22. 事実の軽み?

かなり前から気になっていたことだが、科学者、とくに物理学者の事実離れがかなり進行しているのではないかと思わせられる事例に何度か出会った。最近、古本屋で見つけてきた一書と『科学・社会・人間』(SSH) No.62 の中に、その典型的な例を殆ど同時に見つけたので紹介し、一考を煩わせたい。いずれも、文中の一節を省略せずに引用するので、多少煩雑と思われるかもしれないが、文脈を損なうことはないはずである。(なお、太字は引用者による。)

 

1.近藤駿介「21 世紀の終わりには、原子力は人類普遍の技術になる」(『日本の論点』368ページ、文芸春秋、1992.

“エネルギーの供給安定性は資源の賦存状態に依存するところが大きい。現在の知見では、経済的なウラン資源は約500万トンで、これを現在実用化されている軽水炉で使用すれば、資源規模は石油と同程度になる。しかし、高速増殖炉が利用できれば資源利用効率が約100倍になるため、この資源だけでも石炭並の資源規模になる。その上、高速増殖炉では、現在は経済的でないとされる低品位の、しかし大量にあるウラン資源もエネルギー・コストをあまり変えることなく利用できる。したがって、すでに実用規模の高速増殖炉が世界で数基建設運転されていることを念頭におけば、原子力は資源的には長期にわたって大規模に利用することが可能であると言え、この点では太陽エネルギーと同様の性格を持つと考えてよい。”

この文章が書かれた1992年の時点に、世界で数基の高速増殖炉が実用運転されていたというのは、明らかに間違った記述であろう。もっともらしい事実の羅列の中に挿入されたこの一文は、高速増殖炉の未来がバラ色であることを匂わせて、エネルギ−源としての原子力発電に資源面での不安がないことをアピールするためのもの以外のなにものでもない。

1997年の9月30日に、原子力委員会「高速増殖炉懇談会」は今後の高速増殖炉の開発のあり方についての報告書案を審議して、その実用化について「時期を含め、安全性と経済性を追求しつつ、柔軟に対応する」と明記しているという(毎日新聞、10 月1日朝刊)。従来の「2003年ごろまでに実用化する」としていた方針のこの柔軟化は、上記引用文の著者の記述が、事実に基づかず、それゆえに見通しを誤った、読者に不正確な情報を提供したものであることを、事実で証明したことになるだろう。

どのような意図で、事実を枉げて(と思われる)上のような文章を書いたのだろうか。著者なりに社会的責任を感じて書いた文章ではあろうが、事実に基づかない意見は、読者の判断を誤らせ、最適な決定を下すことを妨げるものである。科学的な議論において、最も避けなくてはならないのが、事実の無視と歪曲とである。「事実の重み」という言葉は死語になってしまい、重みの反対語としての軽みと事実とを結びつけるべきなのであろうか。

 

2.河宮信郎「21世紀の科学技術と研究者の社会的責任」『科学・社会・人間』(SSH)  62, 24, 1997.

“じつはこの研究計画の発端は 92年7月に開かれた通産省主催の「常温核融合研究会」である。この場に、研究詐欺がばれてユタを逃れ、姿をくらましたと思われていたポンズとフライシュマンが招かれていた。この会議の後、通産省と資源エネルギー庁が発表したのが総額数十億円にのぼる常温核融合の研究プロジェクトであった。これを主に請け負う団体が「新水素エネルギー検討会」である(なぜか常温核融合の名は伏せられている)。この頃、ポンズとフライシュマンが新しい雇い主であるテクノバ(トヨタの子会社の研究機関)のために、ユタ大が維持している「常温核融合特許」の買収仲介に動いていた、というのだから念が入っている[3、p.597]。あえて憶測すると、あのトヨタ(技術面では先進性よりも中庸を重んじてきた)が「常温核融合研究」を買い、リスク分散のために通産省を道連れにしたのであろうか。いずれにせよ、これは「水素エネルギー」の研究ではなく、常温核融合研究の世を忍ぶ(欺く)姿であるようだ。”

まず、第一に問題なのは、この文章で著者自身が混乱に陥っており、読者に誤解を与えるだろうと思われる、水素エネルギーと新水素エネルギーの混同である。

現在一般に「水素エネルギー」と呼ばれているのは、水素 H2 を酸素と化合させたときに生ずるエネルギーであり、それを利用する技術であることは、資源エネルギー庁の報告や成書にも明らかなことである。他方、「新水素エネルギー」はそれとは全く別ものである。この研究計画に直接タッチしていない筆者としては、個人的な関係はなく、命名の経緯も知らないが、常温核融合 Cold Fusion と一般に呼ばれている現象がどのような核反応によるものかが明確になされていない現状を踏まえて、プロジェクト名に「常温核融合」とつけるのを避けて「新水素エネルギー」としたものであろう。著者のこの混同は、知らずにしたにしろ、知っていてにしろ、余りにも読者にたいして失礼なものである。

つぎに、ポンズとフライシュマンの研究詐欺という表現が使われていることを問題にしたい。著者はどのような事実に基づいてそのような断定を下したのだろうか。引用文献3の著者トーブスを信用し、フライシュマン達を信用しないでの断定と思われるが、なぜそうなのか。毎日新聞書評欄(1997.7.13)の海部宣男、朝日新聞「論説委員室から」欄の〈真〉署名文(1997.9.9.)などにも、事実を踏まえないで、孫引きで済ますこの種のいい加減な文章が見られる。しかし、少なくとも科学者を自任する著者による、社会的責任を主題にした文章に、同種の事実の軽視が見られるのは、なんともやりきれないのである。商業主義丸出しで書かれた文章の受け売りで、研究者の社会的責任が果たせるとでも思っているのだろうか。

 

付言すれば、筆者はこの8年間常温核融合の研究に携わっており、1989年以来、8年間にわたって蓄積された多量の実験データの解析を行ってきた。その結果、1989年に発表された、フライシュマン達の過剰熱を主とした実験データとジョーンズ達の中性子の実験デ−タを含め、これまでに測定されている過剰熱、トリチウム、ヘリウム、中性子の実験デ−タが、一つのモデルをつかって統一的に理解できることを明らかにした。その成果を 1997年 3月に一書*{1}にまとめて公表している。フライシュマン達の実験結果は、多くの研究者によって定性的に再現されている。彼らの実験デ−タを「研究詐欺」などと呼ぶには、それなりの根拠を示すべきである。

科学は時にパラダイムの転換を含む急激な発展をする。科学者の発言は、事実に基づいた責任あるものであって欲しい。

事実とは何かを一般的に論ずることは、この場合あまり意味があるとは思えない。しかし、科学的事実を確定して眞実を明らかにするとともに、それをいろいろな意味で社会に還元するように努めることは、科学者の社会的責任の基本原則の一つではないだろうか。事実を軽んずる風潮に与することは、科学者としては反社会的行為でさえあるだろう。専門領域にも、社会生活にも virtual reality が肥大化しつつある現代において、社会的責任を考えることの難しさも大きくなってきているようだ。

なお、上の 2. の引用文で“数十億円”と表現されている通産省の新水素エネルギー研究プロジェクトの研究費は、5年間で23億円であった、と打ち切りを報じた新聞記事に記されている(日本経済新聞 1997. 8. 29)。金額の多寡はたいした問題ではないが、補足しておく。

*参照文献

1) 小島英夫、『常温核融合の発見―固体-核物理学の展開と 21 世紀のエネルギー』、大竹出版、1997.

         (『科学・社会・人間』63, 28, 1997)