1. 夏の思い出

夏の思い出ときくと、あの尾瀬の歌を思い出すでしょうが、私の記憶に残る夏の日も、滴る汗にまみれて机に向かった風通しの悪い寮の一室での日々よりは、山や高原についてのものが多いのです。楽しかったことだけが残って、一層輝きを増すのは、記憶の生理現象なのでしょう。

光徳牧場(日光)へ新聞部の顧問教官につれられてキャンプに行ったのは、中学二年の時でした。満天に煌めく星の下、白樺の林の奥から流れてきた美しいソプラノの「故郷を離るる歌」。その余韻は今も胸に響いています。

敗戦で消滅した軍隊から父親たちが貰ってきた軍用テント(正方形のカンバス布で繋ぎ合わせてテントを張る)を各自のリュックザックに括りつけて、尾瀬から日光までの一週間の旅をしたのは、高校三年の夏休みでした。同級生と四人、倒れかけた裏男体の志津小屋で寒い一夜を過ごして男体山(2,484m)に登ると、参拝登山者の群に遭って、昨日までと違う世界に目をみはりました。

大学時代の夏には際立った想い出がありません。生活費のためのアルバイトと勉強に追われていた為でもあり、ツベルクリン反応の陽転で参加できなかった涸沢での夏山合宿の恨めしい想い出の為でもありましょう。弟と登った富士山(3776m)の人気のないお中道の、この山には珍しい豊かな植物群落と蟻地獄のような大沢のトラバースとが、僅かな残像の断片の中で光っています。

奨学金が大幅に増額された大学院の一年の夏には、時間的にも余裕ができました。後輩と二人で登った木曾駒ケ岳(2956m)の山頂に近い岩小屋での一夜が、鮮やかに蘇ります。頂上近くの雪渓の末端に、小さな駒飼いの池があります。駒ケ岳の名の起源となった白馬がそこで水を飲むと里人は考えたのでしょう。その池の畔に乱雑に積み重なった巨岩の間の隙間が、その夜のねぐらとなる岩小屋でした。夕食後、初秋の満月に誘われて山頂に立つと、北方の甲斐駒ケ岳のあたりに巨大な積乱雲が聳え立ち、稲妻が走るたびに王宮のシャンデリアのように眩しく輝くのでした。興奮に時のたつのも忘れて見とれていました。山頂の風の冷たさに追われて帰途につくと、密生した低いハイマツの隙間をたどる覚つかない足元を、黒い小さな影が素早く動いて足がすくみました。よく見ると、そこ、ここに数え切れないくらいの仔兎がいて、ハイマツの陰から陰へと跳びまわっているのです。岩小屋のシュラーフに入ってからも、光の饗宴につづく妖精のような仔兎の乱舞に胸の鼓動は収まらず、岩間を洩れる月光の歩みを見つめていました。四年後の元旦に、荒川岳の雪崩に逝ったこの友の笑顔が重なる想い出です。

それから幾十度かの夏が過ぎました。朝日連峰(北ア)はお花畑が綺麗でした。光岳(2591m)の頂上は樹木に囲まれてひっそりしていました。茶臼岳から12時間のながーい往復でした。重荷に喘いだ剣岳(2997m)の雪渓の登り降り。でも三の窓の夜景は、星のランプと富山の街の灯と聳え立つ岩壁とが掛け替えのない雰囲気をつくっています。滝谷の岩の脆いこと、一抱えもある岩がすっぽり抜け落ちますから気は抜けません。レニア山(Mt. Rainier, 4932m, USA)は 34本だかの氷河のある「世界一氷河の多い」白い峰です。噴火でもしたら大洪水が心配です。グランド・テトン(Grand Teton, 4196m, USA)は原住民が巨大な乳房とよんだ岩山です。あんなに鋭いフォルムを女性の胸になぞらえることのできる彼らの幸福!

若い日の体験は、胸の底の基音となっていつまでも響きつづけます。豊かな自然の懐に心の友と憩うことは、青春のみの持ちうる豪奢です。

(『静大だより』65, 4, 1981)

 

コメント

初版のこの項を読んだ高校時代の旧友立岡正夫くんからお手紙をいただき、尾瀬の旅は高校2年の時だった、とのご注意を受けました。1999年5月4日の同窓会で、その旅の仲間、内田、滝野瀬の両君を交えて話がはずみ、その時の三人の結論だそうです。3年の時というのは、私の記憶違いでしょう。