静かな山旅(丹沢)

 

眠れない一夜を過ごした尊仏小屋を後にしたのは3時だった。星の瞬きが木の間を僅かに洩れてきた。懐中電灯の鈍い光の輪が熊笹の間に黒々と径を浮き上がらせる。

3時半、東の空がかなり白ずんでくる。それと同時に、梢の天辺に止まったコマドリが声を振り上げて歌う。合唱に加わる小鳥の数は増え、その一々を聞き分けることはわれわれ素人にはできない。ただ自然が新しい日を祝福する大合唱として、足下に気を配り、呼吸を整えながらぼんやりと耳を傾けるだけだ。

朝の色はなんと素晴らしいのだろう。早乙女のような、嬰児のような。それは何物にも換えがたい尊い一瞬なのだ。東の空にたなびく雲が茜色に染まってくるころ、ウグイスが囀る。4時15分。

谷間をビッシリ埋めているブナの若葉。径の両側から垂れ下がる下草。それらが夜の匠によって見事に化粧している。燃えるような緑を内に秘めて、くすんだ乳色のヴェールに身を隠している。それは土の乙女の肌にもその若い命が迸り、この上なく美しく見せるように、人の心を打たずにはおかない。下草の葉末に宿った露のはかない生命の閃き。真珠の輝きを持つお前を掌に集め、そっと頬を濡らす。朝の霊気をこめて、それは魂を冷やす。

朝の光が雲間から射すとき、それら諸々の精は力を失う。小鳥達の合唱も私の心を惹きつけず、くすんだ緑ももう見られない。青春が再び還らないように、それらは二度と私に戻ってくることはないだろう。

一人歩くものを驚かすのは、人声に近い獣の声だった。「ホイ、ホイ」というように鳴く鳥だ。「オイ、オイ」と高みから呼びかけられているようなか気がして、ギクッとする。

リスともお目通り願った。ちょうど、蛭が岳への登りにかかるころだった。10メートル位先の倒木の上にチョコンと坐ってこちらの単調な歩みを見ている。近づくと23メートル、サッと滑って又見物する。こちらが敵か味方か(味方ということはあり得ないだろうが)判断に迷っている態だったが、そのうちフッと見えなくなってしまう。ふさふさした尾とキョトンとした目、下腹の赤っぽいのが目に残った。

急な斜面の下降では、背のリュックが殊更に感じられる。30センチ位の垂直距離で加速された60キロの物体を何とか止めなければならない。ときどき膝がガクガクしてくる。シートンの「動物記」のカモシカ達だったら星屑のような足場を拾って、まるで魔術師のようにスーッと降りて行けるのに、などと思う。足場が崩れる。身体が横倒しになる。手をつく。やっと止まる。手を擦りむいただけで。

昨夜の不眠が祟って頭がガンガンする。トレーニングをしなかったためか、身体の調子もよくない。そんなとき、一度獲得した高度を下って、また登らなくてはならないと分かったときの辛さは、並大抵のものでない。特に、45度から35度の急斜面での下りは、滑る心配が、そうでない階段になっているようなときには膝を痛める心配がある。

最後の階段と思われる斜面を喘ぎ喘ぎ登っているとき心に浮かんだのは、この階段が終ったら目の前が開け、頂上に立っているんだ、という空想だった。

階段が終っても未だダラダラの登り坂が続いているのを見たときの失望、落胆は、今も実感できるほど深刻だった。最後の力をふりしぼった後で精神的打撃を受けたとき、もう力の泉は涸れ果ててしまう。でも、泣き言を言うわけにはいかない。一人ぼっちなのだから。

桧洞丸。そこは夢に見ていたような静寂境だった。ブナの大木が辺り一面にうっそうと繁り、早緑の若草は柔らかな天然のマットを織り成している。その上に寝そべって、神の御心のままに歌うかのような小鳥達の囀りを聴く。山の歌を唄う。雪山賛歌、エーデルワイス、放浪の歌、…。

歌の種も尽き、声も疲れの色をみせてきたとき、今まで晴れていた空に霧がかかり始める。陽射しが止められ、ジッとしていると寒気を感じる。いよいよ最後の下降にかかる。昨日の午後から10時間歩いて、全然眠れずに5時間横になっていた人間が、固くなりかかったコッペパンに食欲をそそられず、キャラメルときゅうりと水ばかり口にして、もう膝も大分痛めていたら、1600メートルの下降がどんなものか、想像がつくだろう。

始めは期待を裏切って、だらだらと上ったり下ったりに30分ばかり焦らされ、その挙句が35度から45度の、時にはそれ以上の勾配をもつ傾斜を、階段で下らされるのです。おまけに視界が一切霧の中。目に入るのは自分と径と身の回りの数本の木々だけ。「こいつはDescent of Deathだ」などとボヤキながら、同じ傾斜を上るときよりも余計に休みを取って必死に下った。ブナの大木がヒノキに代わったとき、それが唯一の下降証明だった。

なんとか無事に玄倉部落に到着したが、小屋を出てから玄倉につくまで、3時から11時までの8時間は人っ子一人出会わず、自分の声以外は人の声を聞かなかった。

こんな静かな山旅は初めてだった。

                                           (1958.6.23