あとがき(第2版への)

2月10日の最終講義から退職間際の原稿締め切りまでの短い期間に纏めたこの文集の初版(1999年3月22日刊)には、多くの誤植と資料の欠落がありました。ワープロミスを含め、校正の不備のために、約10箇所の誤植が残ったことは、時間的制約のためとはいえ、お読みいただいた方々に大変な失礼をいたしました。深くお詫びいたします。

収録すべき資料では、1997年6月に行われた伏見康治博士の講演会「21世への宿題―未解決な研究課題の一つ〈核融合〉」に際して聴衆に配布した伏見先生の紹介文、1993年9月の理学部公開講座「自然のしくみ―物理の世界―」のテキストに書いた「ミクロの世界」などがあります。

また、初版をお読みくださった方々の中の何人かの方から、サッカーと音楽についての文章がないのが淋しい、とのお言葉をいただきました。確かに、大学時代から連綿と続いている私とコーラスおよびドイツ歌曲との関係は、私の生活のアクセントとなってきました。また、1960年代後半から始めたサッカーボールとの付き合いは、1979年5月の「静岡大学教職員蹴球倶楽部」の創立と1983年の静岡県教職員サッカー大会での優勝を含む1998年までの私のスポーツ生活の中心を占め、肉体的な健康の維持と仲間との交流を通じての精神的な安定要因となっていたのです。

 残念なことに、これらの音楽とサッカーについては、全くと言っていいほど、文章として残されていません。そこで、私の教育・研究を支えた、この重要な要素について、少し長くなりますがここで回想したいと思います。

 

音楽について

私の小学生(国民学校生)のころは、4年生までは軍歌一色の音楽生活でした。今でも「少国民」用の軍歌のいくつかを脳が憶えていて、ふとメロディが歌詞とともに口の端に上ってしまうことがチョクチョクあります。戦後はより芸術性の高い歌が一斉に巷に溢れ、少女歌手の川田正子、孝子姉妹の声に心をときめかせ、歌のおばさん、安西愛子の「森の水車」など、ラジオ歌謡が口ずさめるようになりました。その頃のことですが、歌の好きだった母が、「川田正子のような歌手になったらどうだい」と言った言葉が妙に懐かしく耳に残っています。後の群響(群馬交響楽団)が巡回演奏に訪れたおぼろな記憶が、後に映画「ここに泉あり」を見て、旧友と語り合ったときに蘇りました。

恵まれない音楽生活の中で、細々と続いていた歌との付き合いは、高校時代の3年間に途切れました。当時から男女別学が主流だった群馬県ですから、館林高校はもちろん男子校でした。そして、音楽の専任教師がいないために、普通科の芸術科目は美術と書道しか履修できないことになっていました。書道を2年間やったにしては、(あるいは、やったために)私の書体のなんと整わないことでしょう。3年になる年の3月でしたか、20名ほどの希望者が音楽履修を教頭の贄田先生(漢文)に要求しましたが、女子高からの講師が今まで以上には時間をとれず、専任を雇う予算も無いということで、実現しませんでした。

高校時代のこのブランクにも拘わらず、大学生になってからは、音楽との付き合いがずっと続いています。

まず、学生会館にできた「うたう会」で、中央合唱団員の熊沢さん(?)の指導の下に、ロシア民謡、労働歌、日本民謡などを主にした「青年歌集」の歌を合唱しました。高校時代の訓練の欠如は歌唱力に甚大な影響を与え、私には音符を音にすることができなかったのです。その点で、中央合唱団への加入を勧誘された、同級の太田(ワ)君には一目も二目も置かざるをえませんでした。先年、戸隠山に登ったときに、宿坊「戸隠山荘」の主となっている落合宏さんを訪ねて懐旧談を交しました。話の中で、「うたう会」の創立者が國學院大学の学生だった落合さんで、熊沢さんを呼んできたのも彼だったことが、おぼろな記憶の中から浮かんできました。会館祭には、理科大分会で「コレガウタカグループ(これが歌か?グループ)」を結成し、「花嫁人形」や「七つの子」を歌ったのも懐かしい思い出です。

理科大学の二部合唱部(クラブか)にも入っていました。こちらは混声合唱団で、ハーモニーを重視した練習を、週に一回やっていました。水曜日か土曜日かが授業時間の少ない日で、その放課後8時ごろから約1時間の練習をしたと記憶しています。指導者は、芸大の男子学生と、彼が(愛想を尽かして?)止めた後は中学校の女性教諭を頼みました。学友の新倉君が骨を折ってくれたものでした。

その頃は「うたごえ喫茶」や「音楽喫茶」の全盛時代でもありました。新宿にはとくに多くの「うたごえ喫茶」があり、「カチューシャ」、「灯」、「牧場」などで大勢の青年達と声を合わせて、革命歌や民謡などを歌い、2,3時間の心の昂揚を楽しんだものでした。(最近、「カチューシャ」と「灯」が新宿に復活し、人気を呼んでいます。」

「音楽喫茶」の思い出では、神田の「エンプレス」と池袋の「ランブル」に特別なものがあります。3年になって一部に転部してから知り合った原建二君が大のクラシックファンで、彼に誘われて「音楽喫茶」に行くようになりました。彼の下宿に近かった池袋の「ランブル」で過ごした、十回以上に及ぶ日曜の午後の5,6時間が、私のクラシック音楽入門でした。教養科目の「音楽」で野村光一氏(当時60歳だった筈)の講義+音楽鑑賞を受けたのも、強い刺激になっていました。野村光一先生の聞かせてくれた曲では、フルトヴェングラー指揮、バイロイト音楽祭管弦楽団および合唱団演奏のベートーヴェン「交響曲第9番」が圧巻でした。理科大の三角校舎の4階にあった大講堂で響き渡ったベートーヴェンは、若い私の心を揺すぶりました。それからの数年間、私は熱狂的なベートーヴェンファンで、「音楽喫茶」でのリクエスト曲の大部分を占めていました。30台に差し掛かってからは、モーツアルトの音とメロディに魅せられ、現在に及んでいます。

静岡大学へ赴任する頃から、ドイツ歌曲、とくに「冬の旅」に魅せられ、G.ヒュッシュのレコードを聴いて歌いやすい曲から憶え始めました。不思議なことに、憶えにくい何曲かを除いて、次第に歌詞が次から次へと出てくるようになりました。ユーカラやイーリアスが口伝えに伝承されていたというのが実感される経験でした。節をつけて、ある程度の意味の繋がりのある言葉を反復していると、記憶するという意識なしに、全体が次々に再現できるようになるものです。

静岡の老舗のビアホール「ニューキラク」でビールを飲むようになったキッカケは、法経短大から東京の立正大学に転勤された浅田光輝氏の歓送会がそこで開かれたことだったでしょうか。そこで「パパさんコーラス」の団員募集のポスターを見て、毎週月曜日の7時から2時間の練習に加わりました。このコーラスの創立20周年記念公演の行われた1983年まで約3年間、練習に加わり、公演にも参加しました。約30人の団員との交流も楽しいものでしたが、毎回約30分の発声練習は私の声にとって非常に有益だったようです。

常温核融合の研究に、心と時間を取られて休部してからもう10年になります。その間、「冬の旅」の方は全曲の歌詞を憶え、CDで D.フィッシャウ・ディスカウ、H.プライ、P.シュラィアーなどを聴きながら唱和するようになりました。問題は伴奏者を見つけることです。私にふさわしい伴奏者を探して1〜2年練習すれば、ビール券付きの招待状でお客さんを招いて「冬の旅」の独唱会が開けるのではないかと思っています。

 

サッカーについて

私の学んだ館林高校は、結構スポーツが盛んでした。レスリングでは全国に名を馳せ、オリンピックの金メダリストも出しています。軟式テニスでは、国体の県代表を度々出していました。サッカーも県内では強い方で、私が1年のときには、サッカー部が東北地方へ練習ツアーに行ったほどでした。後に、学生会館で隣室になった金子新之君は、秋田高校のサッカー部の主将を務めたスポーツマンでしたが、館林高校の遠征チームと親善試合をして勝ったと言っていました。(この金子君が、1964年12月31日に荒川岳で遭難したことは、この集の「夏の思い出」に書かれています。)

したがって、館高の体育の時間には、当然サッカーもやりました。体育教官のネジさん(飯島先生)の思い出に、こんな一コマがあります。雪の降った翌日、畑や庭には一面に雪が10cm位積っており、今日は当然屋内での種目か講義と思っていた僕らは、ネジさんの一言で雪の上に並ばされました。運動靴を持ってこなかったものは裸足で、サッカーが始まったのです。旧制中学の名残のスパルタ式気風の残っていた当時は、多少の不満は呟いても雪中で裸足のサッカー位はやったのです。上に述べた音楽の授業が普通科にはなかったのも、そんな気風の名残だったのでしょう。

この僅かな経験から11年たって、サッカーはもう一度私の生活に入ってきて、一生の付き合いをはじめます。静大に就職して半年、1965年の10月に渋谷元一教授が電気試験所から転任して来られました。渋谷さんは、東京文理大付属中学と旧制一高のサッカー部で鍛えられたスポーツマンでした。赴任してくるとすぐに、当時大岩にあったキャンパスのグランドで、渋谷さんは学生に混じってボールを蹴り始めました。私は軟式テニスを中学時代以来続けていたので、教職員のクラブにも入ったのですが、ボール一つでやれる気軽さと人数を選ばない自由さに惹かれて、次第にサッカーの虜になっていきました。

2年後(1967年)に、理学部の一期生が3年に進級するときになって、我々も大谷の新しいキャンパスに移りました。昼休みや放課後に大谷のグランドでボールを蹴っているうちに、サッカー部員と知り合うようになりました。学生の有志や物理学科のサッカー部員も交えて、他学科との交流試合をやったりするようになりました。遅れて移転してきた農学部の教職員、学生は、当時からサッカー場の常連で、昼休みに一緒にボールを蹴ったものでした。

丸山(健)さんが学長だった頃(1979年)でしたが、理学部の渋谷(元一)さん、草間(慶一)さん、長谷川(圀彦)さん、私、農学部の加藤(芳朗)さん、糠谷(明)さん、人文学部の上杉(忍)さん、教養部の松井(恒二)さん、教育学部の難波(邦雄)さん、事務官の増田(幸直)さん、古橋(恵吾)さんなどをメンバーに、「静岡大学教職員蹴球倶楽部」が発足しました。伝統のある静岡県教職員サッカー大会に参加し、最初から上位に進出し、1983年の大会では、ついに優勝を勝ち取りました。渋谷さんの退官(1984年4月)に合わせた快挙でしたが、当時の中心メンバーはみな若く、加藤さんも現役だったので、当然といえば当然の結果でした。

それ以来、大会には毎年参加していますが、メンバーの高齢化、大会運営形態の変化、静大チームの2チーム化などによって、その後は一度も優勝することができませんでした。それはそれで良かったのだと思います。構成母体の大きな静大が何度も優勝したのでは、不公平感が噴出したでしょう。優勝したときに、大会役員の一人から「来年も優勝ですね」と言われましたが、「優勝は一度すれば十分ですよ」と答えました。当時から結果だけを考えていてはいけない、との配慮をしていたつもりです。

静岡県教職員サッカー大会は、1998年度で30回目を迎えたとのことで、その記念に永年参加選手に記念牌「はっきり言って現役で賞」が贈られました。わが部員の皆さんの暖かい配慮で、静大蹴球倶楽部からの有資格者として私が推薦されました。1998年12月13日に、草薙の県営陸上運動場で25分1本の記念試合に出場し、氏名日付入りの記念牌を頂きました。

それ以来、約4ヶ月のあいだ、悪性インフルエンザと退職間際の多忙にまぎれてサッカー靴を履いていませんが、そろそろ身辺も落ち着いてきたので、ボール蹴りを再開しようかと考えているところです。

1999年4月21日)