軟式庭球挫折記

 

中野中学校庭球部

どんな事情で中野中学校に庭球部ができたのか、はっきりしないが、3年の学期初めに、英語担当の尾形哲男先生を顧問としてテニス部が誕生した。

当時は、球技といえば男子は野球、女子はバレーボールという時代だったから、選択肢を増やそうと、高専を出たての若い尾形先生、加藤先生(数学)たちの音頭とりで軟式テニス部が生まれたのだったろうか。顧問は尾形先生だった。加藤先生はバレー部の顧問だった。

3年生に大塚久夫、遠藤清美君などがいたのは確かだが、2年生に誰がいたのかはっきりしない。1年生には弟の敦夫、大塚憲司君などがいた。正月の玄関前でガタガタ震えながらラケットを握って撮った、新年会のときの集合写真を見れば、当時の部員が思い出せるかもしれない。

なぜか分からないが、テニスに夢中になった。放課後、ボールが見えなくなるまで、天然の「クレーコート」の泥ですぐに茶色になるゴム球を追っていた。「赤M」印が最高級のボールだった。期末試験が明日から始まるというのに、薄暗いコートでボールを打っていて、先生にからかわれたこともある。夏休みは、毎日のように農作業を手伝わなければならなかったが、夕方は早目に終わらせてもらって、自転車で学校へ駆けつけ、薄暗くなりかけたコートで、憑かれたようにボールを追った。

当時飼っていた牛あるいは馬の飼料の草刈を、中学生になるかならないかで、毎日させられた。夏休みには、朝飯前と夕方の2回、学校があるときは放課後一回、大きな竹籠を背負って、裏田んぼ(と呼んでいた)部落の北に広がる田んぼへ、草刈に出かけた。この経験のおかげで、右腕の微妙な動作が巧みだった。当時は身長が150センチていどのチビで体力はなかったが、ボールのコントロールは抜群によかった。相手コートの両隅の角に、精度30センチくらいを狙って、ボールを落とすことができた。「ポール回し」と言われる、ネットを張るポールの外側を捲いて相手コートの隅にボールを落とす妙技さえ、夢ではないと考えるくらいのボールコントロールを、3年の終わりごろには身につけていた。

近隣の中学校との対校試合も時々あった。その中で、唯一、鮮明に覚えているのは、隣村の多々良中学との試合だった。多々良中学の庭球部員十数名が自転車で遠征してきて、土曜日の午後、中野中学の2面のテニスコートで対校試合をした。

相手のメンバーに、新井弘子さんがいるのに気がついて、胸をときめかせた。彼女は、戦争末期(1944年、3年)か戦後早く(1946年、5年)に東京(?)から疎開してきて、一時、中野中学の僕と同じクラス(3組)に在籍した。色白の美少女で、心をときめかして短い視線を投げる相手だった。

その新井弘子さんが、なんと、僕の対戦相手だったのだ。試合はもちろん勝ったのだが、偶然の対戦を、何かの神の配剤と考えるのは少年の幸福な妄想というものではないだろうか。とても話しかけることなどできる雰囲気ではなかったが、心では一言でも話したいと熱望していたことは、言うまでもない。

後に、東京理科大学の群馬県人会で、新井弘子さんの弟に会った。そのとき、彼の友人が、弘子さんを「館林小町」と言われる美人だと、冷やかし気味に話しているのを聞いたが、このときも彼女の小学校時代の旧友だと打ち明けて、彼女の弟を介して交際を求めることには、気後れしていた。

中学時代の僕のテニスは、特に目覚しい成果を生まずに、ただ好きで、好きでたまらない対象として、1年間、フルに全エネルギーを注ぎ込んで終わった。

中学のサークルでは、文化部の新聞部にも所属していた。こちらは月に一度のガリ版刷りの新聞を出していて、顧問は数学の加藤先生だった。先生も顧問を掛け持ちしていたということになる。新聞部では、加藤先生が、夏休みに奥日光の光徳牧場へキャンプに連れて行ってくれたことが、僕の貴重な自然体験のベースになっている。

 

館林高校庭球部

当時の人口6000人の中野村では、進学率は低く、中学から高校へ進学したのは、2割位ではなかったろうか。我が家の家計は楽ではなかったが、多分、母の強い意志と僕のトップクラスの成績とで、県立館林高校(館高)に進学することができた。

「ジープ供出」と言われる、米の強制供出に始まって、食料統制制度維持のために政府が行った過酷な収奪で、戦後の農家の経済は、平安時代の山上憶良の歌うような状態だった。特に、東京からの帰村農家だった我が家などは、平均以下の反収しか挙げられなかったから、供出のために買米までしなければならない状態だった。したがって、農家から高校進学することは、容易でなかった時代だった。当時の県立高校の授業料は、月額200円位だったのだろうが、それもとっさには出せない家計だった。登校間際に、「今日は授業料を持っていく日だ」と言って、あわてさせられた母が隣の大農家の山崎さんに借りに行ったのも、2度、3度のことではなかった。そんな状態でも、日本育英会の奨学金貸与制度を利用しようと、親たちが考えなかったのも不思議なことである。、公的資金を借りることをためらう意識が、当時の世相、あるいはわが家にあったのだろう。

館高の国語の教師で、館高新聞部の顧問でもあった川島泰一先生(愛称「泰ちゃん」)の妹が、中野中学の新聞部の顧問だった加藤先生の夫人だった。そんな関係でか、川島先生が入学式の前に、我が家を訪れて、父と話しをしていたことがあった。後で推測すると、僕を新聞部に入れたいという希望を伝えたようだったが、父が僕に話さなかったのか、あるいは聞いても僕が魅力を感じなかったのか、新聞部に入る気持ちはまったくなかった。入学後、川島先生とすればあまり気持ちがよくなかったのかもしれない、と思わせる言動に気がついたことがあった。

当然のように、館高では軟式庭球部に入った。当時の高校では硬式テニスをやっていなかったから、単に庭球部と言ったのだと思う。顧問は徳さん(英語の奥澤徳次先生)、主将は3年の正田さん、副将はやはり3年の横関さんだった。印象に残る部員には、3年のXさん(名前が出てこないが、いつもニコニコしていて下級生にやさしかった)、2年の加賀見さん(下級生に厳しかった)などがいる。僕らは新制中学の第一期卒業生で、2年生以上は旧制中学からの移行組だったから、何かというと「新制は」と言われたものだった。そんな中で、正田さんとXさんは、下級生につらく当たることは無かった。

館高の庭球部は、群馬県でも有数の強豪だった。正田・横関組は国体の代表になった。そんな部だったから、夏休みの初めの1週間は、強化練習で日大からコーチを招いてレベルアップを図った。

強化練習の最終日に、コーチの総括があり、感想が話された。部長の徳さんが、後で話してくれたのだったと思うが、「小島は最も有望だ」というのがコーチの感想だった!草刈で鍛えた腕の筋肉の強さと運動能力と、中学3年の1年間に夢中で練習した成果とが、高い評価をもたらしたものだろう。

 

挫折

そのままテニスを続けていれば、僕の軟式庭球は全国レベルになっていただろうし、物理学者にはなっていなかっただろう。しかし、人生では何が起るかわからない。特に、若いときには。その夏休みの終わる8月の末に、僕は右足のくるぶしに大怪我をしてしまった。高校時代に運動で素質を伸ばす機会を失ってしまった。

8月末の暑い昼下がり。僕は「裏田んぼ」と称する中野部落の北にある、幅20-30mの川(大川と呼んでいた)の両岸に開けた田圃を駆け抜けて、大川へ泳ぎに行った。今では、茶色に濁った大川で泳ぐ子供はいないだろうが、大川での水泳は、当時の子供の夏の日課だった。もう帰ろうという頃になって、最後の一泳ぎに、普段の水泳場所から少し下流の水中へ、岸から飛び降りた。

そのとき、右足のくるぶしの真下に、ズンという衝撃。余りの痛さに歩くこともできず、誰かの自転車に乗せてもらって家に戻った。すぐに、鶉(部落)の森下医院へ、父の自転車で直行する。医師は患部を消毒し、薬をつけ、包帯してくれる。しかし、痛みは翌日も治まらない。確か、翌々日、余りの痛さに、医師がX線撮影して(それまで撮らなかった?)、大きな木片が患部に入っていることを知る。麻酔して、木片をペンチ様のもので掴み出したとき、肉から離れるときのズシンという衝撃を感じたのを今でも思い出す。古い杭の上部が朽ち果てて、土の中に残った丸太の芯が、体重のかかった打撃力で踝の真下に突き刺さったのだった。なんで3日もほっておいたの?という呆れた感想が、その後長い間記憶の底に残っていた。

2学期の初めの数日を休んで、ようやく自転車に乗れるようになり、学校へいった。授業に復帰しても、運動することは論外だった。残念だったが、庭球部も止めた。1年くらいは運動ができなかった。この怪我が、僕の軟式庭球選手としての生命を奪い、その後の進路を転換したと言っていいだろう。

 

理科大二部庭球部

軟式庭球を再開したのは、理科大の2部(夜間部)に入学してからだった。当時、家計の苦しかった父は、僕の大学進学に反対だった。友達の誰彼のように、就職すれば家計の足しになる、とあからさまに言われた。しかし母は、大学位でていなくてどうする、という意気込みだった。

母自身、田無の大百姓に生まれ、小学校を卒業した後は農作業を手伝っていたが、そのままでは終わらないと、自力で看護婦になった人である。冬の農閑期に、東京で女中奉公をして資金を貯め、3年後に東大の看護婦養成所を受験し、看護婦になったという、立志伝中の女性だった。

田無の叔父から入学金1万円、年間授業料2万円の計3万円を借りてくれて、上京当初の宿を伯母(母の妹)に頼んでくれたので、僕の大学生活は始まった。

九段の学徒援護会で職を探し、新宿3丁目の「味付け海苔」加工工場に就職した。日給250円だった。田無、新宿、飯田橋というのは、通勤・通学に便利な配置だったのが、就職先選びのキイポイントだった。朝から晩まで、仕入れた海苔に味付けし、ガスで乾かし、裁断し、帯を巻いて、ビンに詰める。裁断から瓶詰めまでが手作業で、我々の仕事だった。単純作業で、睡眠時間の少ない夜学生には、眠くなる仕事だった。

九段の今の武道館の所にあった、近衛連隊の旧宿舎跡を使って、学生寮があった。警察学校に向かい合わせの一辺が「学生会館」で、ここに入れたことが、勉強の面では大いに助かった。入館選考で僕の最近読んだ本「二宮尊徳」を擁護してくれたのが、後に慶応高校の助手を世話してくれた荻村さんだったとは、彼が後で話してくれたことである。

学生会館は学徒援護会が国費で運営していた全国的な寮組織の一つで、正式には「東京学生会館」といった。都内の大学から学生を集め、総数600余名の寮生がいた。運営は学生の自治に任されており、旧制高校の寮の雰囲気を残そうとしていたのだろう。重要事項は全寮生の参加する寮生大会で決められた。新入寮生の選抜は、各大学の寮生が各々入館選考を行った。最近読んで感銘した本に現代教養文庫の「二宮尊徳の哲学」を挙げて、入館を許されたのは、幸いだった。何も知らなかったからなのだが、級友の太田君が数ヶ月後に受けたときには、友人から「出来るだけ左翼的な答えをするように」アドバイスを受けたとのことを後で聞いた。学生会館は、左翼学生運動の拠点の一つだったのである。

館費が月130円、食堂も併設されていて、一食20円から30円で食べられた。飯が14(半食7)、味噌汁が3円だった。おかずはA, B, C8円、10円、13円と選べた。太田君の言い分ではないが、在館中に鯨を一匹平らげたくらいに鯨のベーコンを良く食べたもので、美味しく、安かった。たしか、一皿10円だった。当時の物価は、かけそばが15円―20円、ラーメン3040円、ジャムつきのコッペパンが1015円だった。

 

慶応高校職員庭球部

昼間の仕事としては、8月から神奈川県港北区日吉の慶応高校の地学教室に、助手として勤めはじめた。学生会館の理科大生だった化学科の荻村さんが、慶応高校の地学教室の助手を紹介してくれたのは、前の職場(海苔加工工場)を首になる直前だった。睡眠時間が少なかったために、作業中に居眠りをすることが多く、成績が上がらないからというのが解雇された理由だった。当時、地学の先生は、奥山清作先生、牧野先生がおり、助手には他に荻村さんがいた。地質学の牧野先生と地球物理の奥村先生が地学を教えていて、荻村さんが牧野先生付き、僕が奥村先生付きという感じだった。したがって、朝9時、昼12時、午後3時の気象観測は、週日は毎日、僕の仕事だった。休日は交互に出勤した。朝の観測結果は、毎月横浜の測候所へ届けた。それ以外の助手としての仕事の主なものは、学生のレポートの整理だったから、勉強する時間は十分あった。昼休みには、大学職員の庭球部の仲間と練習した。

職員庭球部の仲間には、生物教室の助手の土屋さん、御茶ノ水女子大学を出たての宇野直子さん、化学教室の助手で理科大生の中島賢三さん、青山学院大学の学生の千坂君がいた。上背のある、眼鏡の奥の目が優しい土屋さんは、上等兵の軍歴があるとのことだったが、結核で除隊したらしい。中島さんは、化学科の三年生で、群馬県前橋近郊の農家の出身だった。後に、彼の家に一泊して赤城山に登った懐かしい思い出がある。理科大の同級生、秋山俊夫君も化学教室に勤めており、助手には理科大生が多かった。

土屋さんと組んで大会に出て、優勝したこともある。土屋さんの前衛は、身長があるので後衛としては楽だった。

宇野直子さんの知的な美貌に惹かれた。大学で生物学科の植物学を専攻したとか、山もよく登っていた。高校の三階の屋上から、冬になると、関東地方を廻る山々が良く見えた。冬の澄んだ大気を通して、僕の好きな赤城山が幽かに見えるのに気がついた。宇野さんに話すと、最初は疑っていたが、地図で確かめて納得してくれた。有楽町で映画「エデンの東」を一緒に観た。

スコットランド民謡Loch Lomondの英語の歌詞を教えてくれた。

Loch Lomond

By yon bonnie banks, and by yon bonnie braes,

Where the sun shines bright on Loch Lomond,

Where me and my true love were ever want to gae,

On the bonnie, bonnie banks of Loch Lomond,

<Oh! ye’ll take the highroad and I’ll take the lowroad

And I’ll be in Scotland afore ye,

But me and my true love will never meet again,

On the bonnie, bonnie banks of Loch Lomond.>

 

‘Twas then that we parted in on shady glen,

On the steep, steep side of Ben Lomond,

Where in purple hue, the highland hills we view,

And the moon coming out in the gloaming,

<Oh! ye’ll take the high road and I’ll take the low road

And I’ll be in Scotland afore ye,

But me and my true love will never meet again,

On the bonnie, bonnie banks of Loch Lomond.>

 

理科大二部庭球部部長

理科大の2部庭球部に、どのような経緯で入部したのかはっきりしないが、2年になるときに、同級生の橋本靖志君に懇請されて、部長を引き受けた。練習は日曜日か、夏休みにやっていたのだと思う。大学の体育会に属する軟式庭球部で、予算配分もあったのか、部長会議が時々開かれた。部長を引き受けるときに、「忙しいから会議には出られないよ」と断ったので、会議には副部長の橋本君がもっぱら出てくれていた。ところが、空手部か何か、他の部の部長が、庭球部の部長は生意気だ、と言い出したらしい。橋本君の困りきった様子に、仕方なく出席して、普段の無沙汰を謝ったら、「焼き」を入れる甲斐もないことが分かったらしく、特に何事もなく済んだ。

庭球部で行った、谷川岳北の蓬峠ハイキングは、記憶に残る山行だった。理科大の創立記念日の61日に夜行日帰りで、蓬峠に行った。湯檜曽川に沿った登山道から見た一の倉沢、幽の沢の岸壁が鮮烈だった。6月の沢筋は雪渓が豊富で、何度もトラバースを繰り返し、蓬峠についたときはホッとした。下山路の越後側は雪が深く、緊張を強いられた。橋本君とは2年足らずの付き合いだったが、心に残る友達だった。

大きな大学には知恵者がいて、法政、日大など夜間部のある大学の軟式庭球部の連合体で、リーグ戦をやろうなんていう話も出てきた。何回か会議をやったが、結局、どこからも資金援助を得ることが出来ずに、立ち消えになったようだ。

相当に忙しかったはずなのだが、2部の山岳部に入っていたのが不思議だ。1956(S31) 3月に、北沢峠を拠点に南アの春山登山をしている。2年の終わりだから、その間の気象観測は荻村さんに頼んだのだろうか。あるいは、3年から昼間部に転部することになっていたから、後任の人にバトンタッチした後だったのだろうか。

 

3年になるときに、転部試験を受けて1部(昼間部)に移った。慶応高校の日給は200円だったが、家庭教師の報酬が、一日約2時間、週に二日で、月に3,4千円もらえるということを知った。育英会の奨学金も月額3000円を1年の後期から借りられることになった。当時の僕の(というより我が家の)常識では、「奨学金は借りなくて済むなら借りない方がいい」というものだったから、入学時には申請しなかった。入学して最初の指導教官の面接で、担任の脇本先生が「入試の成績もいいし、申請すれば受けられる」と示唆してくれたので、6月に申請して、9月から借りられることになった。学生会館の生活では、この奨学金と家庭教師のアルバイトとで、十分やっていけることが分かったのが、転部する気になった理由である。

転部した後の昼間部での34年の生活は、同級生の原建二君の影響を強く受けて、物理学に熱中した。軟式庭球部も、山岳部も、頭に無かった。将来のことを考えて、というのではなく、ただ面白いから熱中したというのだろう。量子力学の不思議さに感動したのが、この時期である。時間を見つけては、丹沢や谷川へ尾根歩きにでかけるのが、唯一の運動だった。

 

東大の大学院に入学して、奨学金が月6000円に増額された。授業料は理科大の年間2万円が国立大学の年間4000円と逆に安くなったので、経済的な余裕が生まれた。

理科大の同級生で、スタンレー電気に就職した河野要君が、会社のテニス部の練習に誘ってくれた。そのとき、彼の会社で働いている東洋大学の2(夜間部)の女子学生の上条泰子さんと出会った。練習の後で、皆とコーヒーを飲みながら話しをした。テニスの練習でも、23回一緒になった。その後、冬になって上条さんが手編みの靴下を送ってくれた。山梨県の田舎育ちの、純朴な女子学生だった。哲学科だったか、今はどこで何をしているだろうか。

 

サッカーに転進

1965(S40)に静岡大学に赴任した。やはりテニスを始めようとしたが、こちらは主流が硬式テニスだったこともあり、今一つ熱中できなかった。関心はサッカーに向かい、30年に及ぶサッカー生活に移って行く。軟式庭球に熱中した一時期は、遠い過去のようでいて、いやに現実感をもっている。