ポートランドだより (11                             2003. 4. 20

よんどころない用事が生じて、6日から15日まで日本へ行ってきました。テロ対策でアメリカの空港の荷物検査は厳重をきわめ、強力なX線透視が行われているので未現像のフィルムは持参しない方がよいでしょう。日本では当然のように行われていた託送荷物のX線透視は、最近までアメリカでは行われていなかったのですが、最近になって行われ始めました。不用意に鍵をかけたままで出して、大型の金属カッターで錠を壊して内部を検査されている荷物を見かけました。国にもよるでしょうが、アメリカでは施錠しないことを前提にして貴重品を入れないようにするのが無難です。

出発するときにチラホラ開き始めていた八重桜が、帰ってきたら満開です。桜ではなんといっても日本だと思ったのは、静岡までの鉄道沿線で目にした満開の桜の豪華さでした。学校、公園、川岸など、ちょっとした公共の空間は、薄紅の桜の花で明るく彩られています。静岡の自宅では、丘陵の斜面を埋めた深緑の林の中に、山桜が点々と白いまだらを描いていて、さすが日本と思いました。

ポートランドの草花では、半自生のスズランが今年も公園通りの野生花園で咲き始めました。前号でアセビの英名にthe lily-of-the-valley bushがあることを記しましたが、その気で見ると、アセビの花の形はスズラン型なのに気がつきます。

最盛期にはほど遠いようですが、石楠花も多くの株が花を開き始めました。落葉樹の花と芽と、どちらが先かと迷うくらいにポプラやカエデの花が、目立たない色ですが、枝先に鈴生りになっています。カエデは街路樹に多く、秋にはその黄葉、紅葉で楽しませてくれました。今は雄蘂(おしべ)の散りどきのようで、カエデ並木の歩道は、薄緑の絹布を敷いたようになっています。

花の少ない冬に彩りを添えてくれた椿も影が薄くなりました。椿と言えば、

椿散って 打ち重なりぬ 二三片

という句を思い出して、句会に属して俳句を読んでいる旧友のO君に誰の句だったっけ、と尋ねたところ、蕪村の句だとメールで教えてくれました。ああ、そうだったか、と思っていたら、数日してまたメールが来ました。O君いわく、

  牡丹散って 打ち重なりぬ 二三片   蕪村

が正しいよ(?!)

牡丹の花びらなら、先端が赤みを帯びた白い花びらがヒラヒラと一枚ずつ散って、地面で重なる情景が、のどかな春の昼下がりのものとして思い浮かびます。どうやら牡丹を椿としてイメージしたあたりに、蕪村との格の違いが現れているようです。こういうのを替え句とでもいうのでしょうか。

替え句といえば、「奥の細道」の

  象潟や 雨に西施が ねむの花   芭蕉

の西施が、中国の美女で、歯痛に頬を歪めていたのが又一種えもいわれぬ魅力だった、という故事を知らないと何のことか分からない、という解説を高校の授業で聞いたような気がします。故事、古歌の趣向を借りた作品は、俳句、和歌、小説を問わずかなりあるように記憶していますが、川柳や狂歌などでは替え句は結構多いのではないでしょうか。

替え句と言えば、替え歌の方はよくありますね。よく知っているものでは、「雪山賛歌」がその代表でしょう。”Oh, My Darling Clementine”の替え歌で、

雪よ岩よわれらが宿り 俺達は街には住めないからに

シール外してパイプの煙 輝く尾根に春風そよぐ

などと、タバコも吸わないのに、吹雪の尾根のラッセルもしたことなどないのに、感情移入していい気持ちで歌っていたものです。土橋茂子氏の解説によると、京大山岳部の西堀栄三郎氏などが、雪山での停滞のテントの中で考え出した名歌だそうで、山岳部のちょっとした資金源になっていたそうですから、作詞もりっぱな商売になるようです。

  替え歌で思いつくのは、替え題です。こういう言葉があるのかどうか。外国映画などの題名を日本語にしたもののことをこう呼ぶことにします。先日ある学会で、日本から来た青年を交えた会話の中で、ゲーリー・クーパー演ずる老保安官とクエーカー教徒の妻がヤクザと対決する”High Noon”の話がでて、数分してから「真昼の決闘」なら知っていますと言われたことがあります。これなどは想像できる方ですが、「明日に向かって撃て」の原題が”Butch Cassidy and Sundance Kid”だとは、お釈迦さまでも気がつかないのではないでしょうか。アメリカ映画で人名が題名になっているものは、替え題つくりに苦労するようで、「一期一会」(”Forest Gump”)なども苦労が偲ばれます。「シェ−ン」(”Shane”)は例外に属するでしょう。

前から気になっていた替え題の一つは、戦前(第二次世界大戦の前)のドイツ名画でマレーネ・デイートリッヒの脚線美が見られる「嘆きの天使」(“Blaue Engel”)です。内容から言っても、ドイツ語の翻訳としても(これはあまり自信がありませんが)、ちょっといただけない替え題だと思います。

  “Forest Gump”で面白いのは、原作の小説と映画の脚本が、まるで違っていることです。昨年の秋に盛岡で学会JCF4があったときに、美しい盛岡の町を散策していて古書店の一冊100円の台でこの小説の訳本を見つけました。英語の勉強にビデオを何度も見ていたので、さっそく読んだところ、筋の違いに唖然としてしまいました。アメリカに戻って、こんどは古書店の一冊35セントの棚で英語の原文を見つけました。訳本は原本と同じ筋ですが、その言葉は全く違い、翻訳の難しさを改めて痛感しました。IQ70のForestが語る物語として書かれている小説は、英語IQ50の僕にはほとんど理解できないものです。(最初の10ページほどを添付しましたので、関心のある方はトライしてみてください)

シドニイ・シェルダンの小説の「超訳」が日本でよく売れているそうですが、“Forest Gump”の訳本「一期一会」も超訳に属する翻訳(?)です。もっとも、Sidney Sheldonの小説はペーパーバックスの棚にかなり並んでいますから、アメリカでも読まれている作家の中に入るようで、超訳とは無関係な読者層をもっているのでしょう。

  戦後の英語教育の冬の時代に育った世代にとって、ビデオやオーデイオブック(小説や詩の朗読テープやCD)は英語学習の福音で、小説を読むほかに、テープを聞いたり、映画のビデオを観たりするのですが、映画で英語の字幕captionのあるのは、有難いですね。日常会話が聞き取れないということは、映画の会話が聞き取れないことでもありますから、字幕は不可欠です。何度も観ることができるためには、内容が伴う必要があるので、好きな映画は限られてきます。Forest GumpMy Fair LadyThe Sound of Musicなどは、何度も観ているものです。最近のものでは、Harry Potterの一連の小説が楽しめます。映画も第一作のSorcerer Stoneのビデオを楽しみ、今度日本への機中で第二作のthe Chamber of Secretsを観ました。映画と原作が補い合って、原作の理解を深めてくれるという意味では、この小説の映画化は正統的のようです。