東京学生会館の青春 1954 – 1960

1. 東京学生会館の青春 1954−1960

 1−1.東京学生会館

 1−2.入館

 1−3.生活

 1−4.慶応高校の実験助手

 1−5.消火器事件

 1−6.館生たち

 

2. 資料

2−1.当時の年代記

2−2.学生会館とは?

2−3.当時の物価

 

1.東京学生会館の青春 1954−1960

1−1.東京学生会館 (資料2-2

 飯田橋駅の市ヶ谷よりの改札口を出ると、直角に交わる広い道に出る。右に行くと外濠通と交わる交差点を渡って神楽坂への上りにかかり、商店街が続く。右手に映画館「銀鈴座」があった。外濠通りを右折すると左側にはもう一つの映画館「佳作座」があり、古い名画を上映していた。「天井桟敷の人々」や「わが青春のマリアンヌ」を観たのは「佳作座」で、「喜びも悲しみも幾歳月」を観たのは銀鈴座の方だったようだ。

 

現在(2008年)の飯田橋から九段周辺の概略図

http://www.geocities.jp/hjrfq930/NSS/omoide/kaikanchizu.jpg 

 

 駅の改札口を出て左に曲がると、この道は警察病院を右手、暁星学園を左手に、次いで右手に九段高校があり、この辺の露地から白百合女学園の生徒たちのセーラー服が現れるのだった。

 そのまま進むと、靖国神社の大鳥居の前に出る。飯田橋からここまで約1.5km10分である。ここで片側2車線の広い道路を、車の往来を気にしながら渡ると、田安門への入り口に入る。砂利道は石垣にぶつかって、右折すると田安門が聳えている。門をくぐると道は石垣にぶつかり、左折すると200mで旧近衛連隊の兵舎に着く。(現在、日本武道館が建っているあたり。)

 近衛連隊の旧兵舎は、枡形の鉄筋コンクリート2階建ての建物で、かつては練兵場だった1辺が150m位のほぼ正方形の中庭を囲んでいる。田安門からの道は南進して、建物の一辺に真っ直ぐ突き当たり、その建物を貫くゲートを通って中庭に入る。中庭を貫く道の左側は警察学校の運動場で、機動隊の演習などが頻繁に行われている。右側は学生会館の領分で、会館祭のときには裸踊りなどのグランドになる。道を直進すると、反対側の建物を突き抜けて、竹橋方面にでることができる。

 警察学校に対面する南北に連なる建物が、学徒援護会と東京学生会館である。枡形兵舎のこの辺は、3棟の建物からなる。中央の建物は、辺に直角に延びた30m位の2階建てで、1階が学生会館の事務室や生協の売店、2階に学徒援護会の事務室があった。

この管理棟(と呼ぶことにしよう)の両側に、中庭を貫く道路と平行に、南北に延びた二棟の2階建ての兵舎が建っている。各棟は中央に中庭に面した入り口があり、1階の各室への廊下の入り口であり、2階へはここから階段で上がる。学生寮になってからは、棟の両端に木製の階段を付けて、ここからも出入りができるようにしてある。全体としては南北に伸びた兵舎は、多少東西に傾いていたのか管理棟の南側を東館、北側を西館と呼んでいた。

各階の中央を貫く廊下の両側には、部屋がコンクリートの厚い壁に区切られて並んでいる。大きさが12畳敷き位のほぼ正方形の大部屋が、中央階段から左右に4個並んでいる。大部屋の外向きの壁には、大きなガラス窓が二つ並んでいて、中庭側は東に、反対側は西に面している。窓は部屋の広さには不釣合いに小さい。コンクリートの壁のドッシリした厚さも窓の小ささも、兵舎としての機能のためというよりは、戦前の建築物に共通の特徴なのだろう。

学生寮にするときに、この大部屋は薄い板で半分に仕切られて二つの半独立した小部屋に分けられ、部屋数は倍になっている。音に関しては8人部屋と同じことだった。敗戦前の近衛連隊の兵隊さんたちは、8人一部屋で寝起きしていたのだろう。この小部屋は、4人の寮生を収容するように、コンクリート壁に沿って、木の棚が作り付けになっており、下段2個、上段2個の4個のベッドとして使われる。上段ベッドには中央に垂直につけられた梯子段で登る。 一室4名のベッドは、部屋の片側の壁際にしつらえられた2段の蚕棚の半分ずつで、広さは畳一帖より少し幅も長さもある程度だった。

この小部屋には、大きな木製の会議机が1個と木の椅子が4個おかれていて、室内での勉強や調理に使われる。読書室が別に建てられているが、冬の寒さに耐えるには、居室の方が適していた。

会館の西側を50m位進むと、千鳥が淵の堀に面した石垣の上に出る。千鳥が淵と会館の間に、幾棟かの建物があり、西館の裏には2階に和室のある娯楽棟やプレハブの食堂、東館の裏にはプレハブの読書室があった。東館、西館の裏に屋根つきの洗濯場が一つずつあった。キャンプ場の炊事場のような、水道の蛇口の並んだ掘っ立て小屋で、冬場の夜の洗濯はきつかった。

こうして、旧近衛連隊の兵舎の4半分は、都内の殆どの大学から集まった640名余の学生の住処となったのである。

 

1−2.入館

九段の代官町にあった東京学生会館(資料2−2)に入館したのは1954年の6月中旬だったろうか。

 4月に東京理科大学二部(夜間部)物理学科に入学し、田無町小平に住んでいた伯母もと(母の妹)の家に同居し、まもなく母の実家の隣の農家の一室を借りて生活し始めてから、3ヶ月足らずのときだった。

大学の厚生課の掲示板で「館生」募集の掲示を見て、地理的に便利なことと、寮費が130円と格安なことに惹かれて、直ちに応募した。学生会館が学生運動のメッカ的な場所であることも知らなかった。当時アルバイトで働いていた、新宿の焼き海苔加工工場の同僚で、明治大学の夜間部に通っていた、熊本出身の好漢、古賀さんが「明治大学がどこにあるのか」を知らない無知に唖然としていた位に、学生生活に関しては無知だったのが、面白い。

理科大分会の在館生が全員で行う入館選考で、「二宮尊徳の哲学」(教養文庫)を最近読んで感銘を受けた本として挙げ、危うく選考にもれるところだった、という経緯を後から知った。そのときは、既に慶応高校の理科教務職員として働いていた荻村さんの「二宮尊徳の思想には封建制を批判する要素がある」というような言葉で救われたのだと、彼が後で話してくれた。

当時の理科大分会には、東館4号(一室4名)の半分と5号から8号、それに13号の22名が入館していた。応募率によって、定員の配分を調節していたのだろうか、1954年から一名増員されることになって、僕は少し離れた2階の東館62号(階段横の3人部屋)で中央大学の佐藤さん(と彼の弟)と同居することになった。ということは、中央大学の定員にゆとりがあって、彼は予備校に通っていた弟にベッドを一つ与えることができたようだ。

 

1−3.生活

昼間部の学生の生活と夜間部の学生の生活とは、当時でも相当に違ったものだったが、最初の2年近くを夜間部の、引き続き4年間を昼間部の学生として生活した私の場合、最も印象に残っているのは最初の2年間である。

朝、6時半(あるいは7時)起床、食堂で食事をして7時(7時半)に部屋をでる。新宿2丁目の海苔加工工場に勤めていた7月末までは、7時に起きれば間に合った。8月以降は、横浜市港北区日吉の慶応高校の地学教室に勤めることになったので、6時半起きだった。

夜は、遅いときには9時になる、大学の授業が終わってから、食堂の終了時間の10時に間に合うように帰ってきて食事をすることもあった。夕食は授業の始まる6時前に、大学の食堂で食べることが多かったような気もするが、会館の食堂に駆け込んだ記憶が残っている。慶応高校では、4時半に帰宅できるように取り計らってくれていた。

夕食後、9時とか10時に三々五々連れ立って風呂に行く。近くの風呂屋は九段上と九段下にあり、われわれは九段上に行くことが多かった。距離的にはほとんど同じだったが、九段下の方が、雰囲気が多少下町的だったことや九段下の広い交差点を渡らないとならなかったことなどが影響していたのだろうか。九段上の風呂屋へは、大妻女子大の学生寮の傍を通る道からも行けたからかもしれない。

予習、復習は、風呂から帰ってから寝るまでの2,3時間である。読書室や部屋の机は、眠くなったらすぐに横になれるベッドの上より不便で、多くの学生がベッドの枕元にりんご箱などを置いて机代わりにし、そこで勉強していたようだ。私の場合は、殆どがこのベッドの上の書斎だった。

ベッド用の木の棚の材木の割れ目や継ぎ目は、南京虫の格好の棲家だった。南京虫採りの名人、あるいは南京虫の巣に恵まれたベッドに当った一人が、小瓶に集めた戦果を、投げやりな態度で見せてくれたこともあった。

理科大の3年になるときに、転部試験を受けて2部(夜間部)から1部(昼間部)に移った。学生会館の寮費が130/月で入学時の予想より生活費が安く済むことが分かったし、当初考えていなかった奨学金を2000/月借りられるようになったこと、家庭教師を週2回やると月に3000円位は稼げることが分かったので、月に6000円貰っていた慶応高校の給料を失っても生活できる目安がついたからだった。

1部に移ってからのアルバイトには、風変わりなものがあった。主に、学生会館の事務室で紹介していたものである。

喫茶店の清掃を請け負っていた会社では、深夜労働である。最初の夜に、一番汚れの酷い入り口と階段下を一人でやらされ、きれいにならないからバイト代(200円だったか)を払わないと言われた。これは紹介者に訴えて、払わせたが、一回で止めた。

床屋の職人の練習台になったこともあった。普通、散髪に要する時間はせいぜい1時間だが、練習台の場合は向うの都合で延々とやる。只でさえ退屈なのに、無目的に座っているだけなのだから、睡魔が遠慮なく襲う。コックリ、コックリしはじめると、演習職人はやりにくいのか、はさみでわざと毛を挟んで引っ張る!痛いので目を覚ますが、またコックリする。3回くらいコックリしたら、向うがあきらめて開放してくれた。

大学の紹介で行った両国の家庭教師は、白鴎高校の2年の女学生だった。両国界隈には全く馴染がなかったが、この家庭教師のお陰で、下町の風情を少しは味わった。当時、神楽坂の蕎麦屋で掛け蕎麦が20円だったが、両国では15円だったなど、多少は物価も安かった。この女生徒が希望の大学に合格したので、両国高校へ通っていた弟の家庭教師を続けて受け持つことになった。この子も希望の大学に合格したのだったと思う。

 

1−4.慶応高校の実験助手

  朝は6時に起きて日吉の慶応高校へ出勤し、夜遅く帰ってから第2外国語のドイツ語や専門の物理学を中心に予習・復習をする生活では、寝不足になるのは避けられない。

 最初のアルバイト先の、新宿2丁目の味付け海苔製造所では、単調な海苔パック造りの最中での居眠りが原因で、4ヶ月で首になった。当時の味付け海苔の製造は、手作業の部分が多かった。築地で仕入れてきた海苔は、味付け乾燥機を通して原液の味をつけ、ここから手作業で、10枚の海苔を8等分に裁断し、裁断した小さな束に紙の帯を巻いてくくり、50束をビンに詰め、蓋をして一ビンが完成する。このビンを段ボール箱に10個入れて一箱の味付け海苔が出荷される。裁断の際には、どうしても小片が千切れて落ちるので、味付け海苔の小束は完全に同じ形の海苔だけでできているとは言えない。大き目の断片は作業者の口に入ることになる。

 この単純な作業には、男女十数人の職工が携わっており、女性は近くの工員、男性は殆どが学生アルバイトだった。男性の例外は、社長の出身地の諏訪から出てきた中卒の若者2,3名で、彼らが作業を取り仕切る中心にいた。4月の初めに、学徒援護会のアルバイト紹介で見つけた職だったが、7月末に、班長から解雇を言い渡された。婉曲な言い回しだったが、作業能率が落ちているので、転職を考えて欲しいというものだった。どうしても作業中にコックリ、コックリが出てしまうので、海苔束を巻くスピードは落ちてしまう。誰の目にも明瞭な事実だった。

 学生会館の先輩で化学科の荻村さんが、慶応高校地学教室の実験助手をしていた。なんかの都合で、81日から地学教室の実験助手を一人採用するという話になり、彼が紹介を頼まれた。新宿の海苔屋を首になる前に、その話があったので、班長から話のあったときには、すぐに辞めることができた。偶然とは言え、幸いだった。

 慶応高校の理科の各学科には、二人ずつの実験助手がついていた。地学教室には二人の教師がいた。地質の牧野先生と物理の奥山先生だった。荻村さんは牧野先生の、私は奥村先生の授業の準備を手伝うことになった。他に、物理には春名さんと渡嘉敷さん、化学には中島さんと千坂さんがいた。生物には軍人上がりの土屋さんと御茶ノ水女子大卒の宇野直子さんがいた。生物の実験助手以外は、みな学生アルバイトだった。また、青山学院の学生だった千坂さん以外は、みな東京理科大学の学生だった。

慶応高校の勤務は、勉強するには最適だった。奥村先生の実験助手としての仕事は、一日2回(午前9時、午後3時)の気象観測とたまに授業でデモンストレーションをするときの準備、レポートの受理などで、勤務時間の8時半から4時半までの大部分は、自分の机で好きな勉強ができた。昼休みには、職員のテニスクラブの仲間と軟式庭球をやった。生物の土屋さんとは、ペアを組んで活躍した。宇野さんもたまにはラケットを握った。

気象観測は365日休みなしの仕事だったが、休日は荻村さんと交代でやることになっており、それほどの苦痛は感じなかった。お互いに都合をつけあって、適当に休みを取ることができたからである。

ある日曜日、私の勤務することになっていた日に、目覚まし時計で一度目が覚めたあと、また寝込んでしまい、次に目が覚めたときには8時過ぎだった。あわてて飯も食わずに飛び出していったが、学校に着いたのは10時過ぎだった。不思議なことに、かつて日曜日に来たことのない奥山先生が、その日は登校してきて、私より先に部屋に入っていたのだ。虫の知らせで、出てきたのだという。10時の観測結果は、横浜測候所に報告して、地域の測定データとして公表されていたものなので、奥山先生の指示に従い、自記観測装置のデータから復元したものを10時のデータとして報告することになった。(もちろん、事情の説明を付けた。)

 

1−5.消火器事件

 そんな風に仕事と勉強に励んでいた頃のことである。理科大の1部(昼間部)に通う学生が、私の部屋で1時過ぎまで騒いでいたことがあった。土曜日か何かで、外で飲んできて、乱痴気騒ぎになったのだろう。私が東館8号に入っていたのだから、2年になってからのことである。翌日も勤務があるのだから、1時過ぎにたまりかねて、静かにしてくれるようにお願いした。

 その時は、おとなしく他の部屋へ移ってくれたのだが、翌日の夜、授業から帰ると東館5号へ呼び出された。中村君(数学科3年)が、先輩に文句を言うとはけしからん、とお説教される。腕組みしていた手を解いたところ、突然、頬と腹を殴られる。その場は、先輩に文句を言ったのが悪いというので、謝って部屋へ帰る。なんとなくスッキリしない気分で、帰ってきたのを憶えている。暴力に屈しただらしなさが、嫌だった。

 同級生に、刈田彰基君がいた。新潟県長岡市の出身で、武蔵工大を1年やって理科大に入りなおしたという変り種だった。全寮連(全日本学生寮連合会)の委員をやっていたという一面もあり、後に道路公団に入って、角栄路線の先鋒を担ぐことになるという一面も持っている。彼が東館4号に入っていた。

 彼は、中村君が私を殴ったことに義憤を感じたらしく、会館の規則で厳重に禁じられている暴力行為を表ざたにして糾弾するように私を説得した。煮えくり返る思いを持て余していたところなので、刈田君のいうとおりに、会館の委員会に訴えることにする。

 館生大会が、喫茶室で開かれた。全面的に中村君に非があったので、彼は退官処分になった。中村君は学生会館にいなくても学生生活が送れた境遇にあったようで、卒業後はどこかの大学の教授になったということだった。

 それから何日かたったある日のことである。夜、大学から帰ると、私のベッドに液体消火器の消化液が一面に巻き散らかされているのを発見した。これには唖然とした。中村君の退官処分に至る経緯に不満のある人間の、卑劣な行為だが、犯人は分からず仕舞いだった。もっとも捜索めいたことをしたわけでもないが。岩淵君(化学科4年)らしい、という噂は耳にしたが、そんなところかもしれない。

 このベッドには、付き添い看護婦をしていた50歳代の母が、昼間の空き時間に、一眠りをしにやってきたことも度々あった。私が帰ると、ベッドで眠っていて、夜中に起きだして病院へ勤めに行くのだが、一晩泊まっていくこともあった。病院のパンを焼いてラスク状にして持ってきてくれたりもした。南京虫を身につけて帰って、群馬の家で南京虫騒動を起こしたことも、一度あったらしい。

 

1−6.館生(寮生)たち

 敗戦後9年しか経っていなかった1954年(昭和29年)には、学生の年齢構成には大きな幅があり、高齢者には、旧制高校あるいは専門学校の出身者で、兵役についていて敗戦を迎え除隊した人、満州の開拓団からの引揚げ者の子供など、様々な経歴の人たちがいた。特に夜間部には、経済的に、文化的に恵まれない家庭の子供たちが多かった。現在(2008年)でも家庭の経済状態が大学入学者の階層化の大きな要因であることが指摘されているが、当時もその傾向は明らかで、あるいは現在以上に進学を左右する要因だったのだろう。

 東京学生会館に共に学んだ学友たちは、生きるために戦いながら学ぶという共通の体験を共にしたという意味で、文字通り「戦友」でもありました。50年の時間の中で、その戦友たちの中には、既に鬼籍に入った人もいます。そうでなくても傷つき、刀折れ、矢尽きて、老年に達して、時代の変遷の激しさに戸惑っている戦友たち。時代の荒波に揉まれて生きた戦友たちとの交友を書き記して、あの頃の世相の一端が表せるとよいのですが。

 

 (未完)

 

2.資料

2−1 当時の年代記

1950(S25)

この年、GHQが共産党中央委員の公職追放を指令

6.25 朝鮮戦争勃発(―19537.27

1951(S26)

9.8 対日講和条約・日米安全保障条約

10.24 社会党が左右に分裂

1952(S27)

2.28 日米行政協定調印

5.1 血のメーデー事件

10.30 吉田茂第4次内閣

この年、破壊活動防止法・公安調査庁設置法公布

1953(S28

5.21 吉田茂第5次内閣

1954(S29

3.8 米と相互防衛援助協定(MSA協定)調印

6.9 防衛庁設置法・自衛隊法公布、

11.5 ビルマと賠償協定調印

11.24 日本民主党結成

12.10 鳩山一郎第1次内閣、

1955(S30

10.13 社会党統一大会、

11.15 保守合同で自由民主党結成

11.22 鳩山一郎第3次内閣

1956(S31

12.23 石橋湛山内閣

1957(S32)

2.25 岸信介第1次内閣

1958(S33

6.12 岸信介第二次内閣

1959(S34

12.23 退職勧告と指名解雇 (三井三池争議、−19608月)

1960(S35

1.19 新日米安保条約・行政協定調印

1.24 民主社会党党結成、

5.25 安保条約、衆議院で強行採決

6.15 樺美智子死亡

6.19 安保条約、自然成立

6.23 岸内閣、総辞職

7.19 池田勇人第1次内閣。

10.12 浅沼社会党委員長刺殺される

1961(S36

 

 

 

2−2 学生会館とは

2−2−1 終戦直後の学生生活と奨学援護 (「学制百年史」より)

戦後、戦場や工場から学園にもどった学生は、その日から戦後の社会的・経済的混乱にまき込まれ、深刻な食糧難と住宅難に直面し、また、家庭からの仕送りも とだえて、多くの学生は、生活費をうるために街頭販売、行商から重労働まで行なわざるを得ない状態となり、学校への出席状況も悪く、昭和二十年の暮れに は、臨時休校を行なう学校が各地に続出した。

このような学生生活の危機に際して、学徒の援護を行なうため、戦争末期の二十年三月に創設された「動員学徒援護会」を改組した財団法人「勤労学徒援護会」 は、国の補助を得て、二十一年三月にはアルバイトあっせんを開始し、同年五月には東京に学生寮(引用注、学生会館)を開設した。その後、二十二年にはいってからは、名称を「学徒援護会」と改めるとともに、地方主要都市にも順次学生寮(学生会館)を開設し、二十七年度には、全国九か所の学生寮(学生会館)で一、七〇〇人の学生を収容する一方、四か所の学生相談所でアルバイトのあっせんその他学生の援護のための業務を行なうに至った。

他方、昭和十九年の「大日本育英会法」の制定により、大日本育英会を通じて実施されてきたわが国の国家的育英奨学事業は、終戦前においては、少数の英才を対象として手厚く援助することを意図していたが、戦後の社会的混乱に直面して、学徒の緊急な救済が当面の課題となり、同会の業務に大きな転換が要請されるに至った。すなわち、対象とすべき学生数の増加に対処するため、奨学生採用数を大幅に増員するとともに、奨学生の採用方式についても、従来の進学希望者から予約採用する方法を廃して、二十三年度からは在学生から採用することとした。また、創設当初は生活費の全額をまかなうことを建て前としていた奨学費の額についても、奨学生数の増加とインフレーションに対応できず、その一部を援助する程度の額となった。このようにして、二十一年度には約一万人であった奨学生新規採用数は、翌二十二年度には一挙に三倍の約三万人に、事業費においては十倍の一億円となり、その後も年々増加して、二十七年度には、奨学生新規採用数七万人、事業費総額三〇億円となった。

なお、この時期には、医学実地修練奨学生、通信教育奨学生、旧制大学特別奨学生、大学院研究奨学生、教育奨学生等の一連の特別の目的に沿った奨学生制度が設けられたが、なかでも、高度の学術研究者の養成確保を目的として十八年十月から文部省が実施してきた大学院特別研究生制度を継承するものとして、日本育英会を通じて二十四年度から始められた「大学院研究奨学生制度」と、義務教育の教員の養成確保の施策として二十五年度から始められた「教育奨学生制度」とは、その後も大きな役割を果たしているものである。(文部科学省「学制百年史」より)

 

2−2−2 [あの言葉 戦後50年]昭和20年代 学徒援護会  

今は「内外学生センター」という。東京・落合にある。

 財団法人学徒援護会ができたのは、戦災跡のまだ生々しい一九四七(昭和二十二)年。戦中の動員学徒援護会が一月七日から生まれかわった。

 学生たちの深刻な生活難に対し、アルバイトの世話をはじめとする厚生・援護をはじめた。九段の旧近衛連隊兵舎跡に学生会館(宿舎)と学生相談所を開き、五一年には全国学生アルバイト対策協議会もつくった。

 アルバイトの初の実態調査が五一年夏におこなわれている。当時は、朝鮮動乱による特需景気、日用品の統制解除、繊維不況、公共料金値上げなどと経済生活が大きくゆれていた。

 大学生たちが求めている収入は、三分の一が「一か月千円はほしい」だった。実際のバイト収入は、半数が千五百円以下との調査もある。下宿の部屋代が四畳半で月二千円、理髪代が百五十円、ラーメンが三十四十円していた。

 会社訪問をいまは就職のためにしている。当時は、まず通学するためにバイトを探そうとして、会社訪問したものだ。

 住宅街のくみ取りトイレの消毒をして回ったことがあるが、志望者が少ないのでいい日当だった記憶がある。(田) (1995/04/28 「東京新聞」朝刊 解説面 02段)

 

2−3 当時の物価

<東京学生会館食堂のメニュー>

飯 14円(半ライス 7円)

味噌汁 3

おかず A,B,C,D; 8円、10円、13円、15

コッペパン 10

<町の食品>

そば 20円(両国あたりへ行くと15円)

ラーメン(志満金)40

<アルバイトの時給>

25/時(新宿の海苔店)、20/時(日吉の慶応高校)

<学生会館の寮費> 130円/月

<理科大の授業料> 2万円/年、入学時に施設拡充費1万円を払った

<日本育英会の奨学金> 3000円/