8. 部風・学風

― 合気道部創部二十周年に際して

  旅をすることの楽しみの一つは、日常性からの脱却が旅をすることによりいくらか容易になることである。日常性を引きずってあるく団体旅行よりは二人旅が、さらには一人旅が魅力的である所以である。自らの第二の天性となった習慣が暗黙の前提としている慣れ合いの関係を脱ぎ捨てて、思索しながら行動し、行動しながら思索する場に入ることが、それまで無意識に前提としていた諸関係に眼を開かせる。異質の文化を持つ社会への旅が魅力的なわけである。

一つの文化をもつということは考えてみると不思議なことである。ニホンザルでは幸島の芋洗い行動や滋賀高原の温泉浴、チンパンジーでは草の茎や木の板をつかった蟻釣りなどが知られており、類人猿の群も文化と呼んでよい行動のパターンを持つと考えられるが、ヒトの社会のもつ文化の多様性は他の動物のものとの比較を絶している。時間的に過去へ遡り、空間的に地球を移動することによって人間文化の多様性に触れることのできる現代人は幸福だと言えるのかもしれない。

異なる文化に接したときに、それが刺激となるためには、自分が固有の文化を持っていなければならない。子どもが成長していく過程を考えれば、異質な刺激なしには精神の目覚めのないことがわかる。ギリシャや中国の古典文明が、あるいは近世以降のヨーロッパ文明が、小国乱立の混乱状態に生まれ成熟したことを思えばトインビー史観の意味も理解できる。

大学に学ぶことが一人の人間に対して持つ意味は非常に大きくありうる。大学が伝統に基づく一種の雰囲気をもつとき、感受性の豊かな青年がそこで精神的に震撼され、飛躍する。ある小説家が言っている。帝大に入学した効果は、「大学とはどんな所かを知ることができたことだけだ」。文学的な表現であるが、上に述べたことと同じ内容を言いたいのであろう。

国によって大学のあり方は異なり、大学によってその学風は異なる。一例を外国にとれば、筆者がかつて十ヶ月を過ごした USA中部の新興の州立大学(とは言っても1847年の創立である)がある。大谷のキャンパスの20倍位の敷地に、美術館や音楽堂を含む建物群があるが、その中にΞΗΘなどとギリシャ文字を看板にしたクラブハウスが点在する。多くは蔦のからまる赤レンガ造りの一戸建てで、河畔の緑の中に散らばり、そこの住人は Greek (ギリシャ人)とニックネームで呼ばれる。彼等は特権を意識した、自らの挙止に誇りと責任を持つ自他ともに許した紳士の集団(又は淑女の集団)である。自意識は過剰でも困るが全くないのはいただけない。

一つの大学が学風を持つように、一つのグループもその個性で特徴づけられる。個人の性格が形成されるのに時間がかかるように、人間集団の個性も長い時を経なければ定着しない。20年は短い時間ではないが、合気道部の個性と伝統はより多くの時と部員諸君の汗によって一層輝きを増すものである。

“より強く、より美しく”を目指して練習に励み、より良き部を、より良き大学を育て、後に続く者たちへの良きプレゼントができるよう意識的に行動しよう。

 (「合気道部創部二十周年記念誌」1987)