初秋の八ヶ岳 1970.9.30-10.1

 

930

茅野のバスターミナルは駅前から少し諏訪よりに歩いた所にあります。美濃戸口行きの農場線には40分待ち時間があったので、ターミナルの建物内にある食堂(諏訪バス直営)で月見そばを食べました。身延線でMy Baby(カステラ)を平らげたので、それほど食欲がなかったのです。

4-5人いたザック組みも蓼科線やその他の線のバスに乗ってしまい、14:00の美濃戸口行きにはリュックサックを背負ったのは僕だけでした。他には二人の高校生とおじさん、おばさんの4-5人でした。

バスは狭い、曲がりくねった道をくねくねと、蓼科山から編笠岳まで展開した八ヶ岳連峰のふところに向かって、右から回り込むように走ります。阿弥陀岳が魁偉な姿で聳えています。途中で乗った3人のほっぺの赤い小学生も農場で降り、そこから先は一人になりました。清楚な車掌さんも運転席に近い前の方に座り、くつろいでいました。

美濃戸口には数軒の家があります。シーズン中は登山案内所も店開きするらしく、大きな看板を下げた小屋があり、ポスターが遭難防止を呼びかけていました。

指導標に従って左に入ると、間もなく沢に下り、右岸に丸木橋で渡ります。そんなに大きな沢ではなく、車はジャブジャブ水に入って渡るらしく、車輪跡がついていました。落葉松林の中の林道を辿ると、もうウルシが朱に染まっています。マツムシソウ、アザミ、ヤマラッキョウの淡紫色、濃紺色の花が、落葉松の未だ黄味の薄い緑と下草の緑の中で目を引きます。初秋の高原がこんなに豊かな色彩を持っているのに、初めて気がついた思いです。メボソが水晶の鈴を転がすような声で囀り、エナガの群れが鳴き交わしながら移っていきます。

美濃戸のとっつきの家では、大工が入っていました。牛乳の看板が出ていましたが、一軒も開いていません。最後の(三軒目くらいの)家を過ぎるとすぐ、5万図にはありませんが、赤岳鉱泉への路が行者小屋への路から左へ分かれます。この辺から国有林で、高曇りの日の夕方では薄暗い感じのところの多い道です。くすんだ、茶がかった、それでいて柔らかい感じの緑の苔の褥に、濃い緑の葉を敷いたゴゼンタチバナの赤い実が四つ、五つづつ、四、五十も散らばった空間は、はっと胸を打たれる美しさです。ホタルブクロの暗紅色の花が路傍に垂れ下がっていましたが、灯は入っていませんでした。イタドリの白い、細かな花も、薄暗い林の端では人目を引きます。

途中で林道が終り、間もなく沢を左岸に渡ると、径はジグザグな急登となり、原生林の中を赤い目印をたよりに登ります。ほとんど暗いといった感じで、一人ではちょっぴり淋しく、せかされる思いでした。そんな径を30分も登り、沢に近づくと、急に横岳が目の前にかぶさってきます。ここから10分位で小屋でした。赤い屋根が、おーい、ここだよ!と呼んでいるような小屋です。テントが二つありました。

小屋の客は僕だけでした。今が最も暇なときで、6月、9月、11月が息継ぎなのだそうです。この辺まで来ると、気の早いカエデはもう真っ赤に染まって、黒木の間に点々と燃えています。

すぐに風呂に入り、割合まともな夕食を食べました。たった一人の客で、サービスが良かったのかもしれません。

今日くらいの調子なら、明日は硫黄から赤岳まで、楽に行けそうです。(赤岳鉱泉にて、930日)

 

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5:30分に小屋の住人が廊下を通った音で眼が覚めました。昨夜は7:30に電灯を消したのですが、なかなか眠れず、意識がなくなったのは1時過ぎだったでしょう。すぐに身支度して、食事をする建物に行ったのですが、炊事をする女性が起きていないらしく、森閑としていました。山小屋には珍しく女性がいるのです。とても男勝りで、態度から考えて、小屋主の娘さんのようです。あるいは彼女が主人なのかも知れません。寒くて仕方がないので、一度畳んだ布団をまた敷いて横になっていました。

6時ごろ呼ばれて食事をしました。生卵に海苔の佃煮、漬物、皿類は大きく、10人分位盛ってあります。男性が4-5人いましたが、皆無愛想で、泥鰌髭を生やしたアルバイトの青年だけが好意的でした。きっと流れるような客を捌いているうちに、人間に対する感情を変形させてしまった人たちなのでしょう。北アルプスの信州側の山小屋に一般であるような、淋しい小屋番たち。

:45分出発。りんごを剥くのももどかしく、歩きながら皮付きで齧りました。硫黄岳への径を辿ると、木苺が紅い実を沢山つけています。口に入れると酸っぱく、種ばかりのようです。シラビやトウヒの林の中でチーチー鳴く小さな小鳥を見つけました。オスは頭が赤く、メスにはそれがありません。(キクイタダキとあとで確認)

稜線に飛び出したところは赤岩頭で、硫黄岳へはもうすぐです。峰の松目へ行って来ようかと、ちょっと心を惹かれましたが、天候が崩れることを恐れて止めにしました。2500m峰を一つ損したことになりますが、同じ高さでも登り方により面白味が違います。

八ヶ岳を南北アルプスと比べると、スケールの小さいのに驚きます。一気に、本当に一休みもせず、硫黄、横岳を越え、赤岳頂上に登ってしまいました。今日も高曇りで、眺望は良く効きます。頂上小屋でお茶をもらい(100円)、バナナを2本と弁当の握り飯半個を食べました。物凄く塩のついたお握りでした。

阿弥陀岳へ行くため、赤岳から少し降りた所でキレットへの尾根路と分かれます。ガラガラの斜面を50メートルも下ると斜面はゆるくなり、キレットへの捲き路と合わさります。ここにザックを置いて、阿弥陀へ往復してきました。始めの予定では、キレット小屋泊だったのですが、あまり調子よく来てしまったので、権現か編笠までと思い始めました。そして、キレット小屋を後にしてからは、今日中に家に帰れるかもしれないと思い始めまいした。

赤岳小屋ではウドンを売っていたので、キレット小屋でも売っていたら買おうと、楽しみにしていたのですが、残念ながら売っていませんでした。少し空腹を覚えていたので、クラッカーとりんごを食べました。

権現岳の北面は一番スリルがありました。疲れてきたせいもあったのか、長い鉄はしごを登るときは息が切れました。権現小屋は半壊状態で、使用不能ということはキレット小屋で知ったのですが、本当に哀れな状態になって、権現岳のすぐ下(肩)に立っていました。

青年小屋への下りは、疲れていても登りよりは楽で、ドンドン飛ばして予定時間を大幅に短縮しました。小屋でラーメン(200円)を食べ、小淵沢発の列車時刻表を見て、5:30の急行に乗れば帰れそうだと見当をつけました。

この小屋は入った所に薪ストーブがあって、土間の両側にゴザ敷きの寝間のある古典的なつくりで、天井の板が黒く煤けた様子は、本当に落ち着きます。中途半端なところにあるので、宿泊者も少ないでしょうが、だからこそ素朴さが残っているのでしょう。20分休んで、最後の下降を続けました。

編笠から20分位はかなり急でしたが、カモシカのように岩から岩へ跳んで降りました。林道に入ってから最後の1時間半ばかりはちょっとつらく、よほど車を止めようかと思いましたが、がんばりました。腰が痛み、両足の第一指には大きな豆ができたようです。5時に小淵沢に着きました。小屋で4時間は見ておかないといけない、と言われていたのを、2時間45分で下れたのは満足でした。足腰は少しトレーニングすれば、まだまだ使えそうです。

高曇りでしたので、北アルプスの槍・穂高から北方以外の山々は、ほとんど一日中見えていました。もう気温は0度近く、風が冷たく吹いていました。硫黄の登りで2600mあたりから霜柱がでていました。踏みしだかれた霜柱は、ムクイヌの毛のようにうねって白く輝いていました。稜線の午前中の風は強く、冷たく肌を刺しました。日中はちょっと太陽も顔を見せ、そんなときは秋らしい高積雲が白く、澄んだ青空をバックに並んでいました。千丈と駒と北岳が今日ほど大きく見えたのは、中央アルプスのとき以来です。中央アルプスの月の夜に、八ヶ岳の上で繰り広げられた積乱雲の光の乱舞を眺めたことも、駒から空木岳への山脈を前にして思い出します。

南アルプスの左隅には、遠くかすかに阿部奥とおぼしき山々も見えました。金峰山の後ろには国師岳や甲武信岳でしょうか、黒く重なっています。

八ヶ岳はもっと早く登っておくべき山でした。そうしたらもっと面白く登れたでしょう。南や北を歩いた後では、感激は薄いものとなってしまいます。けれどもやはり八ヶ岳はまとまった良い山です。こじんまりとして、岩があり、高山植物があり、中部山岳全体が目に入る、広い裾野の美しい山です。早春や晩秋にはとくに魅力的でしょう。ただ、人が多すぎる弊害を避けないといけません。

コケモモの実がいっぱい、這い松の切れた隙間に真っ赤に散らばっています。この色ではまだ酸味が強く、あまり食欲をそそりません。何の葉か、ガンコウランの緑の上に、朱色の花模様を散りばめていました。(ウラシマツツジと判明)チョウノスケソウかチングルマの綿毛も目にとまりました。

2800mくらいのところで、気の早い連中がやっと化粧を始めた程度でしたが、ダケカンバの黄緑と這い松の濃緑のコントラスト、その間を彩るコケモモの実、ナナカマドの実、朱色の葉(ウラシマツツジ)は、やはり秋を味あわせてくれました。這い松のヤニの匂いも頭と胸にツンときました。少し身体全体に無理をしたようで食欲がありません。残っていたリンゴを身延線で無理に食べました。身延に近くなって、やっと車内は空いてきました。