18. 日本物理学会の社会的責任

静岡大学理学部公開講座「自然のしくみ−物理の世界」が、1993.9.11-12 に行われた。定員 50 名のところ 49 名の受講者が、講義、実験、実習に熱心に取り組んだ。近年の「物理離れ」を反映してか、受講申し込み者が少なく、募集期間を再々延長してやっと定員近くまで漕ぎつけたというのが実情である。それにしても、いわゆる「物理離れ」の原因は何であろうか。物理学に携わる我々が、個々に考えなければならないことは確かだが、物理学会として為すべきことはないのだろうか。

話は少し逸れるが、日本化学会は、毎年各支部毎に高校生向けの講習会を、各県単位で行うための予算措置を講じている。一昨年の上記公開講座は「ディスカバ−・ケミストリ−」であったが、このときは日本化学会東海支部が協賛の形で資金援助して、高校生に無料で受講してもらっている。この講習会が、同会の目的の一つである「化学に関する学術の進歩普及」を目指す活動と位置付けられていることは、明らかである。

わが日本物理学会は、1991 年 9 月に物理教育委員会を設けて、高校以上の物理教育、とくに大学教養課程におけるそれを検討し始めた*{1}。また、高校における物理教育についても、度々の指摘もあって*{2}、組織としての取り組みが為され始めたとのことである。日本物理教育学会との役割分担の問題もあると考えられるが、十分な相互理解の下に、改革の努力を進めて行ってほしい。

他方で最近、学会の「国際交流基金」についての問題が指摘された*{3}。赤字予算を組んでまで、国際交流のための資金を貯め込もうとしたとすると、どこかの国の総理大臣が、赤字国債を発行しながら、おらが国さの地方交付税などを水増しするとかいう話を思い出すのだが、‘公のものは俺のもの’という発想はなかなか抜けないもののようだ。本会の目的は、定款第二条に、物理学とその応用に関して

1.会員の研究報告を内外に発表すること

2.会員が一様に得られる研究上の便宜を図ること

とある。国際交流は2。の目的に適合するだろう。これらの目的を余り狭く解釈するのもどうかと思うから、国際交流資金をある程度貯めることは結構なことだが、現在の金額 1 億 2 千万円は妥当なものだろうか。また、その使途は適当だろうか。物理学会として為すべき他の事業とのバランスの問題である。

定款上の本会の目的が「物理学とその応用」の研究に限定されているにもかかわらず、学会における会員の活動領域がそれほど制約されてこなかったことは、物理学の性格からして当然の事ではある。上記「物理教育委員会」、「決議三」*{4}、「物理学者の社会的責任シンポジュウム」*{5}などは、その例である。現代は、科学を含むすべての人間活動が、人類の福祉の向上のためという制約を意識して為されねばならないことを当然とする時代である。自然科学の成果が、種々の面で人類の生活環境を整える方向に作用してきたとはいえ、他方で地球環境をこれだけ変化させていることを、真剣に考えなければならない。生存条件を脅かす原因となりつつある技術・科学の基本的性格を、より多くの人々に理解してもらうことが、これからの世界の進路の選択肢を増やす上で大切なことであろう。そのためには、できるだけ多くの人々に物理学(と、それを通して自然科学)を知ってもらうことが必要である*{6}。

筆者の狭い経験の枠内で考えると、大学に属する物理学者の多くは高校までの理科教育に対する理解が浅く、大学においても教育を研究の余技としか考えていない人が見受けられる。高等学校教科書の執筆者の多くは本会の会員であるし、大学入試問題の作成者はすべて会員であると思っていいだろう。日本物理学会の存在は大きい。「物理離れ」を真剣に受け止め、高等学校までの物理教育にたいして、なんらかの寄与をするために学会として取り組むことは、社会的な責任を果たすことになると思うがどうだろうか。

 

*注

(1) 物理教育委員会の最近の活動については、次の記事に簡潔な説明がある:中山正敏、『日本物理学会誌』 48 (1993) 209.

(2) 最近のものは、小島英夫、『日本物理学会誌』 47 (1992) 1002, 同誌 48 (1993) 462.それ以前のいくつかの記事はここに引用されている。また、後藤武生、同誌 48 (1993) 655 は、異なる観点からこの問題を取り上げている。

(3) 溝口 正、『日本物理学会誌』 48 (1993) 655.

(4) 「決議三」に関する小特集がある:『日本物理学会誌』 47 (1992) 731.

(5) 「物理学者の社会的責任」シンポジュウムは、1982 年以来、年会毎に開催され、その報告は会誌に載せられている。1992 年の報告は、『日本物理学会誌』 47 (1992) 914.

(6) この問題については、次の記事に鋭い指摘が為されている:阿部英太郎、『日本物理学会誌』 45 (1990) 283.

(『日本物理学会誌』49, 124, 1994)