21. 教養とは何だろう?

「新新カリ」をめぐって、一般教育(教養教育)についての議論が、このところ盛んである。専門教育と教養教育の関係はいかに有機的であるべきかとか、いかなるカリキュラムを考えるべきか、という議論が多い。

情報化社会に入って、いろいろなメディアを通じて教養を高める機会が多い世の中である。「静岡大学における教養教育」を考えるに際して、教養とは何であるかを、頭の片隅にでも置いて議論する必要があるのではないだろうか。体験を踏まえて、少し具体的に考えてみたい。

戦前の、少数エリ−トを集めた(旧制)高等学校・大学と技術者養成機関的な各種高等専門学校、という複線型教育体制を改めるに際して、幅広い知識と自らを問う知性とを兼ね備えた人間が社会の中核を担う必要が痛感されたのではないだろうか。その結果、1949 年に新制大学が発足して、旧制高校の理念を大幅に盛り込んだと思われる教養部が静岡大学にもつくられ、それ以来、前期2年の教養教育が行われてきた。しかし、現実に行われていた「教養教育」は、教養の名に値したものだっただろうか。

抽象的議論では話が空回りするので、一例を挙げよう。高校の物理が受験物理化して、文科系志望の高校生から敬遠されているのは、周知のことであろう(物理を履修する者は変り者、と言われるそうである)。高校では物理を履修しなかったが、その大切さは知っている文科系の学生が、物理学を学びたいと思って「物理学」を選択したとする。そのとき、物理学科の学生でさえ大学で理解するようになる運動方程式を使って、最初の授業を始めたとしたら、それを「教養教育」と言えるだろうか。他の教科では、そのような欠陥はなかっただろうか。また、最近新設された、3年生全員に必修させる「総合科目」は、専門科目の寄せ集めにならない保証が、教師の側にあるだろうか。

教養教育は人間教育であり、人間と人間の触合いの中で成果のあがるものであって、知識の切り売りではありえない。したがって、画一的なカリキュラムを作って事が済む問題ではないだろう。(モンテーニュやエラスムスは、「教養科目」を履修したわけではない)。学者、教育者としてのキャリアが創り出した一つの人格としての教師と、これから新しい世界に旅立とうとする一つの人格の卵としての学生の触合いの中に、学生の人間的成長を刺激する何かが生まれる可能性を探求する場が教養教育であろう。したがって、教師の質と学生の内的欲求の結び合いが教養教育の質を決定する。形式的議論が不毛になる所以である。時間割編成上の問題をことの本質に関係させるべきでない事は、言うまでもあるまい。

必修か、選択か、に関して言えば、教養教育の本質からして、必修、特に年次指定の必修は無意味である。或る講義を履修できることを保証しようとすることも、ことの本質上必要のないことである(同じ名前の授業でも、教師によって内容は異なってしまうのだから)。したがってまた、授業当たりの受講生の数を機械的に均等にする努力も、必要のないことであり、かえって有害なことである。

ある学科の学生に対して、一定の科目を必修にする必要があるとすれば、それは専門(基礎)科目に入れるべきものであろう。例えば、物理学科では教養科目の「数学」を必修にしてきたが、これは本来、専門(基礎)科目に入れるべきものを必修にしただけのことで、旧大学設置基準の枠に合わせるための姑息な方策であった。物理学科の学生にとって、微積分学や線形代数が是非とも必要な基礎科目であるならば、それは専門(基礎)科目とすべきだ、ということである。

専門(基礎)科目と教養科目を明確に分離することによって、教養教育の理念が一層明確になり、教師に教える心構えを、学生に学ぶ心構えを、それぞれ自覚させることになるだろう。

教養科目としての「物理学」と、専門(基礎)科目としての「物理学」とは違うものであり得るのか、が一つの問題になろう。筆者はあり得ると思う。物理学の学習を通じて自然法則の意味とその現代社会との関連を学ぶ立場と、将来、物理学を道具として使う立場とは、明らかに異なる。前者に対しての「物理学」は、後者に対するそれとは違うべきである。もっとも、学生の好みに応じて、専門科目の「量子力学I」を文科系学部の学生が履修しても一向に差し支えはなく、教養科目の単位として認定する道は開かれているべきであろう。要は、学生がその学習を通じて何物かを獲得する機縁が得られればよいのだから。

われわれが用意できるのは、最大限の自由な選択の可能性を持ったカリキュラムを一つの理念に基づいて設定し、自ら努めて学生の人格形成の糧となりうる人格を教育の場に提供すること以外にないのではないか。どの様な理念に基づいて教育するのか、が大学の特色を出す。それが社会に受けいれられることによって、その大学の社会的存在意義が生まれる。既成の枠に囚われること無く、新しい大学制度の下で、より良い教養教育を創り上げるよう協力し合うために、教養の理念の確認から始めることが、我々にとって緊急の課題であろう。

最後に、教養は机上の空論や言説に現れるだけのものでなく、行動にも現れるものであることを注意しておきたい。教養教育の今後に既に多大の影響を及ぼしている、今回の大学改革の過程と結果に、われわれの教養が写し出されているのである。

今回の教養部解体・情報学部設置の再編過程では、カリキュラム、特に教養教育のそれが無視、ないし軽視されていたのではないだろうか。教育機関としての大学にとって最も大切な、カリキュラムとそれに伴う人員配置についての十分な議論がなされずに、再編計画が進行した。その結果、教養部教官が偏って再配分され、配分先の学部内でその偏りを解消するよう要請されている(十数年はかかるだろう)。学部内ではそれで解決したとしても、全学的にはアンバランスが残ってしまう。現在解決を迫られている諸問題、特に語学教育の危機の最大の原因はここにある。教養とは、知識であるよりは、より一層知恵に近いものであろう。われわれ、特にこの大学改革をリードした人達が、教養に裏付けられた知恵をもう少し出していたならば、と惜しまれる。そうすれば、出発点から雲行きの怪しい教養教育論議も、一層スム−ズに進めることが出来るであろうに、と愚痴の一つも言いたくなるのである。これからは、われわれの知恵を絞り出し合って、よりよい教養教育を企画し、実現すべく努力せねばなるまい。

 (『教養教育 ねっとわーく』8, 4, 1995)