丹沢三ッ峰

    ―単独行―(1958.9.28

日曜の夜、夕食をすまして食堂から出てくると、月が余りにも美しかった。旅情をかき立てられて丹沢へ行くことにする。一晩中歩いて明日の午前中に帰ってくれば午後の授業に間に合うという計算。

案外準備に時間がかかって、渋沢駅へ降り立ったのは23時近かった。大倉尾根に取り付いてからは、文字通りの単独行、虫の音もまばらに、月の陰が闇を包んでいるといった感じの静けさ。一本松まで行くと熱海、伊東などの灯であろうと思われる回転灯が、じっと見つめていると真っ暗な中にきらめく。富士が月光の中に浮き上がって見える。月の光で見ると、いつでも幻想的に見える。こちらの高度が増せば増すほど、次第に高く見えてくる。

月の光の中をただ黙々と、静けさを噛みしめるような気持ちで歩く。ふと行く手にキラリと光るものがある。あんな所に小屋があったかな、と思いながらいくと、すぐ近くへ行っても小屋らしいものはない。やっと人間のいたのがわかる。アノラックの庇が月光で光ったのだった。二人に挨拶して行きすぎる。心の中に薄い羨望の念を抱きながら。

少し上がったところでパンを食べる。デザートはりんご。下にいる二人を祝福するつもりでロマンチックな歌をうたう。Beautiful Dreamer, Loch Lomond etc.

トレーニング不足が気になっていたが、すこぶる快調に02.43塔(塔ヶ岳)の頂上に立つ。西風が冷たい。小屋へ入っても仕方がないし、印象も余り良くなかったので、寄らないで丹沢山へ急ぐ。桧洞丸へこの道を急いだときに出会ったリスのことを頭に浮かべながら、月の光の射さない木立の中の路を、電灯の光の丸い輪と一緒に行く。ビブラムを履いて来なかったので滑る。三度目の路だったので、前のときの印象がおぼろげに残っている。最初、主脈縦走にここを通ったとき、あそこで腹痛のために止むを得ずビバークしたなあ、などと考えながら丹沢山の最後のゆるいのぼりに着く。小屋の窓からランプの灯が洩れていた。

いざ一眠りと思ってかなり広い山頂の東端の木陰に入り込んで巣を作る。ガサガサ音がするので、息を止めてジーッと見つめる。熊が出たらどうしようと思った。前に大倉でイノシシを捕まえた話を聞き、庭につないであった仔イノシシを見たことを思い出してぞっとする。イノシシだったら!

幸いなことに、そんなに大きいものではなかった。猫位の大きさの動物が二匹、月光の中に姿を現して、小さな円を描いて再び木陰の闇に消えていった。正体はわからなかった。

人の声で眼が覚める。ちょっと寒い。時計を見ると525分。丁度よい頃合と思って、起きることにする。展望台の上に登ってガヤガヤ言っている二人連れは、聞いてみると一緒に渋沢に降りた人間で、今到着した所だった。コッペパンは1個残っていたが、全然食欲をそそらないので、用意のビスケットを食べながら歩く。デザート用の梨が主食となる。歩き始めるころ、丁度太陽が東の空にたなびく雲を茜色に染めて姿を現す。空はどこまでも碧く、秋の面影を秘めた緑が朝露にしっとり包まれ、それに太陽の光と青の色がミックスして、朝独特の情緒をかもしだす。夜歩きの最大の収穫の一つはこれだ。セドの頭を越して急なくだりを足早に降りていくと、左手の斜面でザワザワという音を聞く。見当もつかないままに路を急いで行くと、前方10メートル位のところから、仔鹿が飛び出して、左手の沢に駆け込む。さすがに早い。尻尾の裏の白い毛がピンと上がって印象的だ。瞬時我を忘れてボーっとする。なんだかうれしくなる。シートンの動物記で心に描いていた鹿が(尤もあれはカモシカだけれど)やっと視覚化されて、はっきりした形をとる。あの旗は印象的だ。嬉しさに溢れて再び歩き出す。するとまたまた左手から、今度は牡鹿が立派な角を振りかざしてさっと斜面を駆け下るのが見える。ざーっざーっと枯葉を踏み散らして見えなくなる。

しばらくして、ひゅーっ、ひゅーっという鳴声が沢の方から聞こえる。ああ、鹿の鳴声だな。一番最初に音だけ聞こえたのが雌鹿で、彼女は用心深いから姿を見られるようなヘマはしなかったのだ。僕が猟師だったら仔鹿と牡鹿はもうお陀仏だったはずだ。今の声は牡鹿が雌鹿を呼んでいる声なのだ、などと一人合点して、また嬉しくなる。台風一過の山の路には、昨日歩いた人の足跡が、34人分、はっきりと残っている。

秋の朝日を前から受けて、大山を右手に見ながら、静かな山径を下る。宮ヶ瀬に近くなったところで、急に目の前が開けて、ススキの原に出る。塔ヶ岳から樹林帯を歩きつづけて来た目に、何か新鮮な感じを与える。ススキの穂が風になびいている。

原を抜けて又木々が路の両側に立ち並ぶ所へ来かかると、栗のイガが落ちているのを見つけた。さっそく靴の先で剥く。子供の頃、山へ栗を取りに行った思い出がまざまざと蘇る。青いイガが破れて薄茶色に実ったクリの実が飛び出す。これを剥くと渋に包まれた白い実が出てくる。取立ての実は水分が多いので、渋がきれいに取れる。その実を噛むと甘い、独特の青い味をもった汁が歯の間から流れ出す。山で採った果物の味は、そんな憶い出がなかったとしても貴重なものだ。

尾根の先端に出ると、宮ヶ瀬の部落が目の下に見える。大山のふところから流れ出した川が、ゆっくりとうねっている。帰りのバスの車中からは、台風のために流失しかけた橋が、いくつも見かけられた。

東京に帰りついたのは、11時半ごろだったが、授業には出られなかった。(1958.10.30)