ポートランドだより (15                             2003. 8. 20

710日を過ぎてから3週間は、異常に暑い日が続きました。土地の人間にも異常と思われる暑さとまったく雨の降らない乾燥で、水不足と山火事が話題になっています。オレゴン州は、去年、広大な面積が焼失するという記録的な山火事に襲われたせいでしょうか、今年は大きな山火事が起きていませんが、他の州では大騒ぎをしています。最も大きく報じられているのがモンタナ州とアリゾナ州のものです。

8月に入って、急に涼しくなり、明け方などはタオルケット一枚では寒いくらいになりました。夏ももう終りですかね、などと日本人同士の会話に出てくるほどでしたが、それより驚くのは50日近く雨が降らないことです。散水しないかぎり、草は赤茶けた色になって耐えています。昔、緑の芝生に寝転んで本を読んでいるアメリカの学生の写真を見て、違和感を覚えたことを思い出しますが、日本の芝生ではすぐにビショ濡れになってしまいますね。

 

研究

8月末の帰国を目前にひかえ、あれこれ仕事に追われて、落着かない日々を送っています。外国での3年の研究生活は、大日本帝国海軍の「月月火水木金金」なみに土、日も研究室に出かけ、寝ている間も思考が休まらないという日々で、連れ合いなどは「こんなはずではなかった」と、クサンチッペ役を進んでこなして、亭主の研究に協力してくれていた位です。

現在、3年間の研究の成果をまとめ、最後の論文を824日からのICCF10で発表するのが、最大の仕事です。昨年の秋に、主観的には完了した常温核融合現象(CFP)の理論的説明も、世間の物理学者を納得させるような論文にするには、かなりの労力が要求されます。CF研究者からは、d-d反応を認めようとしないといって白い眼でみられています。一般の物理学者からは、CFPの実験データなど信用できないから、それに則った理論など意味がない、と取り合ってもらえません。正しく前門の虎、後門の狼です。

824日からICCF10(第10回常温核融合国際会議)がボストンの近くのケンブリッジ市で開かれますが、そこで発表する論文の内容をCFRLニュースNo.51に書きましたので、この「たより」に添付します。この内容を御覧になっていただくと、こんどは皆が少しは納得してくれるのではないか、と果敢ない望みを持ちたくなるのですがどうでしょうか。

僕の理論によれば、CFPの核反応はカオス的な状態で中性子と陽子が他の原子核と相互作用することになりますから、星の進化過程で元素が作られる過程と似た結果が予想されます。この予想に従って、宇宙に存在する元素の存在比を文献で調べました(logH)。他方CFPの方は、約40種の論文から、そこで検出された元素を書き出し、ある元素の検出を報告した論文数Nを決めます。これは、核変換が起ったことを試料の種類や実験方法に関係なく、統計的に数え上げることになります。

星の進化の過程での元素生成は、何億年という時間、何百万kmという寸法の空間(時空)の一点で起る現象の総和で、logHが決まります。CFPにおける核変換数Nも、Pd, Ni, Ti,などの母体金属、HDという水素同位元素、各種の電解質、いろんな実験法で行われた実験の結果の総和を取ったら対応がつくだろうというのが、僕の独創的な考えなのですね!

とにかく、その比較をしたのが、ニュースNo.51の図12です。この図は、logHNを原子番号Zの関数としてプロットしてあります。説明を読まなくても見ただけでお分かりの通り、二つの曲線が予想以上に(定性的に)一致するのにはびっくりしました。大きなずれが幾つか目に付きますが、その中で説明がつかないのは、(1) ZrCFPでほとんど見つかっていないこと、(2) Znが多量に検出されていることくらいです。問題にされてきた定性的再現性も、現象の予測不可能性も、ガンマ線などが外へ出てこないことなども、問題なく説明できてしまうのです。僕の理論の当否は別にしても、このプロットが意味するところは非常に大きいと思われます。

ICCF10の実行委員会は、僕の講演を的外れな”Polyneutron”と一緒にし、初めの二日しか参加できないと連絡しておいたのに最終日に回し、最近の例には見たことのないOralPosterの酷い差別の分類で僕の論文をPosterに貼り付けるなど、見識のなさを露呈した論外の取り扱いをしてくれているのですが、月、火になんとか発表させてくれるような気配もあります。こんな大発見(?)を多くの研究者に知らせようとしないとしたら、何のための学会かと疑われてもしかたがないでしょう。結果は、帰国後にお知らせすることになりそうです。

 

国内旅行

滞米3年で2回目の国内旅行に、一泊二日でアストリア市Astoriaへ行ってきました。AstoriaPortlandから西へ約100マイルの太平洋岸に近い、アメリカ合州国第二の大河Columbia河の河口にあります。AstoriaPortlandの間には、鉄道線路が敷かれていて、50年前までは営業運転していたようです。その線路を使って、Lewis & Clark Explore Trainと銘打った列車が、夏季の毎週、金、土、日、月の4日間だけ運行されています。

1804年から1806年にかけて、ルイスLewisとクラークClarkを隊長、副隊長とする40名の隊員(主に兵士)からなる探検隊が、ミズーリ河の源流の探検と太平洋岸への経路発見を目的に派遣されました。ジェファーソンJefferson大統領の特命による、特別探検隊の色の濃い企画だったようです。当時、現在のワシントン、オレゴン、カルフォルニア州は、まだアメリカ合州国に属しておらず、領土獲得競争の一環という意味合いもあったのでしょう。

その探検の200周年を記念してのアムトラックAMTRAK(アメリカ鉄道公社)の特別企画で、金土は切符が売切れになるくらい人気があります。ポートランド発8時、アストリア発1645分の一日一往復の列車で、片道3時間半かかりますが、コロンビア河に沿って走る列車からは、白頭鷲が大きな魚を掴んで飛んでいる様子が見られたり、20世紀初頭に盛んだった鮭の缶詰工場址に在りし日の大河を偲んだり、楽しめる汽車の旅でした。料金は大人片道24ドル、シニア割引で20.40ドルです。

アストリアは、LewisClark1806年の冬を、砦を築いて過ごした土地です。原住アメリカ人のClatsop族に生活の知恵を教わりながら過ごした砦は、Fort Clatsopと名づけられ、復元されています。また、アストリアは、前にご紹介したRanald MacDonaldの生まれた土地でもあります。20世紀初頭には、大量の鮭が遡上したようで、その鮭を缶詰にする工場が川岸に林立していたらしく、その廃墟が一部残っていて、For Saleの看板が出ていたりしました。

泊った民宿Bed & Breakfastは、1890年建築のヴィクトリア朝建築で、海の見える静かな高台の宿でした。一泊90ドルでした。海岸に沿ってTrolleyと称するチンチン電車が走っていて、乗車券が1ドルなのですが、観光客は無料でした。この電車も夏の間だけの風物詩のようです。郷土博物館が面白く、191020年代にフィンランド系移民を中心に共産主義運動が盛んだったこと、30年代にはKKK運動が盛んになり、オレゴン州ではPortlandに次ぐ団員数を誇っていたとか。Ku Klux Klanについては、Portlandの歴史博物館では知ることのできなかった秘史で、驚かされました。Astoria大橋がコロンビア河を跨いでワシントン州と結んでいます。この辺り、川幅は6キロくらいあって、対岸はかすんでいて、霧の深いときは見えません。

アストリアまでの途中の風景で、Columbia河の反対側はこのあたりの夏の特徴を表していました。夏は雨が少なく冬は雨が多いという、地中海性気候のこのあたりですから、最初に書いたように、人間が手を加えない土地は、草が枯れていて、木も生長できないようです。アメリカ中西部にバッファローが群れていた頃から、高木は全くなかったと記録にあるように、大平原は草地だったのです。何万年もかけて植物が地中から養分を吸い上げ、有機質に富んだ表土を作り上げたところへ、人間が農業をはじめて沃土を搾取して農産物に変えている、というのが基本構図なのだそうです。何年か前に、表土流出でアメリカ農業が危機に瀕していると報道されていましたが、そういう形でのツケの払い方もあるのですね。

 

9.11以降

9.11の後で、12.7(日本流に言えば12.8)のことを思い出して、その後の歴史に与える影響など考えたものです。2年経ってほぼ見えてきたのは、アメリカ政府の一方的な対外政策ということでしょうか。アメリカ原住民に対してアメリカ政府が取ってきた態度に共通するものがあることにも気がつきます。かつての無理押しが、いつでも通用すると考えることは出来ないはずなのですが、ベトナムの教訓だけでは足りないのでしょうか。最近のニュースでは、大統領が国連にもっと大きな役割を期待すると言ったとか。石油のための戦争に反対!とデモ行進をしていたアメリカ市民の言う通りになってきたようです。最近の張り紙には、He lied, They died!と書いて、大統領の顔写真をあしらったものがありました。

 

ポートランドだより (15’                             2003. 8. 28

 

ICCF10から26日に帰ってきて、31日の出発を前に、引越し荷物の最終パッキングをしている所です。

ICCF10の会場は、Royal Sonesta Hotel Five Cambridge Parkway, Cambridge, MA., 02142 で、この時期は観光客も少ないのでしょう、学会用に特別料金(99ドル)で部屋を提供してくれました。Boston郊外のCambridge市にあり、Boston空港からは地下鉄で30分という便利な所にあります。

肝心の研究発表ですが、実行委員の一人Scott Chabbのはからいで、初日に応答発表Oral Presentation並みの時間をとってくれて、無事に成果を発表することができました。いろんな点で、アメリカの社会はけっこう融通が利くことが分かってきて、日本より暮らしやすいと感じることが多々ありました。

ICCF9で中国へ行ってきたときに、再入国に必要な書類を携帯していなかったときのはからいなどもそうでした。Faxで取り寄せたその書類の一部が読めなくて、一人の係官(男性、小柄)がいちゃもんをつけたのにたいして、他の係官(女性、ふくよかな中年の美人)が、そこはチェックに必要でない項目でないか、と言って、Vancouverのホテルで一泊しないで済むように計らってくれたのなども、印象に残ることでした。

 

これでとにかく、10数年に及ぶ常温核融合研究に一区切りをつけたと言えるでしょう。この間の研究は、世間から疎外されていただけに、外部からの雑音に悩まされずに、楽しく行うことができて、物理学を選んだことの幸せを十分に味わうことができました。それには、陰に陽に、順に逆に、いろいろお力添えをいただいた方々のおかげをこうむっている訳です。とくに、母しづと妻孝子の力の大きかったことを銘記しておきたいと思います。