ポートランドだより (8                             2002. 12. 15

12月も半ばになって、冬のポートランドは雨の多い、寒々とした風景です。低木と下枝に残った枯葉が風に揺れています。日本の柏の木で記憶に残っている、枯葉がいつまでも枝にしがみ付いている光景は、ここでもOakの一種に見られて、茶色の枯葉が纏い付いた柏の木が何本か眼につきます。葉の大きさは柏餅に使うものの半分以下と小振りですが、思い切って落ちてしまったらと言いたくなります。

寒椿が濃いピンクの花を続けて咲かせています。花壇のスノーベリーが、真っ白い67ミリの実をたわわに付けて垂れ下がっているところは、日本の農家で正月に神棚に飾る繭玉を思わせます。アパート前のBenson邸(材木大尽のBensonさんの旧宅)に植えられたマンサクを思い出して見に行ったところ、鈍い茶褐色の、三つくらいに分岐した小さな蕾がもう下向きに垂れ下がり始めています。

少し古い新聞記事ですが、今年の818日のオレゴン新聞The Oregonianが面白い記事を載せていましたので、ご紹介しようと思います。

Oregon Trails Adventuresome Oregonian preceded Perry to Japan(オレゴン魂に富んだオレゴン人が、ペリーより先に日本へ行っていた)

という表題で、オレゴン生まれの、スコットランド人とチヌーク族原住アメリカ人の混血児ラナルド・マクドナルドRanald MacDonaldが、ペリーPerryの日本訪問(1853年)の5年前に日本を訪れて、日本開国の露払いをしていたことを報じています。”..if it was Perry who swung the gates, it was a young Oregonian, a few years earlier and on his own hook, who oiled the rusty hinges, maybe even turned the key.”(〔鎖国日本の〕扉を開けたのはペリーだが、錆付いた蝶番に予め油をさし、さらには鍵を回しておいたのは自立心に富んだ若いオレゴン人だった)。なお、オレゴン街道Oregon Trailは、18世紀初めに開かれた西部開拓史上の有名な移住路で、ミズーリ州インヂペンデンスからオレゴン市までのルートは歴史的記念物になっています。

ラナルド・マクドナルド(仲間がマックと呼んでいたようなので、以下ではマックとします)と日本の関係を簡単に紹介すると、次のようになります。

1824年にオレゴン州のFort Astoria (Fort Georgeと改名)で生まれたマックは、ポートランドに近いワシントン州のバンクーバーにあったFort Vancouverで学校に通います。ここで、3人の日本人難船漁夫に会います。彼らの風貌が自分に良く似ていることと原住アメリカ人がモンゴロイドだという知識が、マックに強い印象を与えたようです。これがマックの血を掻き立てたのか、長続きしない幾つかの職業についた後に、1845年にニューオルリーンズNew Orleansで捕鯨船の船員になり、日本へ行く準備を始めます。彼の乗った捕鯨船プリマス号Plymouthが北海道近海に達したとき、彼は船長から小船を一艘譲り受け、プリマス号の人々に別れを告げて小船で北海道に向かいます。同僚は”Mac, they’re going to kill you.”(マック、奴らはお前を殺そうとして待ち構えているぞ)と囃子立てながら、別れを惜しんだようです。なんと勇敢なマックよ、と叫びたくなるではありませんか。彼は後に出版される日誌にこう書いています:”It was foolish, no doubt! A mad scheme and Wild, I felt ever, and uncontrollably in my blood, the wild strain for wandering freedom of my Highland father of Glencoe and secondly , an possibly more so, of my Indian mother, which dominated me as a soul possessed.”(これは疑いなく馬鹿げていた。気違いじみた、野蛮な計画だった。しかし、私は自分の血の中に、父親のスコットランド魂の放浪癖と母方のインデアンの抜き差しならない衝動を感じていたのだった)

数日後に、利尻島に達し、難船を装って船を壊し、上陸すると、土着人(nativeアイヌ族?)は彼を温かく迎え入れ、sakeと食事でもてなします。当時の鎖国体制下では当然ですが、10日後に役人が彼を引き取りに来て、長崎の出島へ護送します。

ここからが、彼の本領発揮の第二幕です。出島に滞在中の10ヶ月間に14人の若者(選ばれたエリート学生だったのでしょう)に英語と西洋文明を教えたとのことで、それにはオランダ商館の長年にわたる日本との交流の経験が生かされたことでしょう。この生徒の中から、後にPerryとの交渉に際して通訳をし、”impressing everyone with both his fluent English and intellectual capacity”(誰もがその流暢な英語と知的な理解力に感嘆した)と賞賛されたMoriyama Einosuke(森山栄之助?)が出ます。マックが優れた教師だったことが分かります。

彼は10ヵ月後(1849年)に、マックを含む数人の難船漁夫を引き取りに来たアメリカの軍艦Prebleに乗って帰国の途につきますが、オーストラリア、インド、ローマ、パリ、ロンドンを経て、故郷についたのは4年後の1853年、ペリーが日本を訪れた年でした。

彼は日本人について、次のように言っていたそうです。”…they may yet lead the world; their autonomy being of the strongest among men; and now, the most active in national progress.”(日本人は将来世界の指導的な役割を果たすだろう。彼らの自立心は世界でももっとも際立っている。現在、最も進歩的な国民だ。)

帰国後のマックは、ワシントン州の北部にあるインディアン居留地で暮らし、1894年に亡くなり、墓はワシントン州のカールーCurlewにあります。利尻島には彼の記念碑が立っているそうです。彼の最後の言葉は、”Sayonara, sayonara.”だったと伝えられています。前記の彼の日誌が出版されています;Ranald MacDonald, the Narrative of His life, 1824 – 1894 (Oregon Historical Society, 1991)

 

維新を実行した後にも、明治時代の日本人は冒険心に富んでいたことを我々は良く知っていますが、僕の次弟、小島敦夫が発掘し、本に纏めた愛媛県の漁師吉田亀三郎の生涯もその一例でしょう(「密航漁夫;吉田亀三郎の生涯」(集英社))。朝日新聞のウェブサイトhttp://www.asahi.com/edu/nie/sv02/05_03.htmlに、「太平洋に挑む日本人(2)」として紹介されています。

<1912(明治45)年5月ごろ、打瀬船(うたせぶね)と呼ばれる日本式の帆船住吉丸に5人で乗り込んで出航し、7月18日に米西海岸のサンディエゴ北に到着したとみられます。密航で捕まったことや、長さ9メートルの帆船だったことが、当時の現地の新聞に載っていました。
 亀三郎たちは日本に強制的に帰されましたが、13年に再び挑み、その後も愛媛県から、漁師たちが次から次にアメリカに向かいました。まだ無線や天気予報も利用できない時代で、小島さんは「彼らの技術の高さには驚かされる」と話しています。>

 

 マックが絶賛していた日本人の優れた特性は、この150年の間にどこへ隠れてしまったのでしょうか。時代の流れというものでしょうか。江戸時代の鎖国が、日本人の間に一種の雰囲気を醸し出して、維新を実現させる原動力となっていったのでしょう。

 今アメリカで学んでいる、韓国、中国、インドなどからの若者を見ると、明治の日本人の面魂も斯くやと思わせられます。「艱難汝を玉にす」という古言がありますが、これでしょうか。