24. 理学部講演会

伏見康治 元日本学術会議会長

21 世紀への宿題―未解決の研究課題の一つ〈核融合〉」

 1997. 6. 26. 13:00 15:00 大学会館ホールにて

 

表記講演会が 250 名余の聴衆を集めて開かれた。講師の伏見博士は6月 29 日に満 88 才になられる明治9年生まれの大学者である。その業績は物理学者には衆知であるが、一般には学術会議会長(1978年)、参議院議員(1983年)としての博士の方が知られているだろう。博士は日本の原子力行政に最初期から関係されており、日本の核融合研究の推進役を果たしてこられ、プラズマ研究所(現核融合科学研究所)の初代所長を勤められた。

専門分野における優れた業績とそれに裏付けられた行政的手腕は、明晰な頭脳と絵画も描かれるバランス感覚の良さの結果であり、余人には真似のできない博士の特性であろう。今回の講演においても、博士のこの特徴は遺憾なく発揮され、聴衆に深い感銘を与えた。特に、博士が前大戦の一因であった当時のエネルギー危機(石油禁輸)に思いを致して核融合研究に取り組まれたとの述懐は、現代にも通じる問題意識であり、博士の研究の根底に有るヒューマニズムを伺わせた。

プラズマ核融合の見通しが明瞭でない状況にあって、常温核融合など他の可能性にも真剣に取り組むべきことを科学者として当然の課題と捉らえておられる精神的柔軟さは、20才は若く見られる肉体的健康の原因なのか、結果なのか。核融合研究の歴史を要領よく解説され、現状を分析し、さらに人生の大先達としてのお手本を示して頂いた、近来稀な素晴らしい講演であった。末筆ながら博士の一層のご活躍を願い、健康をお祈りする次第である。(講演会の報告原稿)

 (『学報』 408, 4, 1997)

 

コメント

伏見康治先生にお願いして、理学部講演会に来て頂きましたが、そのお元気な様子には感激しました。講演後、山際啓一郎さんと共に芹沢美術館にご案内し、エッシャーがお好きで、ご夫人と共著の折り紙の本もある先生の、美的センスに溢れた解説を伺いました。夜は「喜楽」で数人の関係者と先生を囲む会を持ち、核融合研究に向かわれた動機、参議院議員になられながら一期で止められたお気持ちなど、親しく先生の人生観を吐露していただき、参会者一同得がたい経験をいたしました。なお、上記原稿は、『学報』の記事としての体裁を整えるために、編集に際して改訂されて掲載されました。(1999. 3. 15

 

追記(2008.5.10

去る5月8日に、伏見康治先生が天寿を全うされ、逝去されました。心からご冥福をお祈りいたします。下に、新聞に掲載された訃報を引用します。

 

伏見康治氏が死去 

元学術会議会長、参議院議員

200859日 1508

 日本学術会議会長を務めた物理学者で大阪大、名古屋大名誉教授の伏見康治氏が8日午後817分、老衰のため横浜市港北区の三菱重工大倉山病院で死去した。98歳。名古屋市出身。葬儀・告別式は13日午前11時半から、横浜市港北区菊名、妙蓮寺で。喪主は長女康子さん。

 1933年に東京帝国大学物理学科を卒業。大阪大教授、名古屋大教授、名古屋大プラズマ研究所(現・自然科学研究機構核融合科学研究所)初代所長などを努め、77年から82年まで日本学術会議会長。83年の参院選比例区に公明党・国民会議から立候補し当選、1期努めた。

 戦後早くから原子力の平和利用を訴え、52年、学術会議に総会で故・茅誠司博士とともに「原子力研究を始めるべきだ」と提案したが、激しい批判を浴びた。

 54年には政府・自民党が原詩労建造予算を打ち出したことに衝撃を受け、「自主、民主、公開」の3原則を掲げた「原子力憲章草案」を書き上げ学術会議に背移出。同会議はこの3原則を守るよう政府に申し入れ、55年に公布された原子力基本法に盛り込まれた。(共同)