10. 近眼遠眼

固体やプラズマと付き合っていると、クーロン力という遠達力で相互作用し合っている電子とイオンの示す現象の多様さに目を瞠らされ、探求心をそそられることが頻繁に起こる。昨今の新聞紙上を賑わしている常温核融合も昨年3月の新聞発表という異例の登場以来一年になるが、その本質は皆目見当がついていない。常識派は白い眼で見ているようだが、ロマン派の小生などは、これで身近な所に魅力的なテーマが見つかって物理学の為に良かったと思っている。30数年前に、神楽坂の三角校舎の窓のないゼミ室で、量子力学の世界の不思議に胸を震わせた記憶が蘇るのも、こういう問題に出会った時である。

それにしても、最近の高校教育において物理学の存在感が失われてしまったらしいのは驚きである。物理が嫌われ、物理を選択することが変人・奇人のレッテルになると聞いては、世の行く末が思いやられる(と考えるのは少しオーバーか?)。理工系へ進む者以外は物理を選択しないとか、物理を入試で選択しなかった学生が理学部でも70 % を超えるとかの嘆かわしい傾向は、これからも一層進むのだろうか。自然科学の基礎である物理学を高校では必修にせよ、というようなことを言うつもりはないが、上記のような現状になった責任の一半は物理学者にあるのではなかろうか。本当に学ばせる必要があると思うなら、受け入れ易い形で提供しなければなるまい。

明治維新から120年、物理学講習所設立から110年になろうとしている。維持員先生たちの問題意識と努力は、正に当時の日本の社会が要求することを充たす為に向けられたものだった。物理学校と理科大学が育てた人材は、教育界、産業界、学界において、今日の日本の技術・科学の発展に少なからぬ寄与をしてきたと言えよう。

それでは現在、われわれは何を目的に教育に携わるべきなのだろうか。心の無い計画経済が個人崇拝と官僚独裁に終わり、目の無い資本制生産が政官財の癒着と金力崇拝に終わりつつあるように、頭の無い手足が行き着く所は知れているというものだろう。

理工薬系私立大学の雄に成長した理科大学が、その定評ある“堅実な学風”に加えて、技術論・科学論・科学史の分野を補強し、その一環に“科学展示館”を位置付けるならば、現代の科学技術文明が抱える諸問題に正面から取り組む姿勢を整えることになると思うがどうだろうか。“実力はあるが付き合いにくい”という古いイメージは大方払拭されているようだが、21世紀の課題に応える理科大生像は、“幅と深みのある技術者・科学者・教育者”であって欲しいと思うのは私一人ではあるまい。

 (『理大サロン』4, 10, 1990)