あとがき−パラダイムの転換期に

 

物理学を学ぶ目的は,おおまかに言って三つに分かれる。ひとつは物理学の研究を目指して,次に道具として物理学を使う科学者・技術者を目指して,そして第三により広く知的興味のために,学ぶと言えるだろう。

本書を書いた目的のひとつは,常温核融合という,非常に大切でありまたおもしろいが,評価の分かれている不思議な現象を素材にして,科学に関心をもつ人達に物理学のおもしろさを知ってもらうことである。大学の一般教養の「物理学」を何年か受け持ったことがあるが,講義をきいた文科系の多くの学生たちが、「物理学がこんなにいろんな分野に関係していて,想像力に富んだ学問だとは思わなかった」と感想文に書いている。これは,受験教育の悪影響をこうむった高校までの理科教育が,彼らの言う「公式を憶えて応用問題を解く」ことに堕落し,物理学が本来もっている知的探求心を満足させる面白さを喪失してしまったことの表明なのだろう。

科学は,なにかに使う目的のために学ぶだけのものに堕落してしまっているのだろうか。それは本来,知的興味から探求されるものではなかったのか。

常温核融合の研究に携わって,その混沌の中から事実の織りなす真理のストーリーを読み解く楽しさを味わうことができたのは,物理学を学ぶ者としてじつに僥倖に恵まれた思いである。そして同時に,この現象がスキャンダラスに取り扱われ,日陰に追いやられ,貴重な応用の可能性を遅らされていることに,一種の苛立たしさを感じるのである。

常温核融合をめぐる一場のドラマも,歴史的に見れば,とりわけめずらしいものではない,と言うことができる。パラダイムの転換期には,人間がトータルに姿を現わす。いくつかの例を手がかりに,ドラマの結びを考えてみたい。

近代の夜明けとなった,パラダイムの転換期ルネッサンスの先駆者エラスムスは、「痴愚神礼賛」を書いて堕落した中世の教会支配を批判し,人間性の解放を謳った。人間の営みには愚行はつきものである。また,それが人間生活に潤いをもたせる面もある。科学者も人であり,その例外ではありえない。私生活における愚行は言わずもがなだが,研究生活においてもしばしば過ちを犯すようだ。科学者たちの愚行は経済活動や政治活動で人間が犯す愚行に決してヒケをとらない。真理の探求者たるべき科学者たちの犯した過ちについて書かれた「真理を裏切るもの達」(W. Broad and N, Wade, Betrayers of the Truth”Simon and Shuster, New York, 1982)から,いくつかの有名な「裏切り」あるいは愚行の例を紹介してみよう。

まず,史上最高の科学者のひとりで,近代科学のパラダイムの創始者の一人であるニュートンの愚行の一例。ライプニッツとの微積分法の発明の優先権争いは有名だが,そこでニュートンがとった行動は陰湿だった。自分の優先権を公認させるために,彼が会長をしていたロンドンの王認協会(Royal Society)に判定委員会をつくらせ,彼の発明をライプニッツが剽窃したのだと裁定させたという(1712年)。ところが,実はその裁定文は,ニュートンが自分で書いたものだった。ライプニッツがニュートンとは独立に微積分法を発明したことは,現代の歴史家が一般に認めていることである。

次に,物理学を学んだ人なら名前を聞いたことが必ずある,現代科学のパラグイムのひとつの微視的自然観の形成に寄与したミリカンの例。ミリカンは霧箱(実験装置)を使って電荷素量(電子の電荷)を精密に測定した(1913年)。その当時、ライバルとの間で論争があったが,ミリカンは実験デ一タの中から自分の主張に都合のよいものだけを取りあげて研究を発表していたということが,のちに彼の実験ノートを調べた歴史家によって明らかにされた。

この例を「裏切り」と呼ぶのは,じつは単純すぎるのである。実験では,特にパイオニア的な場合には,すべての前提条件が明らかになってはいないから,多くの実験事実のなかから,現象の本質に根ざしたものだけを選び出すためには,科学者の感性に強く依存した主観的な選択がおこなわれる必然性がある。ミリカンがすべてのデータを混ぜあわせて平均をとるような頭の持ち主だったら,電子の電荷は決められなかったろう。常温核融合では,ミリカンの場合よりずっと複雑な現象で同じタイプの問題が現われているのである。

「真理を裏切るもの達」には,そのほかの多くの「裏切り」の例が紹介されている。さて,ほかならぬ常温核融合でも,発見者たちの性格をあげつらって,あたかも|発見」か捏造であるかのように受けとられるような書き方をした本が「スキャンダル」を表題に掲げて出版された。そして,一般の社会人だけでなく,物理学会に属する学者までが,その本を読んで判断を狂わされていた証拠がいくつかある。新聞報道か往々にしてセンセーショナルになりやすいように,科学ジャーナリズムも売らんかなの魂胆があからさまに出やすいようだ。商業主義(利潤を唯一の目的として商品生産をする行動パターン)が人間活動の種々の行動をゆがめているように,社会の福祉のために真理を探求する科学も商業主義によってゆがめられている姿が現われていたのが,『スキャンダル』騒動であった。

しかし,本書で明らかにしたように,常温核融合が起こることを示す実験結果は疑いようもない事実であり,物性‐核物理学が確立するのもそう遠いことではないだろう。そのとき,『スキャンダル』を表題にした本はいっときのスキャンダルだったという歴史事実として残るだろう。

他方,科学者を名のる人たちのなかにも,制約された条件のなかで非科学的な判断をせざるをえなかった人達が何人かいたようだ。「世紀の科学的ドタバタ劇」を書いたホイジンガはDOE報告の執筆者だというが,科学者の目を失った次のような文章を同書の結論で書いている。「私はそれに釣り合うだけの核反応生成物を伴わずに,何ワットもの過剰エネルギーを生み出すという常温核融合の主張は,とんでもない妄想であり,病める科学であると結論する。」

ホイジンガのこの結論は,過剰熱は直接反応によって生.ずると考えるミューオン触媒核融合の延長線上でしか頭を働かせていない貧弱な思考の結果であることが,読者にはすでにおわかりのことであろう。古い皮袋が新しい酒に適さないように,古いパラダイムに新しい事実を収めることはできないのである。

アメリカという国は,いろいろな点で偉大といっていい国である,,イギリス人の功利主義とドイツ人の完璧主義とフランス人の革命主義とスペイン人のロマン主義が入り交じって,状況に応じていろんな顔を見せる大国である。

原子爆弾を作り上げたマンハッタン計画にも驚くが,プラズマ核融合研究で大型プロジェクトを次つぎに中止していったプラグマチックな推移にも目をみはった。そして,常温核融合も,アッという間に見切りをつけてしまった。6ヵ月で最終結論を出すというところがアメリカらしい。最近までに明らかになった事実は,長い場合には1回の実験(l run)に6ヵ月もかかることがあるのだ。このような事実の裁定に6ヵ月で決着をつけようとは非科学的の極みである。

常温核融合研究が,商業主義の影響を受けて自由な情報交換を妨げられ,発展に不可欠な事実の入手が遅延ないし停滞しがちなことを,改めてここに記さなければならないのは,科学者として心の痛むことである。

事実のなかに真理を探し求めるのが科学的探求心である。自分の頭のなかの既成概念で事実を裁断し,その判断基準に合わないものは切り捨てるという非科学的なことを行ったのが,DOE報告の執筆者たちであった。(さすがにノーベル賞を受賞するだけの業績をあげた人だと思わせるのが,第1章で引用したラムゼイの意見である(DOE報告序文)。)

残念ながら,ホイジンガのような思考形態が日本にも見られたのである。物理学会の雑誌編集の際の判断が,ジャーナリズムの記事に影響された事実などを経験すると,科学が社会において有機的なはたらきをするということのむずかしさを痛感させられる。“参考資料”を参照されたい)。一般社会と同様に,物理学の世界でも情報の氾濫は例外ではない。情報洪水に流されずに正確な判断をすることがむずかしいにしても,二次情報を信じて,事実にたいする誤った判断をするようでは学者ではないだろう。研究における判断と同じ質の能力が,情報を読む際にも要求される。(その能力がないならば「判断てきない」と兜を脱ぐ方がましで,弊害も少ない)。

翻って考えると,現在の研究が頂末なことを追求するパターンに陥っていて,多くの研究者が自然をトータルかつ正確に捉えることができなくなっているのだろう。アカソフ(赤祖父俊一,アラスカ大学地球物理学研究所教授)は,「物理学,天体物理学,地球物理学の分野でのパラダイムの末期的症状の一つは,数理物理学者だけがその分野をわがものとすることである。多くの物理学者が指摘してきたように,これは根本になる物理的考察が忘れられてしまうからである。」(「パラダイム・創造性・科学革命」*)『自然』19833月号)と書いている。現代の数理物理学の一典型が素粒子や原子核の理論であることを踏まえて読むと,この言葉はまさに至言というべきであろう。

古いパラダイムのなかでの常温核融合の研究は,クーンの名づけた「通常科学」の枠内で行動しているにすぎないのだ(トーマス・クーン“The Structure of Scientific Revolutions”, 邦訳『科学革命の構造』)。ひとつの科学がつねに健全な状態にあるためには,つねに新しいパラダイムを創り出す営みが必要とされるようだ。

したがって,大学において,学問分野の特徴を無視して安易に研究論文の数で研究能力を判定していることは疑わしいことである。まして,その人の教育能力や行政能力までもそれで判断することは,あきらかに間遅っていると言わざるを得ない。もっと合理的に,それぞれの分野における能力を判断すべきなのだ。大学教官の選考が,研究業績,それも論文の数を主になされていたり,大学入学者の選抜が,記憶力競争のようなマークシート方式のペーパーテストの得点差で決められているのは,画一的に物事を判断する習性をもつ社会における,人びとの意識の反映だろう。より合理的な判断が行動を律する社会をつくるために、未来に向けて新しい教育体制を生み出すことが,われわれに課せられた緊急の課題である。

それぞれの場における価値判断を正確に行うことは,すべての行動の基本である。自然という,構造が最も単純で,そこで成り立つ法則も比較的よくわかっている対象を相手にして,客観的な事実から真理を見極める能力を育てることが,自然科学を学ぶ目的であるとも言える。すべての人が自然科学を学んで思考力と判断力を養い,地球の未来を考えてほしいと願うものである。

 

)アカソフのこの論文には、次のような含蓄に富んだ名言が散りばめられている。

「科学者自身は測定器具を備えたロボットではなく、<信号>と<雑音>のよりわけは科学者の主観による‐‐‐」

「古いパラダイムを分かち合う科学者のグループは、<非科学的>創造(と彼らが称する)新しい科学を批判するのに、---、創造作品の非厳密さをもって、決定的な欠陥があるという印象を与えることができる。」

「先駆的な論文は、定義と言ってもよいくらいに、厳密ではあり得ない。その厳密さを厳密にすることこそパラダイムの任務であり、パラダイムと通常科学の意義があるというものである。」

古いパラダイムの科学者は、新しいパラダイムの創造を、次のような形容詞をもって,迎える。空想的、無経験、無知、---、主観的、---、気の狂った、白痴的、---