科学する心と常温核融合現象

小島英夫

 

1.知の基礎としての自然科学

日本で最初の私立の理科系高等教育機関である「東京物理学講習所」ができたのは、今から125年前の明治14年のことです。明治維新という日本の近代にとって最大の社会革命の中で、日本が健全な社会を形成するために最も必要なことは思考様式の革命だと感じた当時の自然科学者の卵たちが、心身を擲(なげう)って取り組んだ一大事業が、東京物理学校の創設の契機だったのです。[1]

その後身の東京理科大学125周年を祝う今年2006年は、6月にG8(主要先進国首脳会議)がロシアで開かれます。これは、1975年の第一回会議以来の加盟国である日本が、先進工業化社会のトップグループの一員であることを自他共に認めている証であり、国家としての日本が明治維新以後に、工業力、金融力、軍事力を順調に発展させてきたこと、世界の政治経済に関する重要事項に責任を持つ國に成長してきたことを示していると言えます。

125年前に物理学講習所を自前で設立し、自ら教師として講壇に立った少壮気鋭の理学士たちが目指した社会の近代化は、果たして達成されたと言ってよいのでしょうか。彼らが理学普及にかけた情熱は、単に産業立国の基礎としての理学の必要性を考えてのことだったのでしょうか。その多くが当時の士族の出身で、幼少期に江戸時代のエリート教育を受けてきた若き理学士たちが、近代科学に触れたときに感じた驚きと喜びの質を想像すると、彼らの情熱には、人生観あるいは思考枠の根本的な変革を伴った、科学的思考による社会革命という大きな夢があったことが推測されます。

したがって、国家レベルで達成された産業と政治制度の近代化は、明治維新直後に西欧文明に触れた先覚者たちが目指した日本社会の近代化という理想の実現の、序章にしか過ぎないと考えるべきなのではないでしょうか。

現在の日本の社会は、一面では西欧文明を消化して工業生産システムを取り入れることに成功しましたが、多面では125年前に先覚者たちが目指した、社会に合理的思考を根付かせることには必ずしも成功していないと思わずにいられません。

近代国家としての歴史が日本より100年以上も長いアメリカについても、同じようなことが言えるでしょうから、維新後140年しかたっていない日本が、西欧型の社会の長所を受け入れ、さらにそれを克服した理想社会に近づいていないと不満を持つのは、無いものねだりの最たるものなのかもしれません。

また、翻って考えると、西欧文明が必ずしも人間にとって理想の文明ではないことも明らかなのですから、日本の社会の現状認識にたって、真の理想の実現に向けて、新しい心構えに基づいて、先覚者たちの志を受け継いだ努力を実践しなければならないと思うのです。

世界のトップレベルに達したとされている日本の科学の先端でも、社会の成熟度の不十分さを測る事例には事欠きません。筆者が研究に携わっている常温核融合現象をめぐる科学者の対応(事実を知らず判断する)にもその例を見ることができます。

この現象の科学を説明すると共に、この現象をめぐる科学者(特に日米の)の対応を反面教師に、科学することが社会にとって不可欠な営みであることを訴えたいと思います。本来的に不完全で不安定な存在である人間にとって、よりよい社会を創るために必要なことは、英知を身につけることであり、科学することはその第一歩なのです。

 

2.常温核融合現象(CFP)とは

19893月の末から数ヶ月の間、新聞や科学雑誌の紙面を賑わした「常温核融合」発見のニュースを覚えている読者も多いことでしょう。しかし、その現象が辿ったその後の不幸な運命は知られていないと思われます。それは、CFPが学会での市民権を不当に剥奪されていることの結果です。この17年間の研究の推移と当初「常温核融合」と呼ばれた事象を含む常温核融合現象(CFP)の広がりが示す科学的・技術的可能性を説明します。

工業社会に不可欠なエネルギー源としての原子力に、核分裂と核融合反応を用いる二つの方式があること、核分裂反応を用いた原子力の平和利用は、放射性廃棄物の処理という未解決の難問を抱えているにもかかわらず、その利用が推進されざるを得ない状況にあることは周知の事実です。他方で、核融合反応を用いた原子力の平和利用は、膨大な予算を使った50年余の真剣な努力にもかかわらず、各国での成功の可能性が危ぶまれ、国際共同計画ITERという形で一本化して、これから50年をかけてその実現可能性を明らかにしようという、遠大な計画に結実しました。昨年、実験装置本体はEU主体に運営され、日本も主要な一翼を担うことが決りました。

近代文明がエネルギー源の枯渇という危機に遭遇している最中の1989年の3月に、「常温核融合」という名で発見が報じられた常温核融合現象CFP(Cold Fusion Phenomenon)は、エネルギー源としての可能な応用が予想されたために、かえって不幸なスタートを切ることになりました。その予想にからむ思惑は、その後の研究の展開に不幸な烙印を押してしまいました。現在もその影響は払拭されていません。科学とは無縁の、応用にからんだそのような夾雑物を取り除いて、CFPに含まれる諸事象を科学的に考察すると、そこには核物理学と固体物理学の中の未知の領域に関係した新しい科学が含まれていることが分かってきました。この章では、CFPを科学として扱うことを妨げていた事情を説明し、常温核融合現象の真の姿を明らかにします。

19893月に報じられた論文で、フライシュマンとポンズは莫大な過剰熱を主とする常温核融合現象を発見し、d-d 融合反応の起る確率がPdD合金中では、真空中に比べてとてつもなく(1050倍程度に)大きくなるという彼らの予想(フライシュマンの仮定)に基づいた解釈をつけて発表しました。殆ど同時に発表されたジョーンズたちの中性子のエネルギー・スペクトルの測定も、同じ仮定に基づいて計画され、解釈されたのです。

1989年から17年間に得られたCFPの実験データを、表1に要約しました。これらの事実は、フライシュマンの予想がCFPの基本的反応ではないことを示しています。

 

1: 母体固体、動作核、実験法、核反応の直接証拠と間接証拠、測定量の性質(蓄積型と散逸型)。過剰熱をQ、核変換をNTと略記。質量数4以下の核である重陽子dトリトンtヘリウム3 3Heヘリウム4 4Heの発生はそれぞれの核種の生成として、その他の、質量数が5以上の核種が生成される核変換Nuclear Transmutation, NT)と区別している。

母体固体

Pd, Ti, Ni, KCl + LiCl, ReBa2Cu3O7, NaxWO3, KD2PO4, TGS, SrCeaYbNBcOd

エージェント

n, d, p, 63Li, 103B, 3919K, 8537Rb, 8737Rb、(イオン・ビーム)

実験法

電気分解、気体放電、気体接触、(高圧放電、イオン・ビーム照射)

直接証拠

ガンマ線γ(ε), 中性子エネルギー・スペクトルn(ε), NT産物の空間分布NT(r), 核崩壊定数の短縮, 核分裂しきい値の減少

間接証拠

過剰熱Q, 中性子数Nn,系でのトリチウム量, 核変換NT(NTD, NTF, NTA), X線スペクトルX(ε)

蓄積型

NT核、系内の変換核量、密閉系内のトリチウム量とヘリウム量、

散逸型

過剰熱Q、中性子数、ヘリウム量、発生粒子のエネルギー・スペクトル

 

この表で、母体金属は水素同位体(軽水素Hと重水素D)を多量に吸蔵(吸収し、安定に維持)する性質をもつ金属/化合物で、代表的なものはfccおよびhcp型遷移金属、および陽子伝導体とよばれる化合物です。エージェントは、母体金属に加えたときCFPを起こす条件を実現する原子・粒子で、重水素D,軽水素H(軽水素でもCFPが起る!)、Li−6,K−39,Rb−86などの原子、および熱中性子n があります。

熱中性子の役割は単純でなく、確立していません。これは中性子自体が、単純には測定にかからない素粒子であるためでもあって、CFPの捉え方によって、研究者の間でもその役割の評価には意見が分かれています。しかし、熱中性子(とそれより少しエネルギーの高いエピ熱中性子)が存在しないところではCFPが起こらず、熱中性子を人為的に照射するとCFPが増幅されることから、熱中性子の存在はCFPの必要条件であると考えられます。

母体金属とエージェントからなる一種の複雑系では、核反応が起ると考えないと説明しようのない多様な事象が観測されます。その事象の全体をまとめて常温核融合現象(CFP)と呼ぶのですが、それらの事象は二つの観点から分類できます。一つは核反応との関係から、もう一つは測定との関係からです。

核反応との関係では、その事象に現れる物理量が核反応に直接関係するか、間接的に関係するかで、前者を核反応の直接証拠、後者を間接証拠と呼んでいます。

新しい核種の生成やガンマ線の発生は、核反応を直接的に示しており、新しい核種の空間的分布と時間的分布は、直接証拠の中でももっとも価値の高い情報を与えます。中性子のエネルギースペクトルも直接証拠と考えられます。

化学反応では説明できないほど大きな熱量の発生は間接証拠と言えます。中性子の総量も間接証拠に入れてよいでしょう。X線の発生は間接証拠です。

測定との関係では、事象に関係した物理量が蓄積型散逸型かによって、測定精度に大きな違いが出てきます。当然、蓄積型の物理量の測定精度の方が高いと言って良いでしょう。

蓄積型の物理量には、核変換によって生じた原子核(核種)と密閉系でのトリチウムやヘリウム4の総量が属します。

散逸型の物理量には、系内で発生した熱量、中性子量などが属します。一般に、散逸型の物理量の測定精度を上げるのは蓄積型に比べて難しいものです。

たとえば、核変換によって生じた核種の同定とその空間分布の測定は、散逸型の物理量である過剰熱やヘリウム量を正確に測定することに比べて容易です。

表には書き入れてありませんが、核変換生成物の空間分布などから、CFPの核反応は試料の表面(あるいは境界面)で起ると考えられことは、重要な特徴です。

 

フライシュマンの仮定が正しいかどうかは、いろいろな点で興味のある問題です。その一つは、フライシュマンの仮定が科学と社会に与えたインパクトで、この分野の研究に類稀な悪影響を与えました。

その科学的な影響は、主に核物理学にたいするものです。単純化して言うと、1フェルミ(10–15 m)程度の作用距離をもつ核力の作用に、10ナノメートル(10–9 m)程度の距離に存在する荷電粒子が影響を与えることになります。多くの識者が指摘しているように、このような現象が起るためには現代物理学の基礎原理から改変する必要があります。

社会的・技術的な影響は、主にエネルギー源に関係したものです。殆ど無限に存在する重水素がエネルギー源として容易に利用できることになりますから、エネルギー利用に一大革命をもたらすことになります。

この二つの要因が、個人的な(研究者による)および社会的な(諸組織による)CFPの評価を左右し、常温核融合現象研究を大きな社会問題にしました。

時代風潮も絡んで、CFPの研究者とその所属する組織は、フライシュマンの仮定が正しいことに大きなメリットを感じとり、その正しさを予測する傾向が強められました。逆に、プラズマ核融合の研究者たちが条件反射的に感じたことは寝耳に水の有りえない現象ということで、高エネルギー物理学の研究者たちも強い拒絶反応を示しました。

CFPの特性である次の二つの要因が、擁護派と批判派の間の主な論争点になりました。一つは定量的再現性で、他は理論的可能性です。

再現性に関しては、単純な不安定核の崩壊過程やd-d 反応でさえ確率法則に従うことを考えれば、複雑系でおこるCFPには単純な定量的再現性が存在しないことは明らかです。したがって、CFPでは確率的あるいは定性的再現性しかないと考えるのが常識だと思えるのですが、定量的再現性の有無だけが論じられてきたのが実情です。

理論的可能性に関しては、フライシュマンの仮定に捉われた論争が未だに行われています。次章で明らかにするように、この仮定が実験結果と矛盾することは最初の実験データがすでに明らかにしていたことであり、その後得られた実験データが示すCFPの多様な事象は、この仮定とはかけ離れているのです。ですから、科学すること本来の立場からは、全体のデータを総括的に説明する理論的枠組みを模索することが要求されます。

CFP研究の歴史の教訓は、世俗的な関心に惑わされてしまうと、科学者といえども科学する心を失ってしまうということです。科学する心が、科学研究においてだけでなく、日常生活においても大切なことを訴える意味で、CFPの発展期のエピソードは他山の石とすべき好例なのです。

 

3.常温核融合現象の科学

表1に示したCFPの諸事象の特性は、非常に複雑です。諸事象の全体を、複雑系で起る一つの現象の諸相であると考えるか、それぞれ違った原因で起るいくつかの互いに無関係な事象群と考えるかによって、CFPにたいする科学的態度は違ってきます。われわれは、前者の立場に立って、CFPを統一的に説明する理論を探求することにします。

このように複雑な現象を科学するときのアプローチの仕方の一つに、現象論あるいはモデル理論があります。実験事実に基づいたいくつかの仮定を骨組みとし、一つの可変パラメータを含むモデル(TNCFモデル)が考案されました[参考文献2 – 5]。 このモデルの基本は、荷電粒子間の核反応を考える代わりに、固体中に捕獲された準安定的な熱中性子を仮定し、それが核反応を媒介すると考えたことです。

このモデルを使うと、多様な実験事実が定性的に、あるいは半定量的に説明できます[2,3]。 特に、いくつかの事象が同時に観測された10例くらいの場合に、それらのデータの間の量的関係が一つのパラメータを決めることによって説明できることが分かりました。これは、モデルの有効性を示していると考えることができます。

そこで次の段階として、この有効性を示したモデルで仮定した、固体中に捕獲された準安定的な中性子の性質を量子力学的に探求することにしました[4,5]

そのような視点でCFPに関係する原子核と固体の性質を調べると、そこには次のような未知の領域が残っていて、CFPに深く関係していることが分かります。

まず、原子核のエネルギー準位の中で、中性子の束縛エネルギーが非常に小さい励起準位(evaporation levels)の性質には、未知の領域が広がっています。とくに、個別の核種についての研究は未開拓の状態にあります。次に、中性子数Nが陽子数Zを大幅に超える超多中性子核(exotic nuclei)が見つかり始めました。その例には、102He, 113Li, 3211Naがあり、中性子がはみ出した分布neutron haloができています。

他方、水素化遷移金属にも未知の領域が広がっています。その不思議な性質の一つには、結晶型による物性の違いがあります。bccfccおよびhcpとでは物性(拡散、振動)が全く違いますが、CFPも、fcchcp 型遷移金属(Ni, Ti, Pd) では起りますが、bcc型遷移金属(V, Nb) では起りません。さらに、陽子p と重陽子 d の波動関数が遷移金属によって違う特徴を持つことは、他の物性とCFPとに深く関係しているようです。[4,5]

当面の課題は、原子核と固体のこれらの性質を使って、CFPの諸事象を量子力学的に説明することです。その第一段階は最近のいくつかの論文に結実して、近著[4、5]にまとめられています。実験データを整理して発見した、CFPが複雑系の特徴を持つことを示す二つの法則性も説明してあります。

 

水素化遷移金属における素粒子と原子核との量子力学的状態は、次のようにまとめられます:(1fcc hcp 型の水素吸蔵性遷移金属の中では、陽子(重陽子)波動関数が拡がっていて、格子核(格子点にある原子核)の波動関数との重なりがある、(2)吸蔵された水素同位体を介して格子核間に核力相互作用(超核力相互作用)が生ずる、(3)超核力相互作用の結果、格子核の励起状態にある中性子が中性子バンド状態(固体内に拡がった波動関数をもつ)に移行する、(4)バンド状態の中性子が表面で高密度の中性子媒質(CF媒質)を形成する、(5)CF媒質中の中性子が格子核および表面の異種原子核と相互作用してCFPを引き起こす。

複雑系の量子力学的問題を正確に解くことは困難なので、以上の筋書きは定性的にしか基礎付けられていませんが、可能性は示せたと思っています。

このような筋書きにしたがってCFPが起るとすると、原子核物理学と固体物理学の境界領域における固体―核物理学とでも名づけられる学問領域を垣間見せてくれているのが常温核融合現象なのではないか、という期待が持てるのです。

事実を正確に求め、その事実に基づいて論理を展開し、得られた結論に従って意思決定をするという科学的思考を身につけることによって、理性を与えられた人間の特権を生活に生かすことが、健全な地球社会を維持するために人類に課せられた義務なのだと思われます。また、それが125年前に理学振興の熱意を持って結集した若き理学士たちの思いを継承する道でもありましょう。[1]

 

4.参考文献

1. 馬場練成、『物理学校―近代史の中の理科学生―』、中央公論新社、2006

2. 小島英夫、「常温核融合現象の発見」、大竹出版、東京、1997

3. H. Kozima, “Discovery of the Cold Fusion Phenomenon,” Ohtake Shuppan, Tokyo, 1998.

4. 小島英夫、「『常温核融合』を科学する」、工学社、2005

5. H.Kozima, “The Science of the Cold Fusion Phenomenon,” Elsevier, London (to be published in July, 2006).

 

(理大「科学フォーラム」投稿原稿)