序 文一新しい科学の創造に携わって

 

1989年の4月中旬に,当時ウィスコンシン大学の博士課程に在学していた田中努君(静岡大学理学研究科卒業生)から,ふたつの論文のコピーが送られてきた。それがフライシュマンーポンズ1)とジョーンズ達2)の論文のブレプリントだった。彼らが雑誌に投稿した論文の原稿がファクシミリで全米を駆け巡り,田中君の目にとまって,航空便で日本に送られてきたのである。

少部数のプレプリントが内輪に送られるのは普通の現象だが,その一年前に高温超伝導体の発見というセンセーションがあったとしても,この過熱ぶりは少し異常だった。すでに新聞報道で概略を知ってはいたか,論文か手に入ったときの興奮を昨日のことのように思い出す。

さっそくジョーンズ達の論文の再試(検証実験)にとりかかった。化学科の大江純男氏(電気化学者),放射化学研究施設の長谷川圀彦氏と菅沼英夫氏(放射化学者)に協力していただき,中性子サーベイメーターを借りてきて実験を始めた。幸い,前に何かに使った残りのパラジウム板が大江氏のところにあったので,厚さ0.3mmの板を5×5 cm2に切って,ジョーンズ達のサイズに近いものを用意した。重水は100cc 1万5000円で買った。電解質としては,これもジョーンズか推薦する重水酸化リチウムLiODの代わりに,手元にあった水酸化リチウムLiOHを入れた。手持ちの電源を使って,電圧20〜30 V, 電流〜200 mA (〜4 mA/cm2)で重水を電気分解すると,ジョーンズ達のデータと符節を合わせるように,電解を始めて数時間の問,バックグラウンド中性子(10分間に1,2個)の約二倍の中性子が検出された。

菅沼氏はケミアブ(Chemical Abstract)を調べて,1926−27年のパネツ達Paneth et al. の論文(第2章参照)を探し出し,コピーをとり寄せてくれた。

これが常温核融合と筆者とのかかわりの初めであった。

困ったことに,パラジウム板は1回8時間の電気分解でボコボコにふやけてしまい,大江氏の加熱による復元処理にもかかわらず,2度目からは中性子を発生しなくなってしまった。新規に買い込んだパラジウム板は,外見もこれまでのものとは違うし,実験しても上記のような中性子は出ない。中性子の量はバックグラウンドとまったく変わらなかった。

そうこうしているうちに,1992年秋の第3回常温核融合国際会議(ICCF3)が名占屋で開かれた。この会議は,1990年,第1回がアメリカのソルトレイク市,翌年第2回がイタリアのコモ市で聞かれた。前の二回は日本からの参加者が少なかったのか,くわしい情報が得られなかったが,この第3回国際会議に参加して,生まれつつある科学の胎動にふれる思いがした。当時80歳だった伏見康治氏が,レセプションで新しい科学への情熱的な期待を語られたが,その精神的若々しさに共感して胸が熱くなったのも懐かしい思い出である。核融合科学研究所(当時)の池上英雄氏の努力で短期間に編集発行されたこの会議の報告論文集“常温核融合のフロンティア(Frontiers of the Cold Fusion)’(参考文献4.国際会議報告論文集参照)は,常温核融合に関する情報の宝庫だった。

1989年に融合確率の計算を少しした経験から,常温核融合が起こるとしたら何か触媒的な働きをするものがあるにちがいない,と思っていた。1991年に,理化学研究所の仁科記念シンポジウム(故仁科芳雄博士の生誕100周年を記念して聞かれた)で,高温超伝導の解明には現象論からのアプローチが必要である,とソ連のギンズブルグ氏が語っていたことも思い出した。そこで,1993年12月に第4回常温核融合国際会議ICCF4がハワイのマウイ島で開かれるのを機会に,常温核融合の現象論を考えてみようと,腹案の段階だったが講演の申し込みをした。

9月初旬の原稿締切が近づくにつれ,頭のなかでは種々のデータが入り乱れ,たがいにくっつき合ったり離れたり,目まぐるしい動きをした。何か触媒的なものがあるはずだ,という思いがデータのまわりを駆けめぐった。1992年4月から6月にかけて,神岡鉱山の坑道深くの地下1000mの実験室で行われたバックグラウンド中性子のほとんどない状態での精密実験(Kamiokande experiment)が,常温核融合が起こることを明確に示す結果(正の結果)を出さなかった29)ことは,新聞で大きく報じられていた。この事実を思い出して,注意がバックグラウンド中性子に向いた(第10章参照)。バックグラウンド中性子のないところでは,常温核融合は起こらない!

さらに,常温核融合現象の再現性の悪さはかなり一般的であることに気がついた。否定論者の最大の論拠は,再現性の問題である。しかし,条件が決まれば結果かひとつに決まる決定過程と,条件か決まっても結果かいくつかあり得る確率過程とがこの世界には存在しているではないか。なんらかの確率過程に制御される条件の下で,バックグラウンドの低エネルギー中性子が,n-p反応で水素と,あるいはn-d反応で重水素と融合してトリガー(引き金)となると考えれば,再現性のわるさは当然のことである。

筆者が大学院生のときの指導教官は武藤俊之助教授であった。核物理学と物性物理学の両分野で研究成果をあげるという,日本では稀な学者だった先生の研究室のコロキュウムは,核と物性の研究者が入り交じって論文を紹合していた。両分野の論文紹合を聞きなから物性物理学に進んだ筆者も,物理学はひとつだということを自然に感得していたのだろう。常温核融合は固体-核物理学(Solid State-Nuclear Physics)だ,という言葉を耳にしながら,すんなりとこの分野に入っていったのだった。

とは言え,中性子物理学や核反応論を学び直していたのでは間に合わない。友人に声をかけ,知りあいを頼りにした。中性子物理学に関しては日本原子力研究所の佐々木健氏に,核反応に関しては東大原子核研究所の小池疋宏氏に助力をお願いした。また,筆者の属する物理学科の嘉規香織氏(核物理学)をはじめ,何人かの方々にも議論にのっていただき,研究の発展に協力してもらった。

視点を変えると今まで見えなかったものが見えてくることかあるように,捕獲中性子を触媒とする核融合の観点で実験データを眺めると,おもしろいようにナゾが解けていった。チタンでは熱が出ないという実験事実は,チタン中でのガンマ線(Y)の減衰距離が8cmと長いからではないか(パラジウムでは約2 cm)。熱-中性子異常は,中性子触媒機構で中性子の捕獲が強く起こる場合ではないか。発生機構を考えるのがむずかしかった4Heは,n-6Li反応やt-d反応で生ずると考えれば容易に説明できる。すると,n-d反応によって重水素で起こることは,-p反応を考えれば水素(軽水素)でも起こる可能性がある。当時はまだ疑いの目で見られていた軽水素での異常現象は,そのようにして起こる反応の結果てはないか。そして問題の再現性のわるさは,中性子捕獲の条件40)が確率的に形成されるからであろう。このモデルのカギを握る中性子捕獲機構として考えついたのは,溶質(水素あるいは重水素)の含有度の異なる領域の境界における中性子の全反射およびブラッグ反射だった。

1993年12月のハワイでの国際会議の講演会場で,カリフォルニアのグオカス氏Dr. Guokasが,イタリアのチェロフォリニ氏達の双核原子による中性子捕獲の実験結果はコジマのモデルと関係があるのではないか,と指摘してくれた。さらに,筆者の大学院生時代(1958年)に発見されたメスバウアー効果は,その中性子版として中性子メスバウアー効果をおこし,それが捕獲機構45)として非常に有望ではないかと気かついたのは,1994年の4月になってからだった。

1995年4月にモンテカルロで開かれた第5回国際会議(1CCF5)で発表する論文を構想しているうちに,固体中で規則的に配列したパラジウムなどの原子核(格子核)と中性子が相互作用して,中性子バンドをつくる可能性に気がついた。電解法ではほとんど不可欠とされる電解質のリチウムLiは,電解に際して陰極表面に析出してリチウム金属層をつくり,あるいはパラジウムやチタンとの合金層をつくって,表面の結晶構造を内部とは違ったものにする。この表面と内部の構造の違いは,そこでの中性子バンド構造に違いを生じさせる。このような構造か中性子の境界通過を妨げ,低エネルギー中性子の捕獲条件を形成するにちがいない。電解質としてリチウムが不可欠な理由は,このように理解されるだろう。同じアルカリ金属でも,カリウムKやナトリウムNaなどでは,パラジウムに侵入しにくく,表面に合金層ができにくいので,中性子捕獲の条件44・47)が形成されないらしい。

このように考えると,これまで注目されなかった低エネルギ一中性子の固体中での状態が,初めて顔を現わしたのが常温核融合現象である,ということになる。まさしく,固体‐核物理学の新展開である。

ジョーンズ達が初めから指摘し,多くの実験家が体験していた,常温核融合が不均質・非平衡な系で起こりやすいという事実は,その後,実験するとき意識的にパラメータを変動させると現象の再現性がよくなることが確認されるにおよんで,真理となった。上に述べた中性子捕獲の機構は,不均一に分布した物質の構造に依存しているので,不均質系で現象が起こりやすいという経験則を説明することができる。

捕獲機構か出そろったところで,次の疑問が前面に出てきた。中性子の寿命である。自由状態の(孤立した)中性子は,約900秒(987.4±1.7s)でベータ崩壊し,陽子と電子になってしまう。せっかく捕獲された中性子が900秒で消滅してしまったのでは,常温核融合への寄与は小さいのではないか?

この疑問にたいする答えは,1995年の暮れになってから仮説のかたちで理論に組み込まれた:固体中に捕獲された中性子は,その固体を構成する整列した原子核(格子核)と核力で相互作用している。重陽子の中の中性子が陽子と相互作用することによって安定に存在するように,固林中の捕獲中性子が格子核と核力で相互作用することによって安定化することもあり得るだろう。

この安定化を示す指標として,固体中の原子核の中性子親和力という概念を定義すると,これまでの実験事実を統一的に説明できることがわかったのは1996年になる直前だった(第11章)。

捕獲中性子触媒機構を基礎とするモデルかほぼ完成43’48’)したのは,したがって1996年の初めである。

これまでに得られていた膨大な実験事実のなかから,典型的で理論的に解明しやすいものを選んで解析する什事が胎まった。電解実験で得られていた過剰熱とヘリウム4Heの発生量との間の強い相関を解析すると,電解質として用いたLiのなかの同位元素6Liが熱中性子と融合してヘリウム4Heとトリチウムtになる反応が重要であることがわかった。これらの反応を考慮にいれ,核物理学のデータを使って解析を進めた。得られた結果は,予想通りすばらしいものだった(第10章)。常温核融合現象の種々のデータが矛盾なく説明され,さらに,これまで不明だったいくつかの点が明らかになった。

天然のリチウムに7.4%含まれる同位元素6Liは熱中性子との融合確率が高い(融合断面積か大きい)ので,捕獲された中性子と6Liが表面のPdLi合金層で融合して常温核融合の引き金(トリガー)になるのである。このトリガー反応で生ずる高エネルギーのヘリウム4Heとトリチウム核(トリトン)H(=)が,吸蔵された重水素との間に次々と反応(増殖反応)を起こす。こうして,最初に考えた単純な反応から,より現実に適応したトリガー反応と増殖反応の組み合わせへと,モデルは進化していった。

1996年10月初旬に第6回常温核融合国際会議(ICCF6)が北海道の洞爺湖畔のホテルで聞かれた67)(参考文献4.6)。これまでの実験事実を確認する多くのデータが発表され,さらに再現性を高める方法67’,67’)が確認された。その結果はTNCFモデルで見事に説明68-68’’’)された。また,1996年11月にワシントンD.C.(USA)で開かれたアメリカ原子力学会の会議(Meeting)では,バターソンのエネルギーセル(第7章参照)か展示され,研究用キットが3750ドルで発売され始めた。売れ行きは良好とのことであり,過剰熱の発生は手軽に検証できる段階に達した。

このようにして,捕獲中性子触媒機構モデル(TNCFモデル)は,これまでに得られている常温核融合現象のすべての実験事実を,定性的および半定量的に説明できることがわかった。さらに,いくつかの予測も可能である。残されているのは,このモデルの定量化とその基礎となる中性子親和力の理論的正当化48”,48’’’)である。複雑で多岐にわたる実験事実を手掛かりに,常温核融合の科学,すなわち固体-核物理学を創り上げるという希有の機会に出会い,その研究に微力を尽くしえたのは本当に幸せなことであった。

本書は,常温核融合発見のニュース以来,8年ちかくの間に蓄積された多種多様な実験データを紹合すると同時に,現段階での研究をTNCドモデルを中心にまとめたものである。もちろん,この分野の研究は,日々質的に向上し,量的に拡大しており,このような報告がそんなに永い命を持つわけではないが,ほぼ全容が明らかになった常温核融合現象に一つの区切りをつける意味はあるだろう。

簡単に実験事実を整理しておこう。固体‐核物理学の一現象としての常温核融合は,水素同位体を含む固体結晶で起こり,多量の熱と核反応生成物が発生する現象である。その現象を観測するには,(1)個々の核反応に直接起因する核反応生成物を,発生したときの状態で検出する方法と,(2)核反応の結果生じた核反応生成物が固体中で起こす2次的な効果を検出する方法とがある。

(1)の核反応生成物を発生時の形で検出する方法のうち、もっとも直接的なものは核反応によるガンマ線のエネルギーを測定するものであり,つぎにあいまいさの少ないのは中性子のエネルギーを測定するもので,この二つの方法は大きな成果をあげている。つぎに資料的価値が高いのは,核変換の結果として生まれた原子核(変換核)が試料中に分布する様子を調べたもので,いくつかの優れたデータが得られている。陽子,アルファ粒子および電子(あるいは陽電子)を直接検出する試みも行われているが,成功例は少ない。

2)の核反応の結果として生ずる二次的な効果を検出するものでは,過剰熱,トリチウムあるいはヘリウムの量を測定する方法が成功している。過剰熱は核反応の結果生じた核反応生成物のエネルギーが,固体を構成する原子や電子のエネルギーに転化した結果を測定する。トリチウムやヘリウムは,生成した段階でもっていたエネルギーを失って,系内で安定した状態になったときの量を測定することになる。ガンマ線の測定で陽電子消滅による0.511Mevのフォトンか観測されはじめた。この場合の陽電子は核反応で生じたものであるが,固体内の原子と相互作用し,電子と合体して消滅するときにフォトンが生まれるので,個別の核反応の結果を直接観測しているわけではなく,二次的な効果に分類できる。しかし,核反応の直接的証拠であり,価値か高い。

常温核融合の研究は,このような見取り図が描けるまでに進展したのであり,21世紀にはエネルギー源として実用化されることはほぼ確実だろう,

科学に関心を持つ人々が常温核融合についての正しい認識を持つことは,これからのエネルギー問題を考える選択肢を一つ増やすことになるだろう。物理学を志す若い人々が,ジャーナリスティックに書かれた本などの偏見に囚われて,新しい現象から目をそらすことのないことを願っている。虚心に実験事実を見つめ,論理の道を自由に歩んでいただきたい。

多少煩わしいと思われるかもしれないが,原著論文をA60)などの記号で表わし,巻末に‘引用文献’として(60)Aなどの形で番号順に掲げた(Aはおもに人名)。一般には見過ごされても結構だが,現象の存在自体を問題にしたい人も多い常温核融合現象なので,さらにくわしく調べてみたいと思われる方には,役に立つであろう。

なお,本文中で人名を引用するときには,日本人を含めて,姓をカタカナ書きし,括弧内にローマ字あるいは漢字表記を記した。敬称は省略させていただいた。

おわりに,偏見なく常温核融合に取り組み,筆者に多くの情報を提供してくれた化学者,物理学者諸氏に感謝したい。特に東京工業大学の岡本真実博士,大阪大学工学部の高橋亮人博士、日本原子力研究所の佐々木健博士、NTT基礎研究所の山口栄一博士、核融合科学研究所名誉教授の池上英雄博士,放射化学研究施設(静岡大学)の長谷川圀彦博士に感謝の念を捧げる。

また,原稿を読み,多くの貴重なアドバイスをくださった「山と渓谷社」編集部の山本美穂子氏に感謝する。

さらに原稿を読んで種々の意見を出してくれた研究室の卒業生,渡濠誠次君および大学院生の広江克彦,野村昌宏,太田雅之の諸君に感謝する。おかげで誤りが減り,若い人にも読みやすくなったことと思う。

 

  1996年12月

                             小島英夫