母の思い出

 

1. 母の死

2. 母の生い立ち

3. 母の貯金

4. 家庭での看護

5. 母のエプロン

6. 静岡での母

7.

 

1.母の死

1991(66)18日の朝、720分に、母が死んだ。85歳だった。4年間の入院の後の、細い枯れ木が倒れるような死だった。

恍惚状態になり、かつ手足の自由の利かなくなった身体を、所沢の清和病院のベッドに横たえ、誰にでもニッコリと微笑みかける、落ち着いた入院生活だった。今でも目に浮かぶのは、両手を紐で結ばれた磔状態の悲惨なベッド生活だが、それを苦にする意識も無いようなのが、唯一の救いだった。しかし、前年(1990)の夏ごろからは、衰弱が目立ち始めた。長い苦労の生涯の終わりの、僅かな平安の日々をベッドの上で送ったことになろうか。

 

幼い頃の母の思い出は、母が看護婦や小学校の看護教員や助産婦として働いていたことに関連した事柄が多い。少年時代の思い出は、母の農家の長女としての生い立ちが滲んだ生活体験に関連したものが印象に残る。

 

戦後の農家の生活の悲惨な情況は、15年戦争の負の遺産を背負い込んだ当時の農村を映し出している。

 

朝鮮戦争の時期は、僕の中学から大学初年生時代に重なるが、個人的には、金偏景気に刺激された農村の子供たちのくず鉄、ガラス片集めから、大学生のアメリカ軍の死体梱包アルバイトまでの、日本経済回復期の底辺労働の体験となって記憶に沈殿している。

 

110日の葬儀の日、下落合の火葬場で、母の看護学校以来の友人である玉野さんの話を聞きながら、一緒にいた次弟が、母が上京した当時(1954年)の事情を全く知らないのに驚いた。母の上京は、僕の大学入学とほとんど同時だったのだが、家族を放棄して49歳の母が単身上京した決意の中身には、苦いものがあったはずである。取るに足りないことだが、僕が大学の2(夜間部)2年間通学し、生活費も学費も奨学金と俸給で賄っていたことも、家からもらったのは入学時の納入金3万円だけだったことも、弟たちは知らなかったらしかった。

 

父の放漫な経営方針による農業と縫製業の失敗を、母は身を粉にして支え続けていたが、僕の高校の授業料(月額200円)にさえ困る状態と、子供の大学進学に反対した頑迷さと、父の女性関係と、それやこれやが原因で、父を棄てる決心をして上京したのだということを、彼らは知らないらしかった。

上京した母は、友人の玉野さんが経営していた看護婦・家政婦紹介所を頼りに、殆ど休みなしに、病院への付き添い看護婦として働き、玉野さんが持っていた池袋4丁目1743番地の、木造平屋建ての家を月賦払いで譲ってもらった。部屋を貸して入る部屋代と、自分が稼ぐ賃金とで、ついに月賦を返済し、自分の持ち家にすることに成功した。自分の家を持っていても、自分で使える部屋がなかったから、勤務の合間の休憩には、学生会館の僕のベッドで眠ることも度々あった。そんなときは、病院の食堂で出るパンの耳を焼いて、ラスクにして持ってきてくれた。それが美味いと思える食糧事情の時代だった。

支払いが済んでからは、病院で知り合った大工に頼んで、家を2階建てに改築し、部屋を学生に貸して下宿代をもらって生活費を稼いだ。辛い付き添い看護婦としての勤労からやっと解放されたのだ。

 

群馬県邑楽郡中野村(現邑楽町)にある小島家の墓に母が葬られたいと思っていたか、どうか。墓を超越することはできなかったと思われる母だから、何も矛盾は感じていないかもしれない。痴呆が進んでも、歩いて行方不明になる彷徨状態では、「中野へ歩いて行ける」と思い込んでいて、度々警察の厄介になったのは、どのような心理だったのだろうか。(彷徨状態の記述は、当時、一緒に住んでいた弟から聞いた話の記憶によっているが、「中野(邑楽町中野)ではなく、野中(母の生地小平町野中新田)だ」という最近の弟の便りが正しいとすると、その方がツジツマが合う。)

池袋の一階の8畳間を自分の巣にしていた。明治38年生まれの、物資欠乏時代を生きてきた日本人だった母は、ちり紙一枚も無駄な使い方はしなかった。水洟を拭った紙は、乾けば再使用が可能なのを心得ていて、エプロンのポケットに入れておくのだった。この習性が古布や古道具を捨てないことに繋がり、母の居間はちゃぶ台を残して古物の堆積で埋まり、その周りに座る空間を見つけるのに苦労した。寝るのは押入れの中のベッドである。

母に痴呆の症状が現れるキッカケになった事件は、三男の長女サッチャンの幼い命(23ヶ月)が、母の必死の看護にもかかわらず東京の病院で失われたことであった(19741226日)。後に、次弟一家三人と同居するようになって、この家を土台から改築し直すときに、母の「カタツムリの殻」を根こそぎ廃棄してしまったのが、痴呆症の深化を決定的にしたようだ。

 

2.母の生い立ち

母、高橋シヅは、明治38(1905)928日、東京府北多摩郡小平町野中新田与右エ門組474番地に、父高橋信太郎、母ヒサの第二子の長女として生まれた。下には一人の弟と三人の妹がいた。生家は畑5町歩に山林も少し持つ大農家で、父親高橋信太郎は、小平村の村長を務めたこともある。屋敷は畑の北端にあり、畑に沿った道には数十本のケヤキの大木が並んでいた。典型的な武蔵野の田園風景に溶け込んだ農家だった。言い伝えでは、先代は、秩父事件に関係して処刑されたということで、墓碑に記された没年は明治18年(1885年)となっている。

 

高等小学校を出た母は、下に一男三女をもつお姉さんとして、家事と農作業の手伝いに携わっていた。このままの状態では、年頃になったときにどこかの農家の嫁になる以外に生きる道はない、と知った母は、自分で人生を切り開くための行動を起こした。冬の農閑期ならば、自家の家事・農作業を手伝わなくて済むので、東京へ短期の女中奉公にでることにした。当時、このような習慣がかなり一般的に存在したのではなかろうか。それを二冬やって俸給を貯めて、看護婦になるための試験を受けた。

昭和3年(1928年)に、10倍の難関を突破して、東京帝国大学医学部看護法講習科に入学した。(同期生の玉野さん談)この講習科は、授業料免除で給費制度があり、卒業後2年間は義務勤務が課せられていたとのことだった。母は産婦人科を専修した。合格するにはそれなりの受験勉強をしたに違いない。看護婦時代の成績も良かったらしい。卒業後は東大病院の看護婦として働いていた。

 

母に連れられて、小平の母の生家をしばしば訪れた子供の頃の記憶が蘇る。「野中」へ行く、というのが、当時の呼び方だった。東武伊勢崎・日光線の鐘ヶ淵駅の近くにあった家から、東武線で浅草へ出て、地下鉄で上野へ、省線で高田馬場へ、西武線に乗り換えて花小金井へ、というのが最も普通の経路だったようだ。途中の道筋は良く憶えていないが、青梅街道から500mくらい奥の屋敷までの、幅200mくらいの畑は全部高橋家のもので、ここだけで2町歩くらいはあったようだ。戦争中は雑木林も多く、春の新芽が美しかったのを憶えている。

 

小平へ行くときに起ったエピソードが、戦争中の世相の一コマとなっている。当時も、高田馬場で西武線に乗り換えるときに、省線のホームから階段を一度降りた踊り場で、西武線の改札口へ行くことができる。もう一つの階段を降りて、一度省線の改札口を出てから、西武線の下の改札口へ行くこともできる構造になっていた。5歳(多分)の僕と3歳の弟を踊り場の隅においた荷物に座らせておいて、母は省線の下の改札口を出て切符を買いに行ったらしい。戦時中で、物資が手に入りにくくなっていたときだったから、改札を出て目に入った近くの商店の前の行列が、母の興味を惹いたのは致し方ない。近くへいってみると、パンの特別販売か何か、魅力的なセールだったので、長い行列に並んでしまった。

隅の荷物に座らされて、前を通り過ぎる旅客の引きもきらない足、足、足、を見ていた二人は、次第に心細くなってきた。そのうち、弟がシクシク涙を流し出した。慰めていた兄も心細くなってしまい、涙が止まらなくなる。こうなると声も高くなり、辺りに人影が濃くなる。捨て子でしょうか?どうしたんでしょう?などという声に二人の悲しみはいや増すばかり。駅員がやってきて、名前は、誰と一緒、どこへ行くの、などと声を掛けてくる。ますます哀しくなってオイオイなきだす。とこうしているうちに、母が息せき切って帰ってきた。セールの買い物は買えたらしいが、時間がかかり過ぎた。このエピソードはいつまでも戦時の一挿話として、我が家では語り継がれてきた。

 

母が戦後まで持っていた日本語訳の聖書がある。裏には男子名のサインがあった。付き添った患者の一人がプレゼントしてくれたものだと、母は言っていた。父が母と知り合ったのは、父が東大病院へ入院したためだということだった。どんなプロポーズをしたのか、母は洋服屋の父と結婚して看護婦を止め、学校の保健婦になった。質素な母は、俸給をためていて、結婚したときには300円とかの貯金があったという。

 

母の持ち物で、戦後まで使っていて、我が家の文化度を高めたものが幾つかある。

一つは蓄音機とレコード。蓄音機は、当然、手巻きでポータブルだった。レコードは流行歌と落語。藤山一郎の「影を慕いて」は愛聴歌だった。落語では、柳家金語楼の「落語家の兵隊」、「鮑のし」が記憶にある。子供むけの童謡のレコードが何枚かあった。

 

 母の口癖には、武蔵野の農村で口伝にされてきたのだろうか、群馬では聞かれないものがあり、その口ぶりも含めて、懐かしく耳に残っている。

 腫れ物の治療で「仲たがいするほど押す」のは、今でも臀部にできた腫れ物の痛みを思い起こさせる。

 夕食は、サツマイモの混じった麦飯だったり、冬はほとんどウドン(饂飩)だったりしたが、腹がふくれて眠くなると「腹の皮が突っ張ると目の皮がたるむ」と言っていた。

 何か美味しいものを食べたときの「ああうまかった(馬勝った)、牛負けた」というのも、よく聞いた言葉だ。

 今のように殺虫剤が普及しておらず、せいぜい除虫菊を使った蚊取り線香で蚊を遠ざけ、「ハエ取りリボン」をぶら下げてハエを捕え、ハエ叩きで一匹ずつ撃滅していた戦中・戦後には、秋の虫の声に恵まれていた。何種類かのコオロギ、スイッチョ(馬おい虫)、ガシャガシャ(くつわむし)などが縁の下や裏の畑で合奏していた。そんな虫の声の中で、ツヅレサセコオロギの声を

「肩刺せ、裾刺せ、ケツの毛羽に団子刺せ、昼にゃ餅搗け、茶菓子にゃ酒ケケケケ」

と聞きなすというのは、子供心に不思議な世界を覗かせたものだった。

 

(未完)

 

3.母の貯金

 母は、看護学校を卒業した1930年(昭和5年)4月から結婚した19348月までの4年余の間に東大病院で看護婦として働いた。その間に300円余の貯金をしていたという。大卒の初任給が90円、米10キロが250銭、と東京―大阪の汽車賃が6円、新聞代が月90銭(昭和10年)という時代である。当時の物価を平成19年に換算すると平均して2000倍くらいになるらしい。看護婦の月給は50円足らずだったろう。300円は今の60万円以上の価値があったと思われる。

 父は結婚するまで洋服屋の見習い奉公をしていた。当時の丁稚奉公では一日の労働時間は10時間を越えていただろうし、栄養状態も決して良かったとは思えない。多分そのために、父の健康状態は悪かったという。結婚後、父は独立して洋服屋を営み、職人も雇った。母はそんな父の健康のために、グラブとミットを買って、職人とキャッチボールすることを薦めた。戦後、三角ベースで野球を始めたとき、分不相応な皮製のグラブとミットがあったのは、その名残だったのだ。

 母がショックを受けた最初の事件が、その貯金の行方だったという。結婚後の母は、夜勤のある看護婦を退職して、小学校の養護教員になっていた。しばらくして、母は自分の貯金がゼロになっているのに気が付いてビックリする。 問いただして分かったのは、父が無断で貯金を下ろして、使ってしまったことだった。その金は、株屋の店員に騙されて、持ち逃げされてしまっていたのだった。

父には経済観念に関して奇妙な性癖があって、それは金銭感覚にルーズなことと「外面(そとずら)ばかり気にして内面(うちずら)を気にかけない」ことだった。戦争景気で洋服屋が繁盛しているうちはホロが出なかったが、戦後の混乱期に、家族はこの悪癖に悩まされることになる。その最初の兆候が、この貯金費消事件だったようだ。

 

4.家庭での看護

 敗戦後(1945−)は、食糧事情が極端に悪かった。僕が大学に入学して上京した1954年(昭和29年)頃には、主食統制も緩んできて、外食券がなくても米飯の提供が受けられる食堂が増えていたが、主食が配給制だったことは、平成の飽食時代には想像もできないことだろうが、そういう時代を日本は経てきたのである。

 不十分で偏った栄養摂取のために、特に子供はいろいろな病気にかかった。軽いものではトラホームと皮膚病が一般的だった。回虫などの寄生虫にも悩まされた。

 母が看護婦だったことが、われわれには幸いだった。トラホームにはホウ酸水で洗眼するのが手っ取り早い治療法だったが、そのときに頬に当てて水を受けるブリキ製の容器がわが家にはあった。そのヒンヤリした容器を頬に当てて、母の手で上まぶたをクルッとひっくり返してもらい、急須の口からホウ酸水を注いでもらう安堵感は、懐かしい思い出である。

 オデキ(デキモノあるいは腫れ物)が身体のあちこちにできたが、今の子供には無い現象だろう。お尻や太ももなど、肉の多い部分にできたオデキは大きくなる傾向があって、直径23センチの火山状に腫れ上がり、頂点から膿み始める。この段階から痛みが増してきて、火山の中心部まで膿むまで(12日か)はズキズキと痛む。当時の売薬で腫れ物の特効薬に「たこ吸い」(商品名?)があった。ハマグリの貝殻に入っていた、うす緑色の軟膏で、脱脂綿やガーゼに薄く延ばして腫れ物に当てておくと膿を吸い出してくれた。しかし、母は物理的方法も用いた。「『仲たがいするほど押せ』って言うからね」と言いながら、適度に熟した腫れ物の火山の裾を、両手の指でシッカリ押さえて、膿のネッコ()がポックリと火口から飛び出すまで、手をゆるめない。「仲たがいするほど」痛いのだが、ネッコが出るとオデキは終わりで、あとは赤チンでもつけておけば数日で直った。

 

5.母のエプロン

 目に残っている母の姿は、小さな身体にモンペとシャツを着て、薄手のエプロンをつけていた。冬は、首に薄いスカーフを巻いていた。エプロンの左下には小さなポケットがついている。その中には大したものは入っていなかったのだろうが、ちり紙が入っていたことは確かだ。母の育ちからも、当時の物資供給状態からも、ちり紙は貴重品だったから、同じ一枚のちり紙はポケットから出てはそこに戻って、数回の役目を果たすこともあった。

 子供はよく怪我をした。小刀細工で指を切ったり、ささくれた雨戸や縁側の板の縁でトゲを刺したり、駆け回っていて転んで膝小僧をすりむいたりすることは日常茶飯事だった。そんなとき、止血の一方法として母が使ったのが、エプロンのポケットの底に溜まっているワタボコリ(綿埃)だった。デキモノを「仲たがいするほど」押したり、ワタボコリを止血に使ったりという習慣は、看護婦学校で学んだのではなく、武蔵野の農家のものだったに違いない。戦後の荒廃期は、明治・大正期の農村の知恵の方が有効な時期でもあった。

 

6.静岡での母

1973年の5月に、僕と孝子が静岡に家を建てたとき、土地選びに立ち会ってくれた母は、「角(かど)地がいいんだよ」とアドバイスしてくれた。県の住宅供給公社が藁科川の土手下の田んぼを埋め立てて造成した60戸あまりの谷津住宅団地は、まだ契約地がまばらで、選択の余地があった。公園を前にした大和ハウス受け持ちの区画63坪を買い取り(坪3万円)、480万円のプレハブ住宅を建てるときには、一室を母が自炊もできるように設備した。

藁科川と高さ450メートルの小丘の間の、幅100メートル弱の狭い空間は、確かに関東平野の広漠と比べると息苦しい。母は「息が詰まりそうだ」と言って、この部屋に住むことはついになかったが、年に23回は訪ねてきて、数日を過ごしていった。自宅周辺で撮った何枚かの写真が残っているが、静岡で撮った写真の中には母の穏やかな笑顔が残っている(このサイトの添付写真はその一枚で1984年のもの)。

駅からバスで40分の拙宅に来る途中、バスは市の繁華街をかすめている昭和通を通る。その七間町との交差点に、老舗「煎餅のたかはし」がある。その存在は僕の意識にあったが、母が「あそこに煎餅屋があるね」と言ったときに、すぐには「高橋」が母の旧姓であることとの関連に思いが行かなかった。女性が生まれによって受けた姓を結婚によって失うことの重み、あるいは痛みに鈍感だったことが、今は心に痛い。おみやげにでも、「たかはし」の煎餅を買ってやったら、どんなに喜んだろうか。

バスに乗ったときに、母は、一段高い最後部の席の、左側の窓際に座るのが常だった。眺めのいいあの席は、自立心が強く、環境からの影響にいつも身構え、それを切り開いて生きてきた人の生き方にピッタリだったのだろう。特等席に座るのが当たり前のような育ち方、生き方をしてきて、甘い汁を吸うことを当たり前のようにしている現代の支配者層とは、異質の性分だった。

静岡駅から藁科川に沿って走るバスは、途中で枝分かれして行き先の異なる谷間の部落へ通ずる。この藁科線の主な路線は谷津まで来るが、1割くらいは途中で曲がってしまう。一度、谷津の手前、2キロ位の所で曲がってしまう路線のバスに、間違って乗ってしまった(らしい)ことがあった。静岡駅に着いてから受けた電話で予想していた到着時間に現れない母を心配していたら、1時間くらいたってようやくチャイムが鳴った。聞くと、「途中で降りて歩いてきた」のだと言う。暑い季節で、のどが渇いたろうと言うと、「途中で川の水を飲んだ、綺麗な水だったよ」というのには、驚き、心配した。茶畑の間を流れる細流は、見かけはキレイだが、肥料や殺虫剤などを多用しているので、飲用には適さない。幸い、腹も壊さずに済んだが、バスの行き先を間違えたのは、痴呆が少しずつ進んでいたのだったろう。

「親孝行、したいときには親は無し」という俚諺が身につまされる。幸い、母は妻の孝子と気が合って、静岡に度々来てくつろいでもらったのがせめてもの慰めである。母の最大の不幸は、子供が4人とも男だったことではなかったろうか。一人でも娘がいたら、息子には話せない悩みを打ち明けて、慰めを得ることができたろうに。

今でもわが家の台所で働いている、大きな「大根おろし」がある。それまで使っていた小さな大根おろしを母が見かねて、買ってきてくれたものである。たしかに、小さい方は生姜とワサビに適当で、大根は大きい方でないと能率が悪いのだが、それまで気が付かなかったのは、どうしてなのか?あまり「おろし大根」を食べなかったのだろう。母に一つの満足感を与えることができただろうことは事実なのだが。

人生を切り開いてきた強い性格は、反面、他人に対する好悪を強く意識することでもあったろう。そんな人間関係の中に、自分が好きになれる嫁たちと多くの理解者や支持者を持った母の晩年は幸せだったと言える。

 

7.歌

最近、森進一が歌ってヒットした「おふくろさん」を(一部歌詞を変えて)口ずさむことが多い。母は教訓的なことばを口にするようなことのない人だったが、その背中の語った言葉は、川内康範の歌詞に的確に表されているように思えるのである。

 

「おふくろさん」

川内康範作詞・猪俣公章作曲



おふくろさんよ おふくろさん
空を見上げりゃ 空にある
雨の降る日は 傘になり
お前もいつかは 世の中の
傘になれよと 教えてくれた
あなたの あなたの真実
忘れはしない

おふくろさんよ おふくろさん
花を見つめりゃ 花にある
花のいのちは 短いが
花の心の 潔ぎよさ
強く生きろと 教えてくれた
あなたの あなたの真実
忘れはしない

おふくろさんよ おふくろさん
山を見上げりゃ 山にある
雪が降る夜は ぬくもりを
おまえもいつかは 世の中に
愛をともせと 教えてくれた
あなたの あなたの真実
忘れはしない

 

弟たちと集まったときなどに、よく歌ったものだから、皆がこの歌と私を結びつけて覚えていてくれているらしい。最近、末弟が「吾亦紅(われもこう)」という歌の歌詞を送ってきて、兄貴の「おふくろさん」に匹敵する良い歌だよ、と添えてあった。確かに、「吾亦紅」の歌詞と曲は、心に響く。それでも、私の母の思い出は「おふくろさん」の方に近いようだ。

 

(なお、この歌のメロディーは次のサイトで聞ける。

http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html

 

 

「吾亦紅」

ちあき 哲也 作詞・ 杉本真人 作曲

マッチを擦れば おろしが吹いて 線香がやけに つき難い
 さらさら揺れる 吾亦紅(ワレモコウ)  ふと あなたの 吐息のようで
 盆の休みに 帰れなかった 俺の杜撰(ズサン)さ 嘆いているか

 あなたに あなたに 謝りたくて 仕事に名を借りた ご無沙汰
 あなたに あなたに 謝りたくて 山裾の秋 ひとり逢いにきた
 ただ あなたに 謝りたくて

 小さな町に 嫁いで生きて ここしか知らない 人だった
  
それでも母を 生き切った 俺、あなたが 羨ましいよ
 今はいとこが 住んでる家に 昔みたいに 灯りがともる


 あなたは あなたは 家族も遠く 気強く寂しさを 堪えた
 あなたの あなたの 見せない疵(キズ)が 身に沁みて行く
 やっと手が届く ばか野郎と なじってくれよ

 親のことなど 気遣う暇に 後で恥じない 自分を生きろ
  
あなたの あなたの 形見の言葉 守れた試しさえ ないけれど
 あなたに あなたに 威張ってみたい 来月で俺 離婚するんだよ
 そう、はじめて 自分を生きる


 あなたに あなたに 見ていて欲しい
 髪に白髪が 混じり始めても
 俺、死ぬまで あなたの子供

(なお、この歌のメロディーは次のサイトで聞ける。

http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/waremokoo.htm

さらに、最近はYouTubeでいろいろな歌を聴くことができるようになって、母を歌った唄に感動的なものがあることを知った。「無縁坂」もそんな歌である。

 

「無縁坂」

 

さだ まさし 作詞・作曲

 

母がまだ若い頃 僕の手をひいて
この坂を登る度(たび) いつもため息をついた
ため息をつけば それで済む
(うしろ)だけは見ちゃだめと
笑ってた 白い手は とてもやわらかだった
運がいいとか 悪いとか
人は時々口にするけど
そういうことって確かにあると
あなたを見ててそう思う
忍ぶ 不忍 無縁坂 かみしめる様な
ささやかな 僕の母の人生

いつかしら僕よりも 母は小さくなった
知らぬまに白い手は とても小さくなった
母はすべてを 暦に刻んで
流して来たんだろう
悲しさや苦しさは きっとあったはずなのに
運がいいとか 悪いとか
人は時々口にするけど
めぐる暦は季節の中で
漂いながら過ぎてゆく
忍ぶ 不忍 無縁坂 かみしめる様な
ささやかな 僕の母の人生

 

http://www.youtube.com/watch?v=hKHL_A5kRHM 

 

(未完)