26. 体と心

合気道部創部三十周年に際して―

早いもので、私が合気道部の部長を引き受けてから、もう15年になります。就任当時の部の主将は十五期の山田秀明君で、同期には高林清和君、竹中一敏君などがおり、道場内外に元気な声が飛び交っていました。当時は私も若くて、道場には毎週一回は顔を出して体を動かしていたものでした。

人間が体(からだ)を持っているのは当たり前のことで、誰も不思議に思いません。また、人間に心(こころ)があることも、当たり前と思われることです。ところで、心と体は別なものなのでしょうか。一つの金貨の表と裏のように、小さな金貨の表が小さければ裏も小さいように、厚い金貨の表と裏は薄い金貨の表と裏より離れているように、心と体は表裏一体となって、相関しあっているのでしょうか。

体というものは、一見わかりきったもののようです。しかし、自分の体と外界の境目をどこにおいたらよいのかは、それほど自明なことではないようです。肺に吸い込んだ空気は体の一部になっているのでしょうか。肺で赤血球のヘモグロビンに捕らえられた酸素分子は体の一部になったのでしょうか。血液に混じって運ばれていって体細胞の一部になって初めて体の一部になるのでしょうか。

一見、まぎれもなく外界と区別された存在である動物の体にも、外界との間に、静的に、あるいは動的に不分明な関係があることに気がつくのです。「君が何を食べているかを言ってみたまえ。君がどんな人間かを言ってあげよう」と言ったフランス人もいたようです。

体は目に見え、触って感じることができるのに、心は目で見えません。だからといって、人間に心があることを否定することはできないでしょう。心は違った仕方で、時間をかけて知ることができます。しかし、それだけに、心を知ることは曖昧さが付きまといます。そして、体と心の関係についても、人によって、社会によって、考え方に差ができます。

道具や機械に心がないことは、誰でもが認めるでしょう。(SF映画の名作「2001年宇宙の旅」のコンピュータ、ハル9000は、心を持ったかのような行動をしますが、機械に自律性を与える試みは、極めて危険な実験です。)機械文明とも呼ばれる現代の高度工業化・情報化社会は、人間の心を抹殺する社会であるかのように、あるいは心を狂わす社会であるかのように見えます。

体でさえ外界との境目が分明でないとすると、心と外界との境目では、その意味そのものが問われる関係にあるのではないでしょうか。西欧文明が人間を外界から切り離す可能性を前提にした上で成り立っていることは、その根本に欠陥を蔵していると言えそうです。しかし、パラダイス・ロストの認識の延長線上に地球生態系の破壊しか見ないとしたら、それは一種の傲慢でしょう。

道という考え方は、東洋に古くからあるもので、天道と中国で呼ばれる自然の道理を意味するものが、その古い形態のようです。そこには、人間を含む大自然の運行の本然を捉えようという意志が現れています。個々の事実の表わす現象の奥底に感知される真理こそが、最も基本的で、尊重されねばならない、ということではないでしょうか。

合気道は、日本さらには遠く唐(中国)、天竺(インド)に溯る東洋的な人間観・自然観に根差した武道に起源を持つ自己鍛練体系であると言えるでしょう。自己とは、ここでは他己との境界の不分明な存在なのです。地球が「開かれた有限生態系」であるという視点を前提に生きることを宿命づけられた現代は、機械文明を内包したより大きな文明を成立させる必然性、あるいは必要性に迫られていると言えます。合気道を通じて微少な個のなかに広大な自然を感じ取ることは、現代の知性に裏打ちされたとき、大きな飛躍を可能とするでしょう。

創部以来三十年の間にここを通り過ぎていった諸君の更なる研鑚を期待します。現在、そして将来の部員諸君が自覚的な活動に努めることを希望します。

静岡大学合気道部部長 小島英夫

(「合気道部創部三十周年記念誌」 1998.2)