補遺

「『常温核融合』の物理学への道」を出版してから、そこに収録していない、在職中に書いたいくつかの文章を発見しました。加藤清江教授の「追悼集」と渋谷元一教授の「退官記念文集」に書いた文章などがそれです。補遺として、ここに収録しておきます。

 

1. 加藤清江先生の闘病生活私記T、U、あとがき(「加藤清江博士追悼集」)

2. 渋谷先生との18年、蛇足(編集後記)(「渋谷元一教授退官記念論文集−回転楕円体−」)

 


 

加藤清江先生の闘病生活私記T

 

 加藤清江先生は、昭和43年(196841日付で工業技術院電気試験所(電子技術総合研究所の前身)のプラズマ研究室主任研究官から静岡大学理学部へ教授として転任されました。

それから退職されるまでの10年間に。先生の持病ともいうべきリュウマチは次第に悪化してゆきました。赴任当初は杖も使わずに自由に歩くことができ、理学部棟の裏の通称イナズマ階段の147段の石段を毎日上り下りして通っていました。トレーニングのつもりだったようですが、かえって関節に負担となり、骨を磨耗させる結果となったようです。階段が登れなくなってからも、平地はかなり自由に歩けたのですが、高所にある理学部に通うために自動車を買い、助手の山際さんに使ってもらって朝夕の送迎を頼んでいました。この時期が5-6年は続いたでしょう。その間に昭和45年秋から半年間休職をとり、伊東の温泉病院に入院して治療に専念されましたが、服用していたステロイドの服用量をできるだけ減らすという目的は達せられませんでした。そうこうするうちに平地の歩行にも困難を覚えるようになり、55歳になるのを待ちかねるように退職なさいました。

昭和53年(197851日付で休職になられてからは、清水市馬走にお買いになったアパートの3階の一室で療養の日々を送られました。当初は、子供の頃に世話になったことのあるお婆さんに付き添ってもらい、わがままも言いたい放題だったのでしょう。高齢のお婆さんに負担が過ぎて、2人そろって栄養失調でダウンしてしまいました。先生は膀胱炎を起こし、危篤状態で市立静岡病院に入院しました。(昭和54年(1979)15)お婆さんは名古屋の自宅に戻りました。

先生が退院するまでに9ヶ月かかりました。その間に430日付で大学を退職しました。入院する前は杖を使ったり、手すりにつかまったりして、何とか一人で歩けたのですが、92日に退院なさるときは、車椅子を使わなければなりませんでした。入院中は歩行訓練にも努められたのですが、一度弱ってしまった筋肉や骨は中々回復しなかったのです。

退院後も歩行訓練は続けておいででした。少なくとも自分の用は自分で足せるようになろうと、車椅子を使えるように部屋を改造し、壁に沿って手摺を置くなどしました。ベッドも電動式に上半部の床が起立するものにしました。

しかし、単身女性の療養生活には、多くの困難がありました。二つの家政婦会、十数人の家政婦に次々とお世話になることになります。金銭目当ての親切、暴力団まがいの脅かしなど、身動きもままならない先生には、つらい生活でした。歩行訓練どころではなかったようです。

ステロイド(副腎皮質ホルモン)の大量服用による副作用もあったのでしょう。蝕まれた先生の身体は、ふたたび自力で立ち上がれるようにはなりませんでした。ベッドの背部をわずかに立てて座る短時間を除いて、殆ど横になったままの生活が続きました。悪質な家政婦に脅されて精神的に動揺した上、看護も十分でなかったのでしょうか、尿毒症を起こし、昭和56年(198146日に再度静岡病院に救急車で入院することになりました。

危険な病状の収まった後も、自宅へ帰ることを嫌がりました。病院でのリハビリテーションに期待していたことと自宅で脅された記憶があったからのようです。ベッドから下りて車椅子に乗ることをまず夢見たのですが、それも実現できませんでした。そしてわずかな心の動揺と、慣れた政婦が休暇で臨時の人に代わったときの処置の悪さのために、9月末に意識を失い、3日間人事不省の状態に陥っていたそうです。幸い、意識を回復してからも数日間は健忘症気味で、思考活動も正常ではありませんでした。

意識が次第に明瞭になるにつれて、苦痛も募っていきました。下半身を動かすことができなくなりました。それに伴って上半身も動かせなくなったのです。床ずれや関節痛が絶え間なく襲うのです。血管は細く、脆くなり、鎮痛剤も注射できなくなりました。苦痛から逃れようとする意思によるものか、内蔵機能の低下によるものか、亡くなられる一週間くらい前から食欲が急になくなりました。手足の末端から次第に感覚がなくなり、口唇はカサカサにひび割れ、痛みだけがいつまでも猛威を振るっていたのです。1027日、心不全でお亡くなりになったときに、その苦痛からもようやく開放されたのでした。よく、ご自分で言われていた、「太く短い人生」の壮烈な最後でした。

 

加藤清江先生の闘病生活私記U

−最後の日々−

 

加藤清江先生は昭和56年(19811027日、午前126分、私立静岡病院の一室で息を引き取られました。59歳でした。リュウマチの治療に用いられた多量のステロイド(副腎皮質ホルモン)の副作用が身体諸器官の機能低下をもたらし、先生の生命を短く燃え尽きさせたのでしょう。直接の死因は心不全でした。

26日の夕方、その日二度目のお見舞いの際に、幽冥境を異にするとも知らずに手帳に記したメモには、こうあります。

加藤先生、手まで感覚がなくなる。8日前から食欲減退、今日は断食を意識的にやって、水も飲まなかったらしい。

毎日メモをつけていたわけではないので、この日は余程異常を感じたようです。この数日のお見舞いの際の会話は、回復の希望を口にしながら、時に死について語るというものでした。

20日前くらいから足が動かせなくなり、それにもかかわらず(あるいは、それ故にでしょうか)そこから襲う苦痛に日夜呻吟しておられたのでした。約1ヶ月の海外出張から帰って106日に初めてお目にかかったとき、病状の悪化を見て取りました。「加藤先生の病状が非常に悪くなっています。お見舞いに行かれるなら12週間のうちにいらしてください」と同僚に告げたことを思い出します。9月の末に3日間意識を失い危篤状態だったとのことでしたが、意識が戻ってからも病状は依然として良くなかったのです。

9月初旬に、しばらくお会いできませんがお元気でいてください、と言ってモスクワへ発った頃までは、先生もご自分の夢を語ってくれたものでした。車椅子で自由に動けるようになるまで回復したら、最新のロボットを使って生活を楽しみ、マイコンを使って仕事をするというのです。「頭を使わないとボケちゃうもん。」先生お得意の甘えた口調も調子の良いときは飛び出しました。車椅子に乗って旅行もなさるつもりだったのです。先年亡くなられた、加藤先生の恩師の湯浅年子先生がパリに居られた時に、パリにおいでなさいと伝言されたのを聞いて、杖を突いてでも行きたいと言われていたのは、ほんの2年前なのです。

しかし、自分で選んだ、先生自身の良く言われていた“太く短い”人生のための薬(ステロイド)は、先生の身体を蝕んで再び立つことを許さなかったようです。若しステロイドを使わなかったら?という問いが可能ならば、先生の人生はどのように細く長かったのかと考えます。戦後の混乱期の無理な生活と不完全な初期治療が、あれほどまでに先生のリュウマチを重いものにしてしまったようです。

1024日の夕方、主治医のO先生にお会いし、加藤先生の余命が短ければ5日、長くても2週間という診断を知らされました。家政婦のYさんもそのことは知っていたのでしょうが、加藤先生には知らせなかったようです。知らされなくても心のどこかで感ずいてはいたのでしょう。植物人間として生きることを恐れ、激しい苦痛から早く逃れようと、意識的に絶食したり、薬を飲まなかったということが時々はあったのです。

26日の午前中伺ったときに、主治医の判断を僕の口から話してしまいました。耐えられそうにない現在の苦痛と、予想される不確定な苦しく長い未来に対する精神的恐怖とを、黙視していられなかったのです。あと何日かの生命ならば、せめて精神的苦痛からは開放してあげたかった。1年も2年も、この苦痛が続くのかと恐れておられたのですから。真剣に聞き終わると、予測された余命の余りの短さに驚かれたようでしたが、荒れた唇を、一語発する毎に舌で潤しながら、しかしはっきりと言われました。「科学者だものね。本当のことを知っても驚かないわよね。」

医師の診断のことを聞くまでもなく、意識されずとも身体では知っていたのでしょう。その2日前には、背骨が痛いから骨を押して欲しいと仰るのです。ちょっと押して差し上げただけでしたが、気持ちが良さそうでした。こんなことは、これまでに一度もなかったことなのでハッとしたのでした。家政婦や看護婦には、かなり前から、早く楽にしてほしいと懇願していたと聞きました。

その夕方は、顔を見るなりこう言われました。「今日は水も飲まなかったの。」昼には、薬を飲むことも拒否されたらしいのです。「薬を飲まなければ早く死ねるかしら」とも言われました。手の感覚も、手首から先は全くなくなったようでした。「こうしても何も感じないの」と、両手をぎごちなく何度も接触させて見せるのです。そして、手首をマッサージして欲しいと仰いました。両手で包んでゆっくり撫でてあげると、「暖かい手ね」と、いつまでも生の感触を味わっておられるようでした。

夕刻の定時検査で血圧を測ろうとしましたが、指針が100に近づくと痛みを訴えて、それ以上空気を入れられず、看護婦が顔を見合わせていました。このことも、手首から先の感覚の喪失も、病状の急変を知らせていたのですが、その時は気づかずに帰ってきてしまいました。いつものように、「また明日きますからね」と言うと、先生もいつものように、「また来てね」と思いなしか元気のない声で言われました。これが最後に聞いた先生の声になってしまいました。

その夜、Yさんからの電話で病院に駆けつけたときは、すでに加藤先生の意識はありませんでした。長く深かった苦痛もすでに意識されず、ただ生命の最後のしるしである呼吸が、長い間を置いて機械的に続いていました。顔色もすでに蒼白でした。当直医が脈のなくなったのを確認したのは、126分でした。意識を失われる瞬間まで話していて差し上げたかったと思います。人は一人で死んでいくものとは思っても、加藤先生は、完全に客観視することのできない存在でありました。生ある間に、先生の心の慰めとなり得たかどうかが気がかりです。

その夜のうちに、軽い一つの物体となってしまった先生の亡骸を、Yさんと二人でアパートにお送りしました。旅立ちの安らかであらせられたろうことを。(静岡大学理学部)

 

あとがき(「追悼集」への)

 追悼文を書いてくださった皆様はじめ、多くの方々のご協力のおかげで、この文集をようやく上梓することができました。改めて御礼を申し上げます。

書名は「加藤清江博士追悼集」としました。博士号を取られたときの先生の喜びを加藤信夫氏から伺い、博士を入れることにしました。

表紙は、加藤先生がお好きだったという緑色にしました。静大に来られてからも緑系統の衣服をよく身に着けておられましたが、山崎さんの話では若いときからの好みだったとのことです。

「遺稿から」に収めた先生の文章は、手紙や手帳などから選んだものです。リュウマチの苦痛とそれと闘いながら生きておられた先生の努力とがひしひしと伝わってくる文章です。

論文は、著者に先生の名の入っている英文および邦文を、それぞれ発表順に収めました。先生の研究が行われた時と場所の特色が伺われます。追悼文と合わせてお読みください。

各時代に先生と接した方々の追悼文は、先生の姿をくっきりと浮かび上がらせてくれます。貴重な時間を割いて筆をとって下さった方々に感謝すると同時に、これだけ多くの方々に筆を取らせた先生の徳を感じます。2度目の命日までには、と考えていた出版ができたことは、先生の人格あってのことと、改めて先生の大きさに思いを致します。この追悼集を謹んでご霊前に捧げ、先生のご冥福を祈ります。(小島)

 

「加藤清江博士追悼集」(1983620日発行)

 


渋谷先生との18年

 

 渋谷先生に初めてお目にかかったのは、1965年の秋に先生が静大に赴任された時である。1959年の秋に公務員試験を受けたとき、「スピン波とはどのようなものか」と面接で質問されたのが先生だったとのことで、それが出会い初めなのかもしれないが、こちらがそれと意識していなかったので、出会いとは言えないだろう。先生の噂はそれまでにも武藤研の人達などから聞いていたが、電気試験所の物理部長さんの偉さも知らず、半導体物理学におけるお仕事の価値も知らなかったので、予め描いていたイメージは不完全なものであった。皮肉なことに、半年先に赴任していたため、教授会で大先生の業績紹介をする光栄な役目をおおせつかることになった。

着任当時の先生は、半年後に赴任されたN教授らとの雲の上の活動に忙しかったようで、中々親しい関係を持つまでに至らなかったが、数年して理学部の4年生が生まれ、卒業演習を二人でやるようになった。テキストには、Bethe, Reyleigh, Shoenberg, London, Kittel, Feynmanなどを使った。ゼミの学生をつれて先生と一緒に登った十枚山、七面山、山伏岳などの思い出も楽しい。その時々の学生たちの表情が生き生きと蘇るのも、教師としての仕合せの一つであろうか。大学紛争をやり過ごし、学部長を二期務められ、最近はShibuya軌道関数を駆使して旺盛に計算をなさるなど、傍目には模範的な大学教授と映るが、ご本人はどうお考えなのだろうか。

昨シーズンは静岡県教職員サッカー大会で先生を監督に頂く静大蹴球倶楽部が優勝し、個人トロフィーを獲得できたことは、先生への餞の一つとなった。最近は、山頂を極める喜びからも遠ざかり、ボールを蹴ることも稀になられたようであるが、背番号63は63歳からの出発であると心機一転なさって、文武両道に一層励んでいただきたいものである。何時までも精神と身体の健全さを保たれんことを。末筆ながら、御夫人にも種々お世話になりました。有難うございました。(p. 163)

 

蛇足(「退官記念論文集」編集後記)

多くの方々から感想文をお送りいただき、ここに渋谷先生の退官を記念する論文・寄稿文集を刊行できたことは、編集委員の一人としてとても嬉しいことです。先生のご活躍なさった領域がこれですべて尽くされているわけではありませんが、写真、論文、先生の文章、寄稿文を通して在任中の先生のお姿がいつでも甦り私達を励ましてくれるよすがとなるものと思います。なお、2月18日にB208室において先生の最終講義が行われ、立錐の余地もないほど部屋にあふれた聴衆を前にして、2時間にわたって“私の物理学”を話されました。ページ数の関係でこの集には収められませんでしたが、テープが物理教室にありますので、どうぞご利用ください。(H.K.)(p.188)

 

「渋谷元一教授退官記念論文集−回転楕円体−」(1984年3月31日刊)

 

追録、

訃報

渋谷元一氏(しぶや・もといち=静岡大学名誉教授、元工業技術院電子技術総合研究所物理部長、住友金属鉱山電子材料研究所技術顧問)17日(1986、5月)午後9時28分、急性心筋炎のため、東京港区の虎ノ門病院で死去、65歳。葬儀・告別式は20日正午、練馬区小竹町1の61の江古田斎場で。自宅は千代田区麹町5の5.喪主は妻美登里さん。専攻は物理学。(「毎日新聞」、「朝日新聞」)