月の丹沢

 

3月の調子のつもりで,リュックを背負って歩く.どうも足が前に出ないのが変だと思う.大倉部落を過ぎて,初秋の名月を背に,虫の音のしぐれる中を歩む.渡辺君は好調らしく,トットと先に出て見えなくなる.一人静かに登る.きらめく星座,黒くそびえる山々,遠く霞んで意外に低く感じられる富士山.箱根連山が割に高い.町町の灯が己の存在を示す.月光に包まれた一幅の絵.男女5,6人のパ−ティを追い抜く.男子が一人バテてしまって遅れたのだ.塔ケ岳頂上でパンをかじりかけるが食欲がない.ビスケットを水筒の水で流し込む.小屋の主人に道を尋ねて,丹沢山への道を辿る.リュックは渡辺君に背負ってもらう.間もなく嘔吐.道端で野宿する.ウトウトしているうちに,登山者が通る「テントだね.誰か居るんだよ」.

 又歩き出す.富士はさすがに高いとは,高く登れば登るほどそう感じたのだったが,朝日が山肌を赤く照し始めると,その存在が現実のものとなる.赤茶けた肌を露出した姿は,神々しくはなく,平凡なものに成下がってしまう.

 ‘釣るべ落とし’では,遭難者をしのぶ.一つの運命の終点.自然はそれでも滞り無く運行する.

 朝露に指先を濡らしながら,その雫で喉を潤したいなあと思うが,陽の高くなるのを恐れて先を急ぐ.ワタスゲ,ヒメシャジン,その他の名も知らぬ草や花にフと心を止めて,寛ぎを覚える.ウグイスも囀る.高くなるにつれて,虫の音が絶えたことを思い出す.

 蛭(ケ岳)から青根への下り,苦しかった.

 

 道連れは あれど心の 一人旅

                           '56.8.19