ガリレオ・ガリレイ「天文対話」青木靖三訳(岩波文庫)

第二日から

 

P.217以下

(石の落下の仕方は、船のマストの頂上からと塔の頂上からとで違う)

サルヴィァチ 地球が日周運動をするときの、大地の場合と船の場合とでは非常な違いがあります。というのは、船の運動は、この運動が船の自然的運動でないように、船のうちのすべてのものにも偶有的であることはきわめて明らかですから。だからマストの頂上にとどめられていた、あの石が自由にされて下に落ちる場合、船の運動を追わなくてもよいということはなんら驚くべきことではありません。しかし日周運動は地球、したがってその諸部分すべてに固有で自然的なもので、自然によって課せられた運動であるがゆえに、その諸部分から抹殺できるものではありません。ですから塔の頂上にあるあの石は、全体の中心の周りを24時間でまわるという原始的本能をもっています。そしてこの自然的能力は、たとえ石がどのような状態にあろうとも、永遠に働きかけるのです。そしてこのことを納得するには、君が頭のなかでつくりあげている古い考えを変え、つぎのように言いさえすればよいのです。すなわち「ぼくはいままで地球の特性はその中心の周りに動かずにあることだとみなしていたため、地のいかなる小分子もまた自然的にはその同じ静止状態にあることだと考えるのになんらの困難や嫌悪ももっていなかったが、これと同じように、もし地球の自然的本能が24時間で中心の周りをまわることであったならば、そのあらゆる部分の内在的で自然的な傾向もまた、じっとしていることではなく同じ進行のあとを追うことであるはずだ」と。こうすればいかなる不都合にも妨げられることなく、つぎのように結論できましょう。すなわち櫂の力によって船に、また船を通してそのうちにあるすべてのものに与えられる運動は、自然的なものではなく無縁なものであるのだから、あの石は船から引き離されるとその自然性に戻り、その自然的能力を純粋にまた端的に遂行することに立ち戻ると。また、少なくとも、非常に高い山より下の部分の空気は地表面の粗さのためにひきさらわれ旋回させられるか、それとも多くの地上の蒸気や上昇気と混って自然的に日周運動のあとに従うようになるのは必然である。このことは櫂で進む船の周りの空気には生じない。だから船での出来事から塔での出来事を推論することは推断力をもっていない。というのは、マストの頂上から進む石は船の運動をしていない媒体のうちに入るから。しかし塔の頂上から出発する石は、地球全体と同じ運動をする媒体のうちにあり、したがって空気に妨げられることなく、むしろ空気の運動に助けられ、大地の普遍的な進行のあとを追いうると。

 

(空気の運動は非常に軽いものは運びうるが重いものは運び得ない)

シムプリチオ ぼくには、空気が自分のなしており、ときとすると羽や雪やその他のごく軽いものには伝えることもある運動を、二千貫もあるようなきわめて重い石や鉄や鉛の大きな球に伝えることができるとは考えられません。反対にそのように重いものが非常に激しい風に曝されても、一指幅もその場所を動かないのが見られます。それでも君は空気がそれを運んで行くと考えますか。

サルヴィアチ 君の実験と今の場合との間には大きな相違があります。君は静かにおかれている石の上に風を加えるのです。われわれはすでに動いている空気に、これまた同じ速さで動いている石を曝すのです。ですから空気は石に新しい運動を与えるのではなく、ただすでに与えられた速さを維持するだけ、もっとうまくいえばその速さを妨げるものではないのです。君は石に無縁な、その本性にはずれた運動をさせようとするのですが、われわれは石をその自然的運動のうちに保持しようとするのです。もし君がより適切な実験を述べようとするならば、たとえ顔にある眼ではなくとも少なくとも心にある眼で、風の勢いで運ばれている鷲がその鉤爪から落とした石について生じることの観察をいうべきです。というのは、この石は鉤爪から離れるときにすでに風と同じように飛んでいて、離れたのち等しい速さで動いている媒体のうちに入るのですから、きっと下方へ垂直に落ちないで、風の進行のあとを追い、またそれ自身の重ざによる進行をつけ加えて、斜めの運動をするに違いないと思います。

シムプリチオ そのような実験をし、それから出来事に従って判断しなければなりませんね。それはともかく、船の出来事は今までのところ、われわれの意見に賛成のように見えます。

サルヴィアチ おっしゃる通り、今までのところは、です。というのはおそらくこれからはすぐ様子が変るでしょうから。そしてよく言われるように、君をこれ以上吊し上げないことにして、シムプリチオ君、君は船の実験がそのままぼくらの目的にかなうと思うか、そして船で生じるのが見られることがまた地球にも生じるはずと考えるのが合理的であると思うか、どうかいって下さい。

シムプリチオ 今までのところ、ぼくにはそう思えました。たとえ君がいくつかの小さな相違点をあげても、ぼくの意見を変えるに足りるほど重要なものがあるとは思いません。

サルヴィアチ ぼくも君が、大地の出来事は船の出来事に対応しているという見解をつづけて固持して下さるようお願いします。というのは、このことが君の必要とされることに有害であることが発見されたとき、考えを変えるような気になられないためです。君のいわれるのによると、船がじつとしているときは石はマストの根元に落ちる、また船が動いているときは、石は根元から離れたところに落ちる、だから逆に、石が根元に落ちることから船のじっとしていることが推論され、離れて落ちることから船の動いていることが論証されるというのです。また船について生じることはやはり大地についても起こらねばならぬから、石が塔の根元に落ちることから地球の不動性が必然的に推論されるというのです。これが君の議論ではありませんか。

シムプリチオ その通りです。短くなったので非常にわかりやすくなりました。

サルヴィアチ ではいって下さい。もし船が非常な高速で進んでいるとき、そのマストの頂上から放たれた石が、その船のなかの、船がじっとしているときに落ちると正確に同じ場所に落ちるとすれば、この落下はその船がじっとしているか進んでいるかを確かめるのになんらかの役に立ちうるでしょうか。

シムプリチオ まったく何の役にも立ちません。それはちょうど、たとえば脈搏の打っていることからある人が眠っているか目覚めているかが知り得ないのと同様です。というのは、脈は眠っている人でも目覚めている人でも同じように打つのですから。

サルヴィアチ その通りです。ところで君は今までに船についてのその実験をしたことがありますか。

シムプリチオ いや、したことはありません。しかしそれを述べている著者たちは熱心にそれを観察したものと思います。それにその相違の原因がそんなに明らかに認められるからには、なんら疑う余地はありません。

 

(船のマストから落とされた石は船が動いていようとじっとしていようと同じ場所に落ちる)

サルヴィアチ あの著者たちがその実験をせずに述べていることもありうるということでは、君自身がそのよい証拠です。というのは、君はそれをやりもせずに確かなこととし、かれらの言ったことに信頼してしまっているからです。ですからかれらもまたそうした、すなわちその先人たちに信頼してしまった、そしてその実験をした一人の人にも達しないということは、単にありうるというだけのことではなく、必然的なことです。というのは、もし誰か一人でもそれをやれば、その実験は書かれていることの正反対を示すのに気づくでしょうから。すなわち石は船がじつとしていようとどれほどの速さで動いていようと、つねに同じ場所に落ちることが示されるでしょう。ですから大地についても船についてと同じ根拠のある以上、石がつねに塔の根元に落ちることからは大地の運動についても静止についても何も推論されることはできません。

シムプリチオ もし君がその実験以外の何かの手段を用いてくれるのでなければ、この議論は早くおわりそうに思えません。というのは、このことはあまりにも人間の理性からかけ離れているように思えて、それを信じる、あるいはありそうだと思う余地もないからです。

サルヴィアチ それでもぼくには余地があるのです。

シムプリチオ ではどうして君は百の立証どころか一つの立証すらもなさずに、こんなにはっきりとそれは確かだと主張するのですか。ぼくはそれが相変らず信じられませんし、またその実験はこれを用いている主だった著者たちによってなされたし、その実験はかれらの主張していることを示すものと相変らず信じます。

サルヴィアチ ぼくは実験なしに、結果は君に言ったようになることを確信します。というのは、そうならなげればならないからです。さらにぼくは、君がたとえそれを知らないふりをし、知らないふりをしているつもりであっても、そうならざるを得ないことを君自身も知っているということをつけ加えましょう。ぼぐは非常にすぐれた、頭脳の仲買人ですから、君にそれを力づくで白状させましょう。ところでサグレド君は長い間黙っていましたが、今何かいおうとして何か身じろぎされたようですが。

サグレド 実際何かいいたかったのです。しかしシムプリチオ君が隠そうとしている知識を曝露するため、かれに暴力を加えるというのを聞くと、ぼくにも好奇心が起って他のあらゆる欲望が消えてしまいました。ですからその〔仲買人としての〕誇りを実現して下さい。

サルヴィアチ シムプリチオ君がぼくの質問に答えて下さりさえすれば、それで十分なのです。

シムプリチオ 知っていることには答えましょう。きっと大して厄介なことにはならないでしょう。というのは、知識というものは真実なことについてあるのであって、誤ったことについてはなく、ぼくが誤りと考えていることについてはなにごとも知り得ないでしょうから。

サルヴィアチ ぼくは君が確かに知っていること以外の、知らないことについて何か述べたり答えたりして下さることを望んでいるわけではありません。ではいって下さい。君は鏡のように滑らかで鋼鉄のように硬い材質の平らな面を地平線に平行でなく少し傾け、その上に完全な球形の、たとえば青銅のような重くて非常に硬い材質の球をのせ、これを自由にした場合、この球はどうすると思いますか。この球は(ぼくの思うように)じつとしていると思いませんか。

シムプリチオ その表面は傾斜しているのでしたか。

サルヴィアチ そうです、そう前提しました。

シムプリチオ 球は決してじっとしているとは思いません。むしろ傾いている方に自分で動いてゆくに違いありません。

サルヴィアチ シムプリチオ君、自分のいうことによく気をつけて下さい。というのは、ぼくはその球は君がそれをどこにおこうと、その場所にじっとしているに違いないと思いますから。

シムプリチオ サルヴィアチ君、君がこんな前提を用いるからには、君がまったく誤った結論を引き出しても驚かなくなりましょう。

サルヴィアチ それではその球が傾いている方に自分で動いてゆくのはまったく確かですか。

シムプリチオ 何が疑わしいのですか。

サルヴィアチ 君がそれを確かだと考えるのは、ぼくが君にそのことを教えたからでは、なく(というのは、ぼくは君にその反対のことを説得しようとしていたのですから)、君白身で、自分の自然的判断によってなのです。

シムプリチオ やっと君の策略がわかりました。君はぼくを試そうとして、また(一般にいわれるように)ぼくに一杯喰わすため、そういったのですね。君自身はちっともそんな具合に思っているわけではないのですね。

サルヴィアチ そうです。ところでその球はどれだけ、またどんな速さで動きつづけますか。ぼくはあらゆる外的・偶然的障害を除くため、最も完全に丸い球、最も正確に滑らかな面と言ったことに気をつけて下さい。したがって、かき分けるのに抵抗する媒体の空気の障害やその他にありうるあらゆる偶然的な妨害も捨象してほしいのです。

シムプリチオ すべてよく了解しました。お尋ねのことについては、その球は面の傾斜がつづくかぎり無限に、そしてたえず加速する運動で動きつづけると答えましょう。というのは、そのようなことが重い運動体の本性であり、力は進みながら獲得されるからです。そして傾きが大きくなればなるほど、速さも大きくなるでしょう。

サルヴィアチ しかしもしだれかがその球を、その同じ表面上を上の方に動かせようとした場合、その球は上の方に進むと思いますか。

シムプリチオ 自分からは進みません。しかし引き上げるか、力で押し上げれば進みます。

サルヴィアチ では何かの衝撃がそれに暴力的にこめられ、それがおしやられるとき、その運動はどのようなものでどれだけなされるでしょうか。

シムプリチオ その運動は自然に反しているため、だんだん緩く遅くなるでしはう。そしてその運動は衝撃の大小と傾斜の大小とによって長かったり短かかったりするでしょう。

サルヴィアチ そこでこれまでに、君はぼくに二つの異なった面上で運動体のする行動を説明してくれたように思います。すなわち、下方に傾斜している面上では重い運動体は自分で下り、またたえず加速してゆく。そしてこれを静止させておくには力を用いねばならぬということ。しかし上方に傾斜している面上ではこれを押し上げ、またじつとさせておくのにも力が要りへこれにこめられた運動はたえず減少し、おわりにはなくなるということです。さらに君は両方の場合ともに、傾斜の大小によって相違が生じるといいました。すなわち下方への傾斜の大きいほど速さが大きくなり、反対に上方への傾斜面上ではその傾きが小さいほど同じ運動体も同じ力でいっそう長い距離を動くということです。それでは、この同じ運動体は上にも下にも傾いていない表面上でどうするか、言って下さい。

シムプリチオ この場合、答える前に少し考えねばなりません。これは下方に傾いていないのですから運動への自然的傾向はあり得ません。しかしまた上方へ傾いてもいないのですから動かされることに対する抵抗もあり得ません。ですから運動への推進と抵抗との間でどちらにも偏らないことになるでしょう。ですから自然的にはじっとしておらねばならぬように思います。しかしぼくはどうも忘れっぽいですね。というのは、サグレド君がぼくにそうなることをわからせてくれたのはそう以前のことではないのですから。

サルヴィアチ だれかがそれをそこにじつとさせておくときにはそうするだろうと思います。しかしどちらかの方向に向って衝撃を与えられた場合はどうなるでしょうか。

シムプリチオ その方向に動きつづけるでしょう。

サルヴィアチ しかしどのような種類の運動ですか。下方に傾いている面上におけるような継続的加速運動ですか。それとも上方に傾いている面上におけるような連続的減速運動ですか。

シムプリチオ 加速の原因も減速の原因も見いだされません。下方へも上方へも傾いていないのですから。

サルヴィアチ そうです。しかしもし減速の原因がないのなら、まして静止の原因もあり得ません。それで君は、この運動体はどれだけ運動をつづけると思いますか。

シムプリチオ 上りも下りもしていないその表面の長さがつづくかぎりです。

サルヴィアチ それではもしそのような空間が無際限であれば、そのなかの運動もまたやはり無際限すなわち永遠でしょうね。

シムプリチオ そうだと思います。もしその運動体が永続的な材質のものであれば。

サルヴィアチ このことはすでに前提されています。すなわちあらゆる偶然的で外的な障害は除かれるといいましたし、今の場合で運動体の脆さということは偶然的障害の一つですから。さて、この球が下方に傾斜した面上では自分から動き、上方に傾斜した面上では暴力なしには動かない理由は何であると考えるか言って下さい。

シムプリチオ それは、重い物体の傾向が大地の中心に向って運動し、暴力によってのみ上へ、大地の周辺の方に向って運動するものであるからです。ところが下方へ傾いた表面は中心に近づくものですし、上方へ傾いた表面は中心から遠ざかるものです。

サルヴィアチ ですから上へも下へも傾いていない表面は、そのあらゆる部分において中心から等しい距離にあるはずです。ところで世界にいったいそのような表面があるでしょうか。

シムプリチオ なくはありません。この地球の表面がそうです。もρとも、今あるような粗雑で山が多い表面ではなく、ずっと滑らかであるとしての話ですが。しかし凪いで穏やかなときの水面はそうです。

サルヴィアチ ですから平穏な海を動いてゆく船は上へも下へも傾いていない表面の一つを進む運動体の一つです。だからあらゆる偶然的で外的な障害を除いた場合、一度衝撃を与えると、たえず斉一的に運動しようとします。

シムプリチオ そうなるはずのように思えます。

サルヴィアチ したがってマストの頂上にある例の石も、船に運ばれて中心の周りの円周に沿って外的障害を除かれると、そのうちにある抹殺されることのない運動をするのではありませんか。

シムプリチオ 今までのところはすべてうまくいっています。それでそのつづきはどうですか。

サルヴィアチ もし自分ですべての前提を知ったのなら、はやく自分で最終結論を引き出しなさい。

シムプリチオ 君が最終結論として言おうとしておられることは、その石は抹殺し得ないようにそれにこめられた運動をするのであるから、船のあとになったりせずそのあとを追い、結局、船がじつとしているときと同じ場所に落ちるに違いないということでしょう。しかしぼくは、石が自由にされたあとの運動を妨げる外的障害がなければ、そうなるだろうといいましよう。この障害というのは二つあります。一つは、この運動体はその衝撃だけでは空気を引き裂くことはできないということです。というのは、石がマストの頂上にあったとき、船の一部としてそれにも与えられていた櫂の力の衝撃を欠くからです。もう一つは、下方へ落下する新しい運動です。これももう一つの前進運動の障害となるに違いありません。

サルヴィアチ 空気の障害についてはぼくも否定しません。そして落下体が軽い材質のもの、羽とか羊毛屑のようなもの、であれば、減速は非常に大きいです。しかしこれも重い石ではごくわずかです。そして君自身少し前に言われたように、非常に激しい風の力も大きな石を移動させるには不十分です。そこで船全体よりも速くない石に静止した空気があたってどれだけのことをするか考えて下さい。それはともかく、さきにいったように、そのような障害によって存在しうるこのわずかな結果は認めましょう。ですから君も空気が船や石と同じ速さで動くときは、その障害がまったくないことを認めてくれるでしょうね。もう一つの障害、下への運動がつけ加わることについては、まずこれらの二運動、すなわち中心の周りをまわる円運動と中心への直線運動とは、互いに反対するものではなく、また破壊しあうものでも両立しないものでもないということは明らかです。というのは、運動体に関して、運動体はそのような運動になんらの抵抗も示しはしないからです。なぜなら、君自身のすでに認めたように、この運動体は中心から遠ざかる運動には抵抗を示し、中心へ近づく運動には傾向を示しますから。だから必然的に中心に近づかず遠ざからない運動には、運動体はなんらの抵抗も好みも示さず、したがってそのうちにこめられた力が減少する原因もありません。そしてその運動因は単一の原因―新しい作用によって弱められるべき―ではなく、相互に異なった二つの原因、その一つは重さで運動体を中心に引きつけようとのみするものと、もう一つはこめられた性能で、この運動体を中心の周りに動かせるものとであって、なんら互いに障害となる機会はないのです。

 

(アリストテレスによると放射体はこめられた性能によってではなく媒体によって動かされる)

シムプリチオ この議論は実際見かけのうえでは大いに蓋然的ではありますが、本質的には容易に乗り越えられぬ邪魔物でわずらわされます。君は推論全体を一つの前提に基づいてやっておられますが、この前提はアリストテレスとまったく正反対のことですから、迫遙学派からは容易に認められないでしょう。その前提というのは、放射するものから離れた放射体は、この放射するものによってこの放射体にこめられた性能によってその運動をつづけるということを、よく知られた明らかなこととしていることです。このこめられた性能という考えは、ある偶有性がある基体から他の基体に移るということ同様に邉遙学派の哲学においては憎悪すべきことなのです。この哲学においては、よく知られていることとは思いますが、放射体は媒体―われわれの場合には空気ですが ―によって運ばれると考えられています。だからもしマストの頂上から落とされた例の石が船の運動のあとを追うとすれば、そのような作用はそれにこめられた性能ではなく空気に帰属しなければなりません。ところが君は、空気は船の運動のあとを追わず、静止していると前提します。さらにまたその石を落とした人は、それを腕で押さず衝撃を与えず、ただ単に指をひらいて落としただけであるはずです。このように、石は放射するものがそれにこめる性能によっても、空気のおかげによっても、船の運動のあとを追えず、したがってあとに残るでしょう。

サルヴィアチ それでは、君のお話しから、石はその人の腕によって投げられるのでなければ決して放射体になり得ないということが引き出せるように思えます。

シムプリチオ その石の運動は元来の放射運動とはいえません。

サルヴィアチ それではアリストテレスが放射体の運動、運動体、運動因についていっていることはわれわれの問題になんの関係もないのですね。もしないのなら、なぜ君はそれを述べるのですか。'

シムプリチオ ぼくがそれを述べるのは、君が名づけ、持ち出したこめられた性能のためです。これは世界に存在しないのですから、なんらの作用もなし得ません。というのは、存在しないものの作用は無であるからです。ですからただ放射体の運動にかぎらず、自然的でない他のあらゆる運動についても、その運動因は媒体に帰属しなければなりません。媒体について当然なされるべき考察がまだされていませんから、今までいわれたことは無効です。

サルヴィアチ まあ待って下さい。そのうちにすべてよくなります。さて、ぼくにいって下さい。君の反論は全面的にこめられた性能の無であることに基づいているのですが、もしぼくが君に、媒体は放射体が放射するものから離れたのちも運動をつづけるのになんの関係もないことを証明したならば、君はこめられた性能を存在せしめるようになりますか、それともまた、他の攻撃をしかけてそれを破壊しようとしますか。

シムプリチオ 媒体の作用がなくなれば、運動させるものがこめる力以外のものに助けを求めうるかどうか、ぼくにはわかりません。

サルヴィアチ できるだけ無際限に改変を加えてやってゆく原因を取り除くため、できるだけはっきりと、放射体に運動をつづけさせる際の媒体の作用がどのようなものであるか説明してくれませんか。

 

(放射体に運動をつづけさせる際の媒体の作用)

シンプリチオ 投げるものが手に石をもっています。かれは速く力づくで腕を動かします。腕の運動で石だけでなく周囲の空気も動きます。そこで石を手から放すと、石はすでに衝撃によって動いている空気のうちにあり、この空気によって運ばれます。もし空気が働きかけなければ、石は投げるものの手から足元に落ちるでしょう。

 

(多くの経験と根拠とはアリストテレスが拠射体の運動の原因としてあげたものに反対である)

サルヴィアチ 君自身は無益なことを斥け、真実を理解しようという気持を持っているのに、この無益なことに説得されるままになるほどそのことを信じているのですか。板の上におかれた大きな石と大砲の弾丸とは、少し前に君の言われたように、どんなに激しい風が吹いてもじつとしていました。しかし、もしキルクやその他の同じように軽い綿の球がおかれていたとすれば、風はそれらの場所を動かしたと思いませんか。

シムプリチオ 思うどころかきっと運び去るに違いありません。そしてその材質が軽ければ軽いほど、いっそう速いでしょう。この例としてわれわれは、雲がこれをとばす風そのものと同じ速さで運ばれるのを知っています。

サルヴィアチ では風とは何ですか。

シムプリチオ 風とは、動かされた空気にほかならぬと定義されます。

サルヴィアチ それでは動かされた空気は重い材質のものより軽いものをずっと速くずっと遠くまで運ぶのですか。

シムプリチオ たしかにそうです。

サルヴィアチ ではもし君が腕で石と綿屑をとばそうとした場合、どちらがより速く、またより遠くまで動かされますか。

シムプリチオ それはもちろん石の方です。反対に綿は足元に落ちるでしょう。

サルヴィアチ しかしもし手から離れたあとでも、放射体を動かせるものが腕によって動かされた空気にほかならず、また動かされた空気は重い材質のものより軽い材質のものをより容易にとばせるとすれば、ではなぜ綿の拗射体は石より遠く、また速く進まないのですか。ですから石には空気の運動以外の何かが残っておらねばならぬのです。さらにまた、あの梁から同じ長さの二本の紐を吊り下げ、一方の紐のはしに鉛の球を結びつけ、他方の紐のはしに綿の球を結びつけ、両方とも垂直から等しい距離を引き離し、それから自由にすると、もちろん両方とも垂直の方に動き、それ自身の衝撃で垂直を越えていくらか向う側に往き、それからまた垂直に戻るでしょう。ところで君は、これら二つの吊り下げられているもののどちらが、鉛直線にじつとするまでに、より永く動きつづけると思いますか。

シムプリチオ 鉛の球の方は何回となくあちこちするでしょうが、綿の球はせいぜい二、三回するだけです。

サルヴィァチ ですからその原因が何であるにしろ、その衝撃と運動性とは軽い材質のものにおけるより重いものにおいてより永く保存されるのです。ではもう一つの点に進みましょう。どうして空気はあのテーブルの上のレモンを運び去らないのでしょうか。

シムプリチオ 空気自身が動いていないからです。

サルヴィアチ そうだとすると、放射するものが空気に運動を与え、それから空気がこの運動で放射体を動かさねばならぬこととなります。しかしある偶有性はある基体から他の基体に移動することができず、そのような性能がこめられることができないのであるならば、どうしてそれが腕から空気に移りうるのですか。おそらく空気は腕とは異なった基体ではないのですね。

シムプリチオ 空気はその領域では重くも軽くもないのですから、きわめて容易にあらゆる衝動を受け入れ、またそれを保存できるようになっていると答えられます。

サルヴィアチ しかし今さっき二つの吊り下げられたものの例で、運動体は重さを分有することが少なければ少ないほど、運動を保存しにくいことが示されたのに、どうして空気のうちでは重さをもたぬ空気が、これだけは与えられた運動を保存するということがありうるのですか。君も今は、腕をじっとさせればすぐにその周りの空気もじっとすると思っておられるものと思いますし、またそのことを知っています。部屋に入ってタオルでそこの空気をできるだけかきまぜ、それから布をとめて小さなろうそくを部屋のなかに近づけます、あるいは金箔をとばせます。そうすると両方とも静かに揺れることから、君はそこの空気がすぐに平静に戻ったことに気づくでしょう。ぼくはまだたくさんの実験をつけ加えることもできますが、この一つの実験で十分でなければ、いくら骨折ってもまったく望みはありません。

サグレド 風に向って矢を射る場合、弦によって推進される空気の細い糸が嵐を衝いてでも矢を運んでゆくということはなんと信じ難いことではありませんか。ところでぼくもまたアリストテレスからある問題の答えを知りたいのです。シムプリチオ君、かれに代って答えてくれませんか。同じ弓で二本の矢を射、一本はあたりまえのように尖った方をさきにし、もう一本は横、すなわち弦に沿っておき、こうして射た場合、そのどちらの矢がより遠くまで進むか知りたいのです。どうか答えて下さい。たとえその質問が君にことさら滑稽なもののように見えるかも知れませんが。ぼくは君もご存じのように、どちらかというと頭がよくなく、思弁力があまり高くまで達しないものですから。

シムプリチオ ぼくは今まで矢を横にして射るのを見たことがありませんが、横にされた矢は尖った方をさきにして進む矢の20分の1も進まないでしょう。

サグレド ぼくも同じように思いますから、そこでアリストテレスのいったことと経験との相違について疑問を起こす機会が生じたわけです。というのは、経験に関しては、もしぼくが風の強く吹くときにあのテーブルの上に二本の矢を、一本は風の吹く方向に、一本は横におくと、風はすぐ横においた矢を運び去り、もう一方はそのままにしておくでしょう。それでもしアリストテレスの学説が真実であれば、弓で射られる二本の矢についても同じことが生じなげればならぬように思います。というのは、横にされた矢は弦によって動かされる大量の空気、すなわち弦の長さだけの空気によってとばされるのですが、もう1本の矢はその太さだけのごく小さな円の空気からのみ衝動をうるのですから。ぼくはそのような相違の原因が想像できないので知りたいのです。

シムプリチオ その原因はぼくにはごく明らかなものと思えます。というのは、尖端をさきにして射られた矢はわずかな量の空気を貫通すればよいのですが、もう一本の矢はその長さ全体の量の空気を引き裂かねばならぬからです。

 

(媒体は放射体に運動を与えるよりもそれを妨げる)

サグレド とすると、射られた矢は空気を貫通しなければならないのですか。ああ、もし空気が矢とともに進む、それどころか矢を運ぶのが空気だとすれば、どうして貫通などということがありうるのですか。貫通するためには矢が空気より大きな速さで動かねばならぬことがおわかりではないのですか。それでこのより大きな速さを何が矢に与えるのですか。君は空気が矢に自分自身より大きな速さを与えるといわれるのですか。ですからシムプリチオ君、ことがらはアリストテレスのいったこととは正反対の方向に進むということ、媒体のみが拗射体の運動にとって障害となるということが真実であると同様に、媒体が放射体に運動を与えるということが誤りであるということ、を理解して下さい。そしてこのことがわかれば、もし本当に空気が動くのであるならば、まっすぐにされた矢よりも横にされた矢の方をずっとよく運ぶということが、なんの困難もなく、わかるでしょう。というのは、矢を横にした状態ではこれをとばす空気が多く、まっすぐにした状態ではごくわずかですから。しかし〔実際は〕空気はじっとしていますから、矢を横にして弓で射れば、多くの空気を通過して障害が多く、尖端をさきにして射れば、これにぶつかるわずかな量の空気の妨害がきわめて容易に乗り越えられるのです。

サルヴィアチ ちょうどこの場合のように、アリストテレス(いつでもかれの自然哲学のことをいっているのですが)では、単に誤っているだけではなく、かれのいっていることの正反対が真実であるような具合に誤っている命題がなんと多く気づかれることでしょう。しかしぼくらの命題をつづけましょう。シムプリチオ君も、石がつねに同一場所に落ちるのが見られることからは、船の運動あるいは静止性について推測できるものではないことを納得されたものと思います。もしこれまでに述べたことでも十分でないなら、まだ媒体についての実験があります。これはかれをまったく確信させることでしょう。この実験でも、落下する運動体が十分軽い材質のものであり、空気が船の運動のあとを追わないときには、その運動体があとに残るということが見られるのがせいぜいでしょう。しかし空気が船と等しい速さで動くならば、この実験においてもその他のいかなる実験においても、どのような相違も想像され得ないでしょう。このことについてはこれから述べましょう。さてもしこの場合にはなんらの相違もあらわれないとしたならば、塔の頂上から落とされた石を見て何を期待しうるでしょうか。この場合、回転運動は石にとって付加的なものでも偶有的なものでもなく、自然的で永遠的なものであり、また空気は正確に塔の運動に、そして塔は地球の運動に従うのです。シムプリチオ君、君はまだこの問題について何かいうことがありますか。

シムプリチオ いやほかにありません。ただしこれまで、まだ大地の運動性は立証されなかったということを除いては。

サルヴィアチ ぼくもそれを立証するつもりはありませんでした。ただ反対者たちが固定性を立証するために持ち出した経験からいかに何ごとも取り出せないかを示すつもりだっただけです。他の経験についてもそのことを示そうと思います。

サグレド どうかサルヴィアチ君、他のものに移る前に、君がシムプリチオ君にこの船の経験を辛抱強くくだいて説明していた間にぼくの頭のなかで渦を巻いていたいくつかの困難を述べさせて下さい。

サルヴィアチ ぼくらはここに議論をするためにいるのですから、みなそれぞれが自分に生じた困難を取り除くのがよいでしょう。というのは、これこそ真実を認識する途なのですから。どうぞ言うて下さい。

 

(放射体の運動の驚くべき出来事)

サグレド もし本当に船が動く衝撃が、マストを離れたのちも石に抹殺し難くこめられつづけるのであるならば、さらにまた、もしこの運動が本当に石の自然的な下方への直線運動を妨げも遅らせもしないのであるならば、自然のうちには驚くべき出来事が生じるはずです。船がじっとしているときに、マストの頂上から石の落下する時間が脈搏二つとします。つぎに船が動いていて、同じ場所から同じ石を落とすとします。この石はさきに述べたことから、やはり脈搏二つの間に下に着くでしょう。この間に船はたとえば20腕尺進むとします。すると石の本当の運動は斜線となり、単にマストの長さだけであるはじめのまっすぐな垂直運動よりずっと長くなります。ところがその石は、同じ時間でその距離を通過するでしょう。さらに船の運動がいっそう速いとすると、落下する石はさきのよりまだ長い斜線を通過するはずです。つまり船の速さをいくらでも速くすればするほど、落下する石はたえずますます長くなる斜線を画き、しかもその全体を同じ脈搏二つの間に通過するでしょう。これと同じように、塔の頂上に大砲を持って上り、零点で、すなわち地平線に平行に、射撃すると砲身につめる火薬の多少にかかわらず、したがって弾丸が一千腕尺離れて、あるいは四千腕尺、六千腕尺あるいは一万腕尺など離れて落下しても、これらすべての射撃にはみな等しい時間がかかり、その時間は弾丸が砲口から地面まで衝撃なしに単に下に垂直に落ちるのに費やす時間に等しいでしょう。たとえば、百腕尺の高さから鉛直線に沿って落ちる短い時間と同じ時,間で、同じ弾丸が火薬にとばされて四百、一千、四千あるいは一万腕尺通過するということ、したがって弾丸は零点で射撃されればすべてつねに空中に等しい時間とどまるということ、は驚くべきことと思います。

サルヴィアチ この考察はその新しさのゆえにすばらしいものです。その結果が真実であれば、これは驚くべきことです。そしてぼくはその真実性を疑いません。そしてもし空気による偶有的な障害がなければ、大砲で弾丸を射ち、もう一つの弾丸を同じ高さから鉛直に下に落とせば、たとえ前者の弾丸が一万腕尺の距離を進み、後者がただ百腕尺を進むだけであっても、きっと地面にともに同じ瞬間に着くだろうと思います。もちろん、大地の面が等しいとしてですが。だから確実にするにはどこかの池で射撃すればよろしい。つぎに空気から生じる障害についてですが、これは射撃された非常に速い弾丸の運動を遅らせることになるでしょう。さて、こんなことでよければ他の論証の解決に進みましょう。というのは、シムプリチオ君は(ぼくの信じるかぎりでは)この最初の、高いところから低いところに落下するものから得られる論証の無効性をよく理解されましたから。

(以下略)