原建二君  追悼

小島英夫

 

199993日に、原建二君が30年余り暮らしたミュンヘンで亡くなった。1ヶ月余の入院生活だったと、922日に受け取った、夫人の原恵苗(よしなえ)さんからの手紙である。2000年の13日に定年の予定と聞いていたので、満648ヶ月だった筈である。

ほんの2ヶ月くらい前に、人工透析しているので日本へは行けなくなった、病状は安定している、少し快方に向かっていると、今度来日したときには楽しく呑もうと誘った手紙に対して答えてきたばかりだったのに。

原建二君との出会いは、僕が東京理科大学の一部(昼間部)へ二部(夜間部)から転部した3年次生のときに始まった。物理研究部のメンバーだった彼は、長谷川、本間、松本、上甲の諸君と同部のゼミナール活動を活発に行っていた。当時盛んだった都物懇(東京都物理科学生懇談会)の活動とも連携を取っていたと思うが、SlaterIntroduction to Theoretical Physicsなどを読んでいた。原君はその中心メンバーの一人だったようだ。

物研には入らなかったが、転部してすぐに彼と知り合った。物研のメンバーと一緒に写った写真が一枚残っているから、同部とのコンタクトはあったようだ。勉強好きが何となく引き合ったものだろうか。物理学科の鈴木研(鈴木良治教授)の4年生のゼミナールが土曜日の午後開かれ、SchiffQuantum Mechanicsをテキストにしていた。3年生も勝手に聴くことを許されていたので、二人で首を突っ込んで量子力学を学んだ。3年の量子力学の授業は、一部では渡邊光邦助教授が、二部では東大の雨宮綾夫教授が講義していた。雨宮教授の数学的に整理された講義も聴いたような気がするが、必修の渡邊先生の授業に加えてこれらの講義やゼミナールに首を突っ込んでいたのは、やはり若き日の情熱と言うものだったのだろう。鈴木研のゼミには、助手だった高橋安太郎先生、卒研生(4年)の宇田川猛、塩山章蔵、武宮利憲など、後に教育大や京大で素粒子や原子核を研究するようになる人達が集まっていた。波動関数の確率解釈の奇妙さに魅了され、物理学を学んだ喜びを興奮気味に語り合ったのも、原君との思い出の懐かしいひとコマである。

原君は池袋から少し入った東長崎辺りに下宿しており、代官町の学生会館から僕を呼び出して、日曜の午後を音楽鑑賞で過ごさせてくれた功労者だった。池袋の音楽喫茶「らんぶる」が最もよく通い、長時間を過ごした店だった。コッペパンを齧りながら、一杯のコーヒーで数時間を音楽鑑賞に費やしたものだった。学生会館の仲間とよく行った神保町の「エンプレス」にも、古本屋廻りの終りには何回か立ち寄った。

当時の愛聴曲は、若さのエネルギーにふさわしくベートーベンが圧倒的に多かった。中でもヴァイオリン協奏曲は、ハイフェッツ、メニューヒン、フランチェスカッティ、オイストラフなどがあり、毎回一度はリクエストしたものだった。フランチェスカッティは重厚さが足りない、などと話し合ったものである。シンフォニーでは、「第九」、「英雄」、「運命」、「田園」などは良く聴いた方だが、彼は7番や8番の良さを知っていた。

ある時、知らない曲を聴きながら、朝から夜までの情景を描写した音楽だと面白がっていたところ、プロコフィエフの「キージェ中尉」だと分かり、その一生を描いたものとの解説を読んで、我々の鑑賞力も満更でないな、と嬉しがったこともあった。

原君は甘いものが好きで、新宿の「追分だんご」に何度か付き合わされた。そんな時は、幾分生活にゆとりもあり、食べたくて誘った方の彼が奢ってくれた。酒は飲めば飲める口だったが、彼の方から誘うほどではなかった。尤も当時の経済状態では、酒はコンパのときだけ飲むものでもあった。

彼のタバコには、面白い思い出がある。タバコ好きはその好みを友人と分かち持ちたいと思うものらしく、よく勧められた。彼の高校のクラスメートで阪大の工学部に学んでいた大西君が、4年の企業訪問旅行で東京に寄ったとき、池袋の「らんぶる」で会った。大西君もタバコを吸っており、原君が僕に盛んに勧めるのを見ていた大西君が、「自分より優れた友人に悪癖を勧めてスポイルする陰謀だぞ」と冷やかした。それ以来、彼がタバコを勧めることはなくなった。

4年のゼミナールは、当然のように二人とも理論を選んだ。高橋安太郎先生が講師に昇任され、初めて自分の指導学生を持った年だった。原君は律儀に鈴木良治教授を指導教官に選んだが、僕は高橋先生を選んだ。柳さん(東工大に進み、沢田正二教授の助手になったが、早世した)も同じゼミだった。一方、鈴木ゼミには、長谷川雅行君がいた。とは言っても、ゼミナールは一緒にやった。例年のSchiffQuantum Mechanicsはオープンで、卒業生もやってきた。他にFermiNuclear Physicsの訳本(吉岡書店版)で核物理を学んだ。Schiff2度目だったから特に問題はなく、自分で先まで読み進み、最後までほぼマスターした。Fermiの内容は素晴らしく、いたるところで奇想天外の説明に驚嘆した。自動車が丘を通過する確率を計算する問題がトンネル効果の練習問題に出ていたのには、度肝を抜かれた。最近数年間の静岡大学の研究室のゼミナールでは、イタリアのローマ大学のB. Stella教授に頼んでコピーを取らせてもらったFermiの英語版を使っていたが、内容の質の高さに改めて感心した。学生時代には、相当の知的刺激を受けた筈である。

当時の出版文化の思い出に、洋書の「海賊版」の隆盛がある。教育大の研究生だった吉村徹さんが、よく研究室へ持ってきてくれた。茶色い表紙のソフトカバーだったSchiffの初版の教科書も彼からのもので、裏表紙の見開きに230-yenと鉛筆の文字が残っている。理大では物理の実験準備室に勤めていた二部の同級生、太田ワ君が取り扱っていた。吉村さんはロシア語からの翻訳も手掛け、ボゴリューボフなど何冊かの訳書を出したりもしていた。原君と神田の古書店を巡りながら、PauliDie allgemeine Prinzipien der Wellenmechanik (Enzyklopedien der Physikの一冊からの海賊版)を薦められて買った思い出もある。

大学院入試の秋になった。原君は高橋先生や一年上の宇田川さんと同じ道を選んで東京教育大を受験し、合格した。僕は、渡邊光邦助教授にも相談して、東大の武藤俊之助 教授の下で原子核を学ぶのと、梅沢博臣 助教授の下で素粒子論を学ぶのとを視野に入れていた。東工大の原子力工学科にも願書を出していたところをみると、Fermiの影響がかなり大きかったことがわかる。

当時、原君が家庭教師をしていた女子学院の生徒の家が東京教育大の学長だった朝永振一郎先生の遠縁に当たっていた関係で、二人で朝永先生にお会いできることになった。1958年の2月頃だった。教育大の学長室に先生をお訪ねして、小一時間も種々のお話を伺った。

その時の朝永先生のお話で特に印象に残っているのは、「理論家はカンニングをするのですよ」という言葉である。「くりこみ理論」はまさしくカンニング理論だと言っても良いのではないか。実験データをして真理を語らせるのが理論で、その道具が直感や、仮説や、数学なのである。科学が「通常科学」の段階に達するとそのことが往々にして忘れられ、その逆のような錯覚を与えがちになり、数理科学者が我が物顔にふるまうようになることを、先生は若い二人に忠告してくれたのだろう。出来上がった枠組み(重箱)の中で心地よく動き回る安易さが退廃を生むのは、社会科学だけのことでなく、自然科学にも共通する人間知の宿命なのかもしれない。

朝永先生はその後1965年にFeynman, Schwingerと一緒に「くりこみ理論」(量子電磁力学)でノーベル賞を受けられた。

もう一つのエピソードが、このときの朝永先生との対話にまとわっている。原君の「教育大学は非教育大学だと言われていますが、云々」という質問に、先生が何とお答えになったのかは記憶に残っていないが、その後日談は鮮明に思い出される。その翌週かの土曜日のゼミナールに出てきた、当時教育大のM1だった宇田川さんが、厳しく原君を叱責した。朝永先生が教育大のコロキュウムで「教育大は非教育大だなどと陰で噂している人がいるようだが、教育の本質を弁えないにも程がある」という趣旨の話をされたらしいのである。高橋先生や宇田川さんにすれば、「教育大は非教育大」というのは一種のレトリックであって、その反語的表現にこめた気概を理解しないで朝永先生にじかにぶつけてしまった、当時のわれわれの幼さをたしなめたのだったろう。学問の何たるかを、大学院で始めて知るようになった僕達の、初歩的な認識不足を露呈したエピソードではあった。

卒業旅行は、長谷川雅行、原建二をさそって、車中一泊の汽車旅行をした。当時の学割(学生割引)は発駅から着駅までの合計運賃の5割引で、国鉄運賃も遠距離逓減性で逓減率が大きかったから、できるだけ長い経路を一度に乗れば、安く旅行できた。宿泊費を省くには夜行に限るという訳で、上野から信越線、小諸から小海線、小淵沢から中央線、甲府から身延線、富士から東海道線で帰京するルートで一泊一日の鈍行汽車旅行となったのである。上野発23:50の鈍行で出発し、寮(学生会館)のある飯田橋へ戻ったのは翌日の22:10だった。小淵沢で列車の接続時間を利用して、冬枯れの雑木林の陽だまりに寝転んだのが、憩いのひとときだった。誰がカメラを持っていたのか、その時の写真には若々しい顔が写っている。

大学院へ進学してからは、原君と話す機会は減った。大学院間での単位互換制度が始まり、梅沢博臣助教授の「素粒子論」の講義を教育大の学生が何人か聴講にきていて、その中に原君もいたような気がする。東大の修士の学生定員は当時30人で、理論系は10人位だった。理学部棟の二階の一室が理論系の1年生の控え室で、演習や講義の合間の溜まり場になっていた。物性研や駒場に研究室をもつ学生は、本郷へ行ったときにはそこで情報交換をした。原君が1,2度この部屋を訪れたようだ。

東大のM1の理論系の学生の演習は、物理学会が編集して刊行していた物理学論文選集の中のFockの第二量子化だった。(V. Fock, “Konfigurationsraum und zweite Quantelung)山内恭彦、久保亮五などの教授に混じって上級生も出席していたゼミナールだった。

原君が1963年にドクターを出てからドイツへ行くまでの時期は、ほとんど接触がなかった。お互いに研究と私生活で忙しかったためである。彼がドイツへ行く前に、一度静岡へ訪ねてくれたことがあった。

次にゆっくり話す機会をもったのは、1983年に僕がミュンヘンを訪ねて、彼のアパートに何日か泊めてもらったときである。ヨーロッパ旅行の途中、723日から27日にかけてミュンヘンに立ち寄り、大学を訪れ、近郊を案内してもらった。ノイシュワンシュタインへのドライブもこのときの懐かしい思い出である。彼の居間に飾られていた、大きな「モーツァルト一家」のエッチングの絵は、19世紀のものとかで、どこかの蚤の市で見つけたのだとのことだった。彼の音楽への傾倒の深さを示していたのだが、彼の音楽的素養の真価を知ったのは、最近のことである。

時折交わされた原君との交信が頻度を増すようになったのは、この数年間のことである。特に電子メールe-mailで交信ができるようになって、簡単な挨拶を電信で交わし、必要に応じて航空便を使うようになった。彼のソフトは日本語が処理できなかったので、英語での不自由さがついて回ったからである。73日には、じきに日本語が使えるという嬉しいメールが来た。今か今かと待っているうちの訃報だった。4月以降の彼からの電子メールを、この文章の最後に引用する。

ミュンヘンの日本クラブの月報に連載された彼のエッセイ「バロック音楽を楽しむ」を、原君が昨年の暮に送ってくれた。正編(1)(8)、補遺(1)(2)の、全30ページに達する大論文で、読み応えのある、含蓄にとんだバロック音楽入門であり、前記の.彼の音楽通振りを示すものである。彼の貴重な遺産の一つなので、多くの人に読んでもらいたいものである。

原君がミュンヘンで挙げた物理学上の業績に付いては詳らかにしないが、晩年は計算機関係の仕事をしていると、最近お会いしたミュンヘン工科大学の森永晴彦教授に伺った。伏見康治先生の米寿を記念して199712月に開かれた、原子力研究所の先端基礎科学センターの第100回基礎科学セミナーで「常温核融合はどうなったのか」と題してお話させていただいとときに、レセプションでお会いしてのお話だった。

今年の3月に僕が送った退職記念文章『「常温核融合」の物理学への道』にたいして、原君は「言いたい事が山ほどある」「e-mailで論ずる話題ではないから会ってゆっくり話したい」(46)と言ってきたところをみると、物理学に対する情熱は持ち続けていたに違いない。

是非会って話したい、との僕のメールに、「腎臓を悪くして、透析を週に3回しなければならないから、もう日本へは行けそうにない」(527)と言ってきたのには、本当に驚かされた。それまでは、病気の気配は全くなかったようだった。急性の腎臓病だったのだろうか。それでも「病状は安定しており、多少は快方に向かっている」(73)との便りに、日本語での交信を期待していた矢先のことだった。この頃から病状が急に悪化したのだったろう。

1ヶ月余の入院生活の後の93日という話である。物理学や音楽や人生について、改めて彼と語り合う機会をついに持つことができなかったのが心残りである。来世で語り合う楽しみが最も大きな友の一人である。(1999.10.3)

 

 

原君の最近の電子メールから。

 

Dear Kozima‑kun,

Today, I received (and read) your booklet "A way to the Cold Fusion Physics".

I now understood how you’ve spent your time after we departed each other 40 years ago. Actually, I thought I have a lot of things to say about what you wrote but I've decided to postpone it until we meet again. There are so many things I wanted to tell you (but an email is not a proper place for it). In any case, I thank you for sending me your booklet. K. Hara (1999. 4. 6.)

 

Dear Kozima‑kun,

Thank you for your letter and a copy of "Atogaki." I knew that veil like to sing but didn't know that you are a great expert of deutsche Lieder.

I have been looking forward to seeing you some time in Japan but it is quite likely that I am unable to visit Japan in the future. It turns out that my kidney is seriously damaged and I will have to be dialysed (Tohseki) soon.

I have been in a hospital for 3 weeks recently. The doctor says that, if a dialyse once starts, I have to continue it till the end of my life (3 times per every week). Theoretically, one can do it also in Japan but everything has to be prepared before coming to Japan (or to where I’m coming). This is practically impossible so that I’m bound to be here (no long trip). At the moment, I’m feeling still good but do not come to the Institute every day.

My official retirement will be 03.Jan.2000, i.e. half a year to go. K‑Hara (I999. 5. 27.)

 

Kozima‑kun,

Recently, I bought a CD of Beethovens Violine Conzert, played by an American young girl called Hilary Hahn. This CD (published by Sony Classics) is quite recommendable. The conductor is David Zimman, who recently recorded a complete Symphonies of Beethoven which I also plan to buy (an inexpensive CD set by Arte Nova).

My health condition does not change very much but with a slight improvement. I hope this trend continues. K. Hara

PS: I have installed a modem and the Japanese Windows 98 on my home PC. Soon, I will be able to write/read Japanese mails. (1999. 7. 3.)