるかもしれません。というのは,これらの発見はこのような方法の産物であったし,しかもその不完全でしかなかった方法の産物であったと思われるからであります。それゆえ,もしもこの方法が徹底的に遂行されたなら,期待しえないものは何もないことになるでしょう。

論証のための話し合いや論争といったものは,ほどなく骨の折れる労働にとって変えられるでありましょう。繊細な頭脳のおごりが創り出した,〈普遍的な形而上学的な自然〉とか〈持論の美しい夢〉とかいうものはすべて急速に消え失せ,信頼できる実質的な記述や実験や研究に席をゆずることになるでありましょう。そして,人類がはじめ,知識という禁断の実を味わうことによって堕落したように,彼らの子孫である私たちも同じやり方,つまり,じっと考えて眺めているだけでなく,いまだかつて禁じられたことのない「自然の知識」という果実をも味わうことによっていく分かはもとにもどれるかもしれません。

 

4.感覚とそれを助ける技術〕

世界はいろいろな発明に助けられて,科学のために新しい事柄を集め,古いものを改善し,そのさびをこすり落とすことができます。私たちが,自然の労作を見習って作りだしたすべての技術の成果を受けとることができるのも感覚のおかげですが,感覚もまた驚くほど技術の恩恵を受けることができます。そして,技術によって,感覚器官がより容易またより正確に働くように導くこともできます。そこで,私たちの感覚には欠点があることを知れば,それを補う方法を簡単に見いだすことができるようになるかもしれません。

熟練した職人は目の働きを補うことがたいへん上手で,かれらの多くのすばらしい作品も,その成果としてもたらされたものです。このことから,「目以外のすべての感覚だけではなく,目そのものの働きをも改善するのに役立つ方法が存在する」と結論してもよいでしょう。すでに実現されていることは,私たちを満足させるだけでなくて,さらに進歩するようにと私たちを鼓舞し,同じ方法や違った方法でさらに大きなことを企てるようにと私たちを励ますものであります。

目の補助手段としてこれまで発見されているものよりもはるかに有効なものが,これから発見される可能性は大いにあります。そのような補助手段によって,私たちは他の惑星に生物を発見したり,物質の構成粒子の形とか,物体の個々の組織・構造を発見できるかもしれません。

また,光学器械が私たちの視覚を高度に増進したのと同じように,他の感覚,聴覚,嗅覚,味覚,触覚を改善するような多くの機械的な発明が行われることもありえないことではありません。

1/8マイル〔約200m〕も離れたところでのささやき声を聞くことも不可能ではありません。そういうことはすでに実現されているのですから,事物の本質からして,その距離を10倍にすることも不可能ではないでしょう。ある有名な著者は,「白雲母のもっとも薄い板でもそれを通して音を聞くことは不可能だ」と証言していますが,私は,1ヤード〔約91cm〕もの厚い壁を隔てて人が話すのを聞く簡単な方法を知っています。「otocousticonsはどこまで改善可能だろうか」とか「私たちの聴覚を敏感にするには他にどんな方法があるだろうか」などということは,まだ十分に吟味されてはいないのです。「空気以外のものを通して音を伝えるにはどんな方法があるか」ということも同じです。というのは,空気は音を伝える唯一の媒体ではないからです。読者の皆さんに保証しますが,私は,ぴんと張った針金を使って,音を相当遠くまで ― 一瞬のうちに光の速さと同じくらいの速さで ― 少なくとも空気を伝わる音の速さとは比較にならないくらいの速さで,伝えることができました。まっすぐ一方向だけでなく,ところどころで曲がっていても音が伝わったのです。

他の三つの感覚〔嗅覚・味覚・触覚〕は,それほど完全ではありませんが,勤勉と注意とをもってすれば,多くの機械装置が工夫されて,それを大いに改善することができるでしょう。

嗅覚というものは,空気(臭いのある物体からの蒸気や発気(effluvia)が充満している),鼻の曲がりくねった軟骨を迅速に通過することによって生じると思われます。鼻の表面は,非常に敏感な神経でおおわれています。そしてその表面は脳のプロセサスマミレアー(processus mamillares)とその隣りの小腺(glundules)からの浸出物で湿らされ,また臭気を受け入れるのに便利な液を含んだ舌の湿った空気に満ちています。それで神経に作用するのです。つまり,本書の「観察」の中で示すように,おそらくは塩の粒子がサンショウウオや力土ルの皮膚を通過するのと同じ仕方で,脳の体液へと徐々にしみこむことによって神経に刺激を与えるのです。

私の考えでは,臭いを嗅ぐということは,このような方法によって生じると思われるのです。そこで,多量の空気が速く鼻を通過するような仕組を作れば,嗅覚は鋭敏になるでしょう。それは,空気の通過を妨げると嗅覚が鈍くなったり破壊してしまうのと同じことです。この感覚を妨害したり促進することについて,私はいくつかの試みを実行し,そのいくつかは予想どおり成功しました。ですから,「さまざまなものの組成を判断するために嗅覚を改善することも可能である」と思われます。おそらく,私たちは,(他の生物がするのと同じように)嗅覚によって「何が薬で何が毒か」つまりは「何がそのものの特性であるか」ということを判断することもできるようになるでありましょう。

その他,いろいろなものが発散する発気(エフルビア)を敏感に感じとるのにいくつかの機械的な方法も発見できるでありましょう。そのいくつかの例をここでとりあげてもよいのなら,私は鉱物性の蒸気や発散物の例をもちだすことができます。そこで,このような改善された方法を用いれば,大地の下にどんな鉱物が埋蔵されているか,掘る手間をかけることなしに発見することができると思われます。さらにこの予想を裏づけるいくつかの事実は,アグリコラ*その他の著者の鉱物学の本の中に記されています。それらの著書には,「植物の中には,鉱物性の蒸気の中で成長を促進されたり,成育を阻害されたりするものがある」ということが述べられているからです。

*Agricola;1494-1555,,鉱物学・鉱山学の創始者といわれている。

「大地から出てきて空気とまざ(,空気がはらんでいるいくらかの水性発散物を沈降させ)ると思われる蒸気を,それが効果〔雨など〕を生ずる以前に何らかの方法によって見つけられないかどうか」を,はっきりさせることはむずかしいことです。しかし私は,この種のものを,自分で考案したひとつの装置 ― 空気の圧力のどんな微小な変化でも示すことのできる装置 ― を使ってすでに発見しています。つまり,私はいつもその装置を使うことにより「雨が降り出す前や雨が降っている間は空気の圧力が比較的小さくて,雨の降らないとき,とくに東風(広大な地上を吹きすぎてきたために土の粒子を含んで重くなっている)が吹くときは,圧力が比較的高い」ということを見いだしているのです。もっとも,気圧は,まったくおかしな法則に従って変化します。

 

(中略)

 

8.観察の方法一序論を終えるにあたって〕

私がどんなものを観察したかということは,あとに続く本文からもわかるでしょうが,結局のところ,私が観察したものは,とても小さいものやとても小さな孔やとても微小な運動であります。それらのうちのいくつかは,このあとの本文中で読者の方にも見ていただくことができますが,それらのもの(のうち少なくともその大部分のもの)は新しい事柄で,おそらく少なからず新奇なものだと思います。また,それらの項目のいくつかの実例は本文中の線画に示されていますが,これ以上のものを私はそこに入れようとしたのです。つまり,当初の計画では,ずっと多くのものを印刷に付すつもりだったのですが,それを完成するには時間が足りませんでした。そこで,私が行った観察のうち,詳細にわたって観察するのにもっとも値すると思われるものを,各項目から少しだけ選んで,残りは今回の計画では省略することにしたわけです。

線画に描かれているものが何であるかということは,それぞれの線画に付した本文の記述がお知らせすることになりましょう。ところでこれらの線画に関して,ここで一度だけ付記しておきたいことがあります。それは,彫刻師たちが私の下絵と指示に従ってとてもよく製作してくれたということと,下絵をつくるにあたり私は(できる限り)まず本当の形を明らかにして,次にそれを平易に表現するように努力したということです。こんなことをことさら指摘するのは,この種のもの〔微小物体〕の真の形を見いだすことは,肉眼で見えるものの形を知ることよりもはるかにむずかしいからです。というのは,同一のものでも光に対する位置関係によっては,実際の他の位置関係で認められるものとまったく違って見えてしまうのです。そこで私は,描画をはじめる前には必ずいろいろな光をあてて何回も調べたり,ものを光に対していろいろな位置に置いてみて,本当の形を明らかにしました。というのも,ものを見るとき,出っぱりとへこみを区別し,影と黒いしみを区別したり,光を反射して白く見えるのと、もともと色が白いものとを区別したりするのはきわめて困難だからです。しかも透明な物体の場合には不透明な場合よりも,そのような区別をするのがとても困難なのです。

ハエの目は,ある種の光のもとではあたかもたくさんの小さな孔の通っている格子のように見えます。かの独創性豊かなパワー博士*さえ,ハエの目を格子のように見なしたのはそのためだと思います。ハエの目は,太陽に照らされている時は,その表面が金色の針でおおわれているかのように見えます。またある場合には,その表面が角錐形のものでおおわれているように見え,また他の場合には,円錐形のものでおおわれているように見えます。そして他の位置関係では,さらにまたまったく違った形に見えます。しかし,もっともよく見えるのは,私がすでに述べた手段を使って対象物の上に光を集めたときです。〔観察39参照〕

*HenryPower;1623-1666,医学博士でその著書に『新実験哲学』(1663)がある。この本の第1部は「新しい顕微鏡実験」と題されており,顕微鏡観察による研究をフックに先

だって発表していた。・

 

ところで本書の観察は,王認学会が自らに課した計画を遂行するために行われたものであります。この学会の会員たちは,これまで人類の大半が長い間人間の理性の力だけを頼りにしてきたためにさまよい続けてきたたくさんの誤謬や虚偽という致命的な実例を眼のあたりにしてきました。そこで,船のりが推測航法を天体観測によって正すように,感覚によってすべての仮説を新たに正そうとし始めたのです。

この目的のためにこの会の人びとの努力の焦点は,それぞれの感覚の特有な働きに適した道具や薬品によって,感覚を鋭敏にしたりその及ぶ範囲を拡大したりすることでありました。この方法によって,当学会の人びとは,これまで通常〈質料〉に帰せられてきた物体の諸性質や,これまで神秘と認められてきたものも,自然という小さな機械の仕業であると推察する根拠を見いだしています。その自然という小さな機械は,感覚の範囲を広げたり鋭敏にしたりする道具や薬品の助けなしでは識別されえないもので,〈運動〉と〈形〉と〈大きさ〉の産物にほかならないと思われるのです。「自然の構造(おりもの)(textures,織物)」は,ある人びとは〈塑性力(plastick faculty)〉の結果と呼んでいますが,それが〔自然という〕織機の中でつくられるのではないかと推察する根拠を見いだしています。より完全な光学は,その織機をその成果である光学器械によって,認知しうるようにするかもしれないのです。

ですから,今や,この学会の人びとはこのようなことについてあまり不思議に思いません。無知な人びとが「錦や花模様のついた織物はどのようにして織られるのか」ということについて不思議に思うほどもないのです。さて,人びとは,「これらすべての研究の目的は,観照的な精神の歓びにある」と思いがちですが,その目的は何ものにもまして,人間の手の労働を容易にし,手早くすることにあります。事実,人びとは,遠隔地の稀有の事物をすべて,その知識と実用との範囲内にもたらす機会をまったく無視しているわけではありません。しかも,人びとは,彼らにもっとも役にたつ情報はありふれた事物から生じ,またそれに対する通常の働きかけに変化を与えることから生じるということを認めております。人びとは,ありふれた単なる「光」の実験や「理論」を全部拒絶するというわけではありません。人びとは,その応用が現在の手工芸のやり方を改善したり簡単にすることを,主としてめざしているのです。

おそらく,あまり名誉でもない仕事に従事させられている人びとは,この学会のやり方を勝手に批難するかもしれませんが,この学会の人びとは創立以来これまでの3年間,ヨーロッパの他の学会がもっと長時間にわたってなしとげたものよりも,ずっと多くの成果をあげています。じつのところ,この学会のような企ては通常あまり誉められないものです。なぜかというと,一般に人間というものは,学問の中でも真実にして確固たる部分よりもむしろ,もっともらしくてとりとめのない部分のほうを好むからです。

ところが,この学会にとって幸運なことには,この学会はかつてないせんさく好きなこの時代にあって,非常に多くの主要な貴族や紳士階級の人びとの寄付と加護とによって支持され,さらにその他いくつかの専門分野においてもっとも著名な人びとによって支持されてきたのです。その上さらに,かなり多くの人びとがこの学会について抱いている評価のうちで,さらに私を確信させてくれたものとしては,次のことがあります。すなわち,真に行動の人である何人かの商人たち(その目的はこの世の出来事の基礎をなす"自他の所有権"にあるのですが),大衆100人のうちのひとりとしてその企ての実現の可能性を信じなかった時でさえ,私たちの会員の誰かが工夫したものを実用化するためにかなりの金額を支出し,しかもそのような企てについてその楽観的な考えをしっかりともち続けてきているということです。またここで,この学会の人びとは自らに固有の富をもっており,そのメンバーには貿易と運輸の関係者がとてもたくさんいるということも,付記するに値します。このことは,この学会の創立の時に,実業界の人たちが大きな比重を占めたということを見ても,「この学会の人びとの試みが,哲学を言葉から行動へと移すだろう」ということを示す良い前兆と言えます。

ところで,これに関連して私自身に直接関係のあるひとつの特別な寄付行為のことについて,隠しておく必要はないと思います。それは,ジョーン・カトラー卿*が機械技術の促進のための講座を寄付して,その管理運営を当学会にゆだねたその好意のことであります。この寄付のことを,私は,このこと自体の高貴さのためだけでなく,この寄付の効果について私が抱いている期待のためにとくに申し上げるのです。というのは,この名高い都市のかくも傑出した名誉あるひとりの人物が推賞しているという確かな証拠があれば,「この学会の企てはばかげていて無益なものだ」という異論は現れえないからです。この人は,その人とのつき合いの多様さとその幸運なる成功とによって,「この人は簡単にだまされるような人ではない」という明らかな保証を与えてくれるのです。

*Sir John Cutler; 1608?93,英国の大事業家。

 

この紳士は,「実生活の技術は,これまであまりにも長く機械職人たちの暗い店の中に閉じ込められていて,無知と利己主義との両方によって発展を妨げられてきた」ということを十分に見てとってきたのです。そして彼は,勇敢にもその技術をこうした不都合から解放したのです。彼は,小売商人たちに恩恵を施したばかりではなく,商業それ自体にも恩恵を施したのです。彼はロンドンにとって価値ある仕事をして,「商業はいかにして改善されうるか」,その正しい方法を,世界の商業の中心であるこの〔ロンドン〕市に教えてきたのです。私たちはすでに,同じ人の手から,その人の気前の良さと度量の大きさとを示すさらにたくさんの徴候を見てきています。「生活困窮者救済協会(the Corporation for the poor)」の設立によって,また聖ポール寺院の再建〔16634月〕に対するその高額の寄付によって,さらにアイルランド植民に対する気持ちの良い出費によって,またその他の多くの同様な公益事業によって,彼はどんな方法でその名声を樹立しようと努力しているかを示してきました。そして,今度の学会への寄付によって,彼はわが国のもっとも賢明な市民のひとりとみなされるようなことをしたのです。それは,この学会設立の計画を最初に提案したのが,わが国のもっとも賢明な政治家のひとりベルラム卿〔Francis Bacon; 1561-1626のこと〕であったことを見てもわかります。

話がわき道にそれましたが,こうした事例は非常にまれなので,読者の皆さまもこれ以上私がわき道にそれることはないということを見て,お許しくださると思います。そこで,話をもとの主題にもどしましょう。ここに提出します私の最初の著書が,もしも好奇心のある人びとにとって何かお役に立つことがあるとすれば,それは,「聖職者にして学識豊かなあるお方が,この仕事を励まし促してくださったおかげだ」と言わなければなりません。その人は公平に言って「私たちの時代にこの国が生み出した発明のうち,何らかの方法でこの人の助けを借りなかったものはほとんどない」と言われてしかるべき人であります。

こう言えば,読者の皆さまはすぐに,「その人はウィルキンズ博士*のことだろう」と推察されることと思います。実際この人は,人類の幸福のために生まれ,国家の名誉のために生まれてきた人であります。この人の物腰のやわらかさとその考えのおだやかさ,その心の果てしないあたたかさの中に,私たちは特定の宗派によって悪くされる以前の「本当の原初的で激情的でない宗教とはどんなものであったか」ということを示す明確な実例を見ることができるのです。ひとことで言うと,すぐれていて利益のあるあらゆる技術を発展させることに関するその熱意は一貫しており,また効果を収めました。ある古代ローマ人はスキビオについて,「スキビオはどこで生まれたとしても,そこが世界帝国の中心地になったに違いない」という理由で,スキビオがローマ人であったことを感謝したというのと同じく,私は,ウィルキンズ博士が英国人であったことを神に感謝します。それは,彼がどこに住んでいたとしても,その地が豊富な知識と真の哲学との中心であるに違いないからです。このことの真実性について言えば,これを保証してくださる人びとがとても大勢おられます。ですから,賢明なる読者の方がたは,私がここで述べたことは単なるお座なりの賞賛ではなくて,真の宣誓しうる証言だとみなしてくださると思います。

*John Wilkins; 1614-72, 王認学会創立者の一人。のちにチェスターの司教になった。

 

私が本書の執筆に着手いたしましたのは,まさにこの閣下〔ウィルキンズ博士〕の助言によるものであります。けれども,じつは気の進まないところがありました。というのは,この種の事柄に取りくんだ最初の人であるレン博士**のような有名な人のあとに続くのはきついことであったからです。レン博士の筆になる描画は,今では,国王陛下の私室にある珍品の大コレクションに光彩をそえるもののひとつとなっています。博士の手になるこの種のものが,世界のもっとも有名な場所で認められたその名誉は,私を勇気づけてくれましたが,それ以上にレン博士のあとに続くという大それたことをすることが私を恐れさせたのです。というのも,レン博士は,「アルキメデス以来,博士ほど機械の手のような完全さと哲学的精神とをそなえた人は,他にひとりもいない」と断言しうるほどの人だからです。

**Christopher Wren; 1632-1723, 英国の数学・建築学者,ウィルキンズとともに王認学会の創立に貢献した。

 

しかし,ウィルキンズ博士が,「〔レン〕博士はもう顕微鏡による研究の計画を断念している」と言ってくださったばかりでなく,レン'博士御自身もそう言ってくださるし,またこの研究をもくろんでいる人は他に誰もいないということを知ったので,私はとうとうこの仕事に着手したのです。名誉ある王認学会は,私がこの企てを進めるのを少なからず励まし,私が学会に提出したスケッチ(それは私が機会あるごとに描いたもので,学会に認めていただいたものです)を私に与えてくださいました。そして,私のひとかたならぬ友人でもあった学会の貴顕,何人かの人びとの激励によって,ことさらに勇気づけられました。この人びとは,その研究だけでなく,それを出版するようにとしきりに私を促してくれました。

私がこの本の図と文章とをほぼ完成したあと(そのいくつかはすでに版にされていて,印刷寸前でありました),私はかの医者として名高いヘンリー・パワー博士が顕微鏡観察を行っていたということを知りました。そこで私は,相互の記述を対照することによって,「パワー博士のものは,主題そのものについても,とくに注意を払われている事項においても,私のものと大きくくい違っている点はない」ということを知りました。この時,パワー博士の計画は,図版なしで観察記録だけを印刷することにあることも知ったのですが,かなり進行していた私の本を出版するのを一時停止しました。

しかし,その後また何人もの友人たちにおだてられ,「その本は知的好奇心の強い人びとに受け入れられないはずはない」という彼らの意見に従い,かつまた,「その発行によって,私が何か新しいものを世問に知らせることになるといい」1と考えて,私もついに広大な学問の記録庫の中に私の小銭を投げ込むことにしたのです。私の考え信ずるところによれば,ここに示す私の仕事は,他の多くの究理学者(ナチユラル ブイロソフア)たちの成果とくらべられるようなものではありません。究理学者たちは,いまやいたるところで,はるかに大きな問題にとりくんでいるからです。それは,私の見た対象物,ノミ,シラミ,ブヨといったものが,自然界のより大きくより美しい創造物,ゾウ,ライオンといったものとくらべものにならないのと同様であります。

 

 

本論

観察1

鋭く細い針の先端について

〔はじめに〕

幾何学では,数学的な〈点〉からはじめるのがもっとも自然なやり方でありますが,それと同様に観察と自然誌においても〈点〉からはじめるのが,もっとも正則で単純かつ教訓的であります。私たちは,まず,文字を印し一筆を入れることからはじめて,長い文章を綴り大きな絵も完成することができるのです。自然学的な探究をする時にも,私たちはまず,自然がもっとも簡単で要素的な物体の中に示す比較的わかりやすい道筋にしたがって,自然のあとを追い,自然の歩みをあとづけるように努めなければなりません。そうすれば,自然がそこらを散歩するやり方になじむことができます。そうしてはじめて,私たちはもっと複雑な物体に見られるような自然の迷路に自ら踏みこむことができるのです。そうすれば,私たちは,〈自らの道を識別し判断することができなくなって,私たちの道案内である自然を見失い,私たち自身を見失う〉という過ちをしないですみます。そして,〈迷路の中で私たちの行く手をさし示す光明=判断と,行く手を示す道しるべの糸=経験との両方を失って,根拠のない意見という迷路に迷いこんでとり残される〉というようなこ

とがなくてすみます。

 

〈針の先端についての観察記録〉

そこで,まず第一に,もっとも単純な性質をもった物体の観察から私たちの探究を始め,それから漸次より複雑なものの観察へと進むことにしましょう。この方法を遂行するために,私たちは物理的な〈点〉の観察から始めることにします。事実,針の先はたいてい非常に鋭くつくられていて,肉眼では「その針の先に大きさがある」と認めることはできないほどです。針は,それよりも柔らかいすべてのものをたやすく突き通し,その道を開きます。

しかしです。もしも非常によい顕微鏡でのぞいたとすれば,針の先端は(人間の感覚では非常に鋭いように見えても),鈍くて広く,まったく不規則な端に見えます。「円錐体のごとくであろう」と想像されるのに,それには似てもいません。円錐の先端の大部分がなく欠落していて,単なる先細りのものにしか見えないのです。それどころか,虫ピンの先端はもっと鈍くて,先がありません。そしてもっとも精巧な製図器具の先端でも,非常な鋭さに達していることはごくまれにしかありません。ですから,「定規とコンパスとの作図だけで行われる証明のうえに,多くのものが築かれる」と考えるのは,それらの点や線を顕微鏡の下で見ていない人だけが考えうることだといえます。

 

〈もっとも鋭い先端をもっているものにどんなものがあるか〉

さて,針の先端は一般に「もっともとがっているもの」とみなされています(そこで,私たちは最高度に鋭い先端を表現しようと思う時,「針のように鋭い」というわけです)。けれども,顕微鏡は,針の先より何千倍も鋭い先端をもった何百もの実例を私たちに提供してくれます。たとえば,多くの昆虫に見られる毛,剛毛,つめがそうです。また,葉やその他小さな植物体についているいろいろな形のとげもそうです。いや,そればかりではありません。鍾乳石の先端や石綿や羽毛状ミョウバンの小さな平行六面体の先端もそうです。その多くは,(ものの大きさを体積にして100万倍以上に拡大するような)顕微鏡を通

して見ても,その先端は目に見えないほど鋭く見えます。けれども,もしも顕微鏡をその理論どおりにつくることができたとしたら,これらのどんなに鋭いものの先端にも角の開いた頂点があって,そこにはまた丘や谷や孔が見つかり,それらのすべての部分にゆとりを与えるのに十分な幅や広がりを見つけることができることは,疑いないと思います。というのは,〈量〉とか物体の〈延長〉というものは,おそらく<物質〉とは違って,〈無限に分割可能〉であるに違いないからです。

 

〈みがいた金属がでこぼこしていること〉

さて,話を進めましょう。図1の絵は,細くてとても鋭い針の先端を描いたものです

,顕微鏡を通すとその先端aa,は幅が1/4インチ〔6mm〕以上もあって,丸くも平らでもなく,でこぼこしていて一様ではありません。そこは100匹の武装したダニをその上にならべても,ダニが押し合いをして互いの首を傷つける危険もないほど十分大きいように思われます。その表面は,肉眼では非常になめらかに見えますが,顕微鏡を通すと,それをとりまくたくさんの穴や引っかき傷が見えて,そのでこぼこさを隠しようもありません。そのざらざらは,(小さなさびの斑点によってできたと思われる図のA,B,Cの穴や,付着物がくっついたと思われるDのように)偶然的なものであります。その他,表面を粗っぽくしているのは,技術が粗雑であったりやりそこなったりした痕跡にすぎません。針の製造技術は,その製品がもっともきれいに見える時でさえ,総じてたいへん不正確なのです。ですからそれをつくった技術よりももっと鋭い装置でその形を調べてみたら・見れば見るほど、その外観は美しく見えなくなることでしょう。

(図1)

http://www.geocities.jp/hjrfq930/Science/nyuumon/hookmiczu1-1.pdf 

 

これに反して,自然のつくりだしたものの場合は,観察が深まるほどすぐれた美しさを私たちに示してくれます。〈すべての事物の著者であった人〉は,識別しうるもっとも小さな〈点〉においても,地球とか太陽とか惑星とかのような巨大なもの(それらも,比較上は点と呼ばれることがあります)の中におけるのと同じくらい多様な部分としくみとを含ませることができるのですから,〈全能〉以外の何ものでもないことは明らかです。地球でさえ時には類推的に〈物理的な点〉と呼ばれたりしますが,それは奇妙だと思う必要はありません。というのは,地球は今私たちのごく近くにあるので,私たちの目と想いとにはとても巨大に感じられるにすぎないのです。そこで,少し距離をおいて「ものを小さく見せる便利なメガネ」を使ったら(実際私はしばしば月について試み,さらに太陽についてもそれがあまり明るくないときにためしたことがあるのですが),地球はほとんど見えないくらいの小さなしみ,つまり点にまで消滅させられてしまうでしょう。ですから,いずれ何かの機械装置が私たちの理論に十分に答えることができるようになったら,私たちは,もっと小さな〈点〉でも地球と同じくらい大きく見ることができるかもしれません。そして,デカルトも椎測しているように,月や惑星の上にも地球上と同じくらい多種多様なものを発見することができるかもしれないのです。

 

〈印刷された点についての観察〉

しかし,そのような発見は未来の仕事に残すことにして先に進みましょう。そして,普通〈点〉と呼ばれているもの,すなわち〈終止符〉,つまり〈ピリオド〉について,もうひとつの観察をつけ加えることにしましょう。私は印刷された点と手書きの点とをたくさん観察したのです。その結果,私の見たたくさんの点の中には,2に描いたもの以上に丸く整ったものはほとんどなく,大部分のものはもっと形がくずれていました。さらに銅版とロール印刷機とによってつくられた点は,見た目には大部分等しく丸く見えていても,活字で印刷されたものと同じように形がくずれていることがわかりました。もっとも精巧でスムーズに彫られた線や点も,たくさんのみぞや穴があるようにしか見えず,それを印刷したものも,マットやでこぼこした床の上に火の消えた燃えさしや棒の端で塗りつけたもののようにしか見えないのです。

(図2)

http://www.geocities.jp/hjrfq930/Science/nyuumon/hookmiczu1-2.pdf 

 

 

訳者あとがき

この本を訳すのは大変な仕事でした。この本は1665,つまり今から300年以上も昔に出版された本ですから,文体が古くて、言葉も今日のものと違うものが少なくない上に,フックの文章がとても難解なのです。フックは,文章を書きながら思いついたこと,知っていることを全部書きこんでおきたいという気分が強かったに違いありません。やたらに文章が長くなって,途中で知らぬ間に主語が変わってしまっているのに気がつかない,といったところも少なくないのです。今から考えると,「よくもまあ,こんな難解な英語を訳出したものだ」という感じがします。

そんなわけで,この翻訳にはとても長い時間がかかりました。途中で長く休むこともなく,毎週1度ぐらいは二人で難解な文章に取り組んで4年半もの年月がかかったのです。はじめはもっと短時間に訳了するつもりでした。ところが「文章が思ったより難解だったため」というよりも,その難解な文章を読みほぐしていくと,思ってもみなかった面白い話がたくさんでてきて,「これも訳そう」「この部分も読んでおこう」というので,訳出する部分がどんどん増えていってしまい,それで時間がかかったのです。はじめの計画では,ここに訳出した文章の半分くらいを訳しただけですまそうと思っていたのが,これだけの分量になってしまったわけです。

こういうと,「抄訳でなく,全訳してほしかった」という人がいると思いますが,(板倉)は「たとえ時間があり能力があっても全訳はしない」というつもりでした。全訳して出したら本の値段が高くなるばかりか,やたらに部厚い本ができて手を出すのもおっくうになります。それで「その部厚い本のどの部分が今日とくに興味深いか」探すのが大変になり,結局のところ「まったく読まない」ということになりかねないからです。

もっとも,ここに訳出した部分の他にも、まだ訳しておきたいと思えるところもなくはないので,「今回はこれで断念した」ということもあります。省略したところも概要だけは訳出しておきましたので,とくに関心のある方は原書にあたってくださるとよいと思います。私たちも今後さらにもう少し詳しく読んでみて,いつか余力があったら,「この訳書に増補してもっと役に立つようにしたい」とも考えています。しかし,今のところはこの訳書をみていただければ,ロバート・フックという人はどんなに想像力のたくましい人であったか,驚かされるに十分だと思います。

じっさい,「この訳書の最大の意義は,ロバート・フックという人の想像力のたくましさを知ることにある」といってもよいと思います。フックの名は,これまで「弾性(ばね)に関するフックの法則」の発見者または「細胞」の最初の発見者として知られるほか,「たえずニュートンと先取権争いをしてニュートンに嫌われた人」として有名だったりするのですが,私はニュートンよりフックの想像力のたくましさのほうに強くひかれるのです。

もっと、も,「フックという人はどんなに想像力が豊かで好奇心が旺盛だったか」などということを知っても、今日の私たちには何の意味もない,という人がいるかもしれません。しかし,考えてもごらんなさい。フックの時代はギルバートやガリレオなどのおかげで近代科学の研究が始まったばかりで,実験装置といえば今の小中学生でも手にしうるような望遠鏡や顕微鏡,温度計などしかなかった時代なのです。数学だって微積分法もまだで,やっと代数と解析幾何学が使えるくらいの時代だったのです。つまり,今の小中学校程度の数学的知識と,少し科学好きの小中学生なら自宅にもっている程度の実験器具だけをもとにして,これだけのことを研究し考えていたのです。

ということは,この程度のことは,今の小中高校生にも教えられるということです。「原子とか分子などはまったく見えなくても,このくらいのことは考えられる」ということなのです。私がこの本に強くひかれたのは,まさにそういうことを知りたかったからなのです。「小中学校程度の数学と実験だけで、どれだけのことが研究しうるものか」を知るには,ロバート・フックのこの本がもっともすばらしい見本を示してくれると思ったからです。

「はしがき」にも書きましたように,この本は「身近にある雑多なものを思いつくままに顕微鏡で観察し,図に記録しただけのもの」と誤解されてきて,とても低い評価しか与えられてこなかったわけですが,フックがその顕微鏡でいちばん見たかったものは原子や分子そのものだったような気がします。結局原子や分子は見えなかったわけですが,フックはそれでもその関心を捨てきれず,この本の最初に毛細管や分子運動論の生き生きした話を書いているのだと思うのです。この本の図版をながめただけだと,「最初に顕微鏡を手にした人なら,だれでもこのくらいの観察はできる」と思う人がいるかもしれませんが,決してそういうことではないのです。

ガリレオは望遠鏡を自分でつくって,それでもって天文学上の大発見をしました。しかし,「だれだって最初に望遠鏡を手に入れれば,そのくらいの発見はできる」と思うと大まちがいです。いや「頭のいい天才ならば」と限定してもダメなのです。実は,ガリレオは顕微鏡もつくって微小な世界ものぞいているのですが,こちらでは細胞はもちろんのこと,何も発見していないのです。ベネチアの元老院のお偉方たちは,ガリレオのつくった望遠鏡をはじめて手にして,遠くからやってくる船や人間を見ただけでしたが,ガリレオも「顕微鏡でみるとアリが巨大に見える」と驚いただけだったのです。いくら頭のよい人でも,とくにチャンスを得てすぐれた問題意識をつかまないと,すばらしい実験道具を手にしても、おいそれとそう大発見ができるものではないのです。

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ロバート・フックの伝記をはじめとするやや詳しい「フック論」といったものは,すでに書きあげてあります。じつはそれは『フックの弾性の理論』の翻訳にのせるつもりで書いたのでここにはのせられないのです。その訳書もボイルの『気体の法則』と合わせて一冊にして本訳書と同じシリーズとして仮説社から出版を予定しているのですが,今のところ思わぬ故障が生じて完成がおくれているのです。遠からず陽の目を見させたいと思っていますので,その時までお待ちくださるようお願いします。

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この本の訳出にすごく長い時間がかかったことについてはすでに書きましたが,この本の訳出は次のように進めました。まずはじめに永田が大ざっぱな下訳をして,それをもとに板倉が永田と頭をつき合わせて,辞書をひき直したり話しあったりしながら,一語一語検討して全面的に訳しかえていきました。文章が難解ということのほかに,出てくる事柄について私たちがよく知らないことも少なくないので,それで内容を理解するのが容易でなかったわけです。それだけにまたこの過程でいろいろなことを発見できて楽しい思いをしました。

こうして,はじめ訳出を予定したところをひと通り訳しおえたのち,その他に訳しておいた方がよさそうな所に目ぼしをつけ,その部分も同じようにし,訳出しました。こうしてひと通りの訳文ができたあと,また二人で,すらすら読める日本語に訳し変える作業を進めたのですが,これも大変な仕事でした。わかりやすい日本語にしようとすると,内容の理解が改めて問題になり,いろいろな本を調べ直したり,観察してみたりすることが絶えず必要となったからです。その間に,また新しく訳出したいところがでてくることもありました。結局,どの文章も一語一語34回は訳し変えてこの形になったわけです。そのためずいぶん読みやすく、わかりやすくなったと思います。しかし,英文の解釈のほか、事柄の理解の上でも思わぬ間違いをしているところがあるかもしれません。気のついたことがあったら御教示くださるようお願いします。

板倉聖宣

永田英治