第1章 はじめに一常温核融合研究の7年

1989年3月24日の朝日新聞朝刊は,“試験管内で核融合−「成功」と英で報道−”と,およそ次のように報じた。

『「試験管内で電気化学的反応により核融合を起こすことに米国と英国の二科学者が共同で成功した」と,23日付の英経済紙「ファイナンシャル・タイムズ」が報じた。‥・核融合は超高温,超高圧でしか起きず,何千億円もかけた巨大実験装置が必要とされている。もし,二科学者の成功が本物ならエネルギー問題の解決が早まる。』*)

) 記事の全文は以下の通りである。[ブリュッセル23日一友溝特派員]「試験管内で電気化学的反応により核融合を起こすことに米国と英国の二科学者が共同で成功した」と,23日付の英経済紙「ファイナンシャル・タイムズ」が報じた。英国の核融合研究者らは「信じ難い」としつつも,この二科学者が電気化学分野で成果を上げている人だけに「まじめに追試などに取り組みたい」との談話を同紙に寄せている。核融合は超高温,超高圧でしか起きず,何千億円もかけた巨大実験装置が必要とされている。もし,二科学者の成功が本物ならエネルギー問題の解決が早まる。二人の科学者は,英サウサンプトン大学のマルチン・フライシュマン教授(62)と米ユタ大学のスタン・ポンズ教授(46)。23日午後(日本時間24日午前),米国で記者会見して公表し,詳しい科学論文は5月に発表の予定という。

両博士の実験装置はパラジウムを陰電極,プラチナを陽電極とし,重水を満たした試験管内に浸した簡単なもの。両電極間に電流を流すと,重水中の重水素が大量にパラジウムに吸収され,電流のために互いに押しつけられて核融合か生じた。化学反応ではなくて核融合だと判断したのは,大量の熱か放出されるとともに,核融合の際に生ずるトリチウム,ニュートロン,ガンマ線が検出されたから,という。

同紙によると,発見をすでに知っていた英国原子力庁の核融合専門家は「電流による圧縮が核融合を起こすほど強力だとは信じられない」といい,カラム核融合研究所のM. ロマー所長は「今後数週間内に我々の実験所で再現実験できるよう最大限の努力をしたい」と語っている。

 

このニュースは,世界中の科学者やエネルギー関連の技術者の間に大きな反響を巻き起こした。というのは,1950年代から,将来のエネルギー需給の見通しについて各国の関心が高まり,21世紀前半からの産業用と民生用のエネルギーをいかに確保するかが緊急の課題となっていたからである。したがってそれ以来,新聞の紙面には「海水30キロ中の重水で石炭10トン分のエネルギー」(朝日新聞朝刊,1989年3月25日),「多量の熱,陰極も溶かす」(読売新聞朝刊,1989年4月7日)などと,ショッキングなタイトルが踊ったのである。

常温核融合はエネルギー問題の救世主となり,さまざまな難問は一挙に解決されるはずだった。ところが,実際はそうスムーズには進まなかった。常温核融合は最初の一年でその存在を疑われ,科学の世界からなかば追放され,研究にたいする経済的な支援をほとんど失ってしまった。ここで,常温核融合現象の研究が一時停滞した経緯を追ってみよう。

研究を推進する動きは,ユタ州を中心にアメリカ合衆国で盛んだった。フライシュマン達によって常温核融合の発見が公表されて4ヵ月後の1989年の8月,ユタ州(USA)はユタ大学に常温核融合研究所(National Cold Fusion Institute)を新設し,その主催により1990年3月29日〜31日,第1回常温核融合国際会議かソルトレイク市で開かれた。そこては,主として常温核融合を観測したグループの発表が行われた。参加者はアメリカを主に約300人,発表論文は38編であった。この時期、国立のロスアラモス研究所の何人かの研究者,いくつかの私立の研究施設などが真剣に研究に取り組み,実験的な成果をあげた。

一方,現象に懐疑的で,研究の厳密なチェックをしようとする動きでは,1989年4月に設立されたエネルギー省(DOE, USA)の常温核融合現象調査委員会(ノーベル賞受賞者をふくむ22人の科学者で構成された)が中心だった。かれらは、6ヵ月にわたる調査の末,11月に報告書をDOEに提出した(DOE報告書と略記)。その調査結果と勧告の要点は次の通りである。

 

DOE報告(参考文献6参照)

常温核融合現象調査委員会(DOE調査委員会と略記)の結論と勧告(要旨)

(結論)

 (1)電解槽の熱量測定で過剰熱が発生したことを結論したこれまでの実験結果から,常温核融合と呼ばれる現象に実用的なエネルギー源になる可能性があると考えることはできない。

 (2)核融合生成物の発生量が過剰熱発生につり合ったという報告はなく,これまでの実験は報告された異常発熱と原子核反応過程を関連づける証拠にならない。

 (3)多くの否定的な結果と,報告された統計的価値の低い肯定的な結果は,常温核融合と呼ばれる新しい原子核反応過程が発見されたと考える根拠にならない。

 (4)Pd, Tiなどの元素の存在によって重水素核の核融合の確率が大きくなるという仮定は,これまでに知られている固体中の重水素の行動を考えると,とうてい支持できない。

 (5)常温核融合と呼ばれる室温での核融合は,これまでに得られている原子核反応の知識と矛盾する。

 

(勧告)

 1)常温核融合と呼ばれる室温での現象の研究に,なんらかの特別な資金的援助をあたえることには反対である。

 (2)〜(6)現行の資金援助システムのなかで,より科学的な研究を持続させることに対する適当な助成をすることには反対しない。(筆者注:具体的な問題点をいくつかあげて,研究すべきテーマを例示している。

 

この結論と勧告は,当時の常温核融合研究の,今すぐにも核融合炉ができるような幻想を解消し,特許競争を巻き起こした異常な過熱状態を冷ますうえでは効果があったが、常温核融合研究を科学と認めないような風潮を広げたことで,その後の研究の社会的な評価にマイナスの判断を強いることになったのも事実である。

これらの経緯の後に,上記のユタ大学に設置された常温核融合研究所は1991年6月に閉鎖され,ポンズ博士も大学を去った。

このDOE報告書の影響はアメリカだけにとどまらず,世界中の常温核融合研究に多大な悪影響を与え,研究の進展を大幅に遅らせた。

なぜこんなことが起ったのだろうか?それは,常温核融合と呼ばれる現象が,これまでの固体物理学と核物理学の常識からまったくはずれたものであったからだ,と言ってよいだろう。

常温核融合現象は,水素同位体(H, D)を不均質に含んだ遷移金属(Pd, Ti)という非常に複雑な系が,天然の放射能(n, γ, e-)の存在する環境で起こる。複雑系の物理学であるカオスやフラクタルなどの現象が注目されているが、常温核融合にはそれらの現象が関与しているはずである。したがって,そこでどのような物理現象が起こるかを決定することは,簡単に解明できないのが当然なのである。

上記,DOE調査委員会の6ヵ月の調査はこの複雑さを見抜くことができず,常温核融合現象の発見を幻のものと結論してしまったのである。

DOE報告の結論(p.11)に現われている,その誤りを指摘してみよう。

まず,結論(1)は結論(2)‐(5)をふまえた総括であり,したがって(2)‐(5)が正しくなければ無意味である。

結論(2)で述べられている核融合生成物の発生量と過剰熱発生のつり合いの問題は,常温核融合の発見者たちを含む当時の科学者の大多数が仮定した,重水素と重水素が直接融合するd-d 反応を前提としたときにのみ意味がある。それ以外のメカニズムが働いているとすれば,この問題は現象の真偽とは無関係である。真理を探求する立場からは,ひとりの科学者の仮説が正しいかどうかは些末な問題であり,現象が起こったという事実を基礎に真の探求をするべきなのである。このような立場で常温核融合の実験事実を矛盾なく理解することが可能なことを,第10章と第11章で説明する。

結論(3)の根拠は,常温核融合現象の再現性が低いということに基づいている。しかし,現象の再現性は,その現象が起こる条件がどのように形成されるかによって決まるのであって,単純な物理現象からの類推で簡単に結論すべきではなかった。なぜ再現性が低いのか,どうすれば再現性を高めることかできるのかは,やはり第10章と第11章で説明する。

結論(4)は,発見者たちが下した解釈が妥当でなかったということを述べているにすぎず,真理とは直接の関係がないことである。調査委員会のメンバーがこのような初歩的な誤りをしたことが信じられない。その後の研究によって,PdやTiなどの固体中では種々の要素か組み合わさって複雑な現象が起こり得ることが明らかになってきた。科学にはこのような可能性はいつでもあるのが当然で,今になってみればだれにでもわかることである。調査委員会のメンバーは,なんらかの理由で自然科学が事実に立脚した学問であることを忘れていたのではないだろうか。

結論(5)も(4)と同様である。それまでの知識と矛盾する事実がすべて虚偽とされるのならば科学の進歩はなかったろうし,今後もあり得ない。新しい事実が既存の知識や理論体系と矛盾したときにパラダイムの転換か起こり,新しい科学が生まれることは,現代人にとっての常識に類することだ。

DOE報告の結論は非科学的思考に基づく一面的なものであった。しかし,その勧告は常温核融合の研究を阻害し,新しいエネルギーに関する科学技術の進歩を停滞させたのである。

だが,DOE調査委員会のメンバーのなかに,まともな科学者がまったくいなかったわけではなかったことを,アメリカの科学界のために説明しておく必要があるだろう。

 

ラムゼイの主張

調査委員会のメンバーのひとりで,1989年に高精度原子分光法の開発でノーベル物理学賞を(デルメルト,パウルと連名で)受賞したラムゼイ(N.F. Ramsey)の名誉のために、彼が書いたとされる上記のDOE報告の序文から一部を引用しよう。ここには科学的精神が明瞭に表明されている。

 

「……常温核融合に関する主張のすべてについて,確信をもってその真偽をはっきりさせるのはむずかしい。というのは,次のような理由からである。たとえば,信頼度の高い実験で常温核融合現象が見出されなかった場合でも,それはなんらかの未知の理由によって成功しなかったのだと考えれば,現象を反証することにはならないだろう。また,常温核融合現象を証明しようとする仮説が事実を説明できない場合にも,それは正しい前提や理論がまだ明らかになっていないからだと考えれば,現象を否定することにはならないだろう。常温核融合の場合,多くの矛盾する主張が存在しており,現時点では常温核融合があるという主張が完全に証明されたとか,あるいはそれがあますところなく反証されたとか,断定することはできない。……」

 

常温核融合の実験事実はこの8年ちかくの間に豊富に蓄積され,その存在は疑い得ない事実となっている。さまざまな物質において,核融合反応に伴うと考えざるをえない過剰熱,ヘリウム,トリチウム,中性子,ガンマ線,核変換(質量数の大きな原子核の変換)などが観測されている。それらの多様な効果を生みだす現象が非常に複雑なことが,常温核融合に否定的な報告を調査委員会に出させる根拠の一つとなった。

しかし本書を読めば,筆者の考えたひとつのモデルは,多様な実験事実のほとんどすべてを統一的に説明することができることがわかり,常温核融合現象を理解するひとつの強固な足場であることを理解していただけるだろう。

常温核融合現象の複雑さとはどのようなものなのか?これまでの科学の常識からどれくらい外れた現象なのか?このような疑問を解決しながら常温核融合の科学の不思議さを理解してもらう,というのか本書を書いた目的である。発見以来8年ちかくが経過し,最初はどんなに非常識で非現実的に見えた現象でも,実験事実が蓄積されてくるとそのなかから真理か浮びあがってくる。このようなナゾ解きのおもしろさを,読み進むにつれて味わっていただけるだろう。本書を読み終わったとき,常温核融合の物理一固体-核物理学―が皆さんの頭の中に形づくられているはずである。そして,常温核融合現象が事実であり,将来のエネルギー問題を解決する切り札であることが自ずから明らかになるだろう。

常温核融合をエネルギー源とするために必要な資源は,ニッケル,チタン,パラジウム,リチウムなどの地上に豊富にある金属と,それこそ無尽蔵に存在する水素と重水素なので,資源が枯渇する心配はない。また,小規模の施設で熱の発生ができるのでエネルギー源の分散が可能であり,産業構造の健全化が図れる。このようなすぐれたエネルギー源を手に入れることができ,それを賢明に使用するならば,人類の未来に立ち込める暗雲を吹き払う大きな可能性が生まれるだろう。幸いと言うべきか,DOE報告を受けたアメリカは国家的な取り組みを一時停止している。資源小国の日本は率先して21世紀のエネルギー開発にとり組むべきだし,実際に,1993年から通産省はNHEプロジェクト(新水素エネルギー実証研究プロジェクト)を立てて研究を進めている。これから数年間の取り組みが,国家的レベルでの研究の成否を決することになるだろう。

 

本書は以下のように構成されている。

第2章から第4章までは,原子核とその反応について解説した。これらのテーマに詳しい読者は,第5章からお読みになっていただきたい。

第5章から第9章では,これまでに明らかになった常温核融合の事実を説明した。常温核融合現象が,フライシュマン達を含む多数の科学者によっていっそう精密に研究され,多様な成果が得られていることがわかるだろう。

10章と第11章では,筆者の提唱した現象論的なモデル(TNCFモデル)によって,多様な現象を統一的に説明できることを示した。第10章では,1個のパラメータnn(捕獲中性子密度)の存在を仮定すると,実験事実をつかってnnを決定することができ,実験的に得られた数値の間の関係も説明できることを示す。このような理論は現象論的と呼ばれ(第11章1節参照),仮定をつかっているという制約はあるが,多くの実験事実が矛盾なく説明できることに注目していただきたい。第11章では,このTNCFモデルが前提(仮定)とする捕獲中性子の存在が,物理学の原理と矛盾しない(定性的に説明できる)ことを示す。

12章では,これまでに提唱されたおもな理論を簡単に紹介した。第13章では,筆者の出会った印象に残る科学者のプロフィールを描いて,別の面から常温核融合に親しんでもらおうと思う。

14章では,日本のエネルギー問題と常温核融合の研究体制を概観し,常温核融合現象の研究にたずさわって感じた科学と社会についての考察を記した。技術と科学に基礎をおいた高度工業化社会における人間の在りかたは,どのようでなければならないのだろうか。少なくとも,科学が社会の重要な要素であることを,常に意識していなければならないだろう。

「あとがき」と「参考資料」は,DOE報告とも関連して,科学の社会的ありかたにかかわる断面を示すものである。とくに科学に関心を寄せる社会人と科学者に,他山の石-Object Lesson -としていただけるだろう。

 

「常温核融合」という言葉について

第4章でも述べるように,核反応の一種である核融合は,核物理学で一定の意味をもっている。核反応とは,原子核にほかの粒子あるいは原子核が衝突したときに生ずる,粒子のエネルギー,あるいは運動量が変化する現象である。そのなかで,衝突した原子核と粒子(または原子核)が新しい1個の原子核になる反応を核融合という。本書で明らかになるように,常温核融合と呼ばれる現象では,この意味ての核融合のほかに,種々の核反応やイオンと電子の相互作用が起こっている。したがって,常温核融合という呼び方は不適当だという意見にはもっともな面がある。

しかし,それを固体内核反応と言い換えても,すべてを言い表わすことにはならない。それでは,常温核融合に関与していることが確実である固体内の粒子間相互作用や熱現象が抜け落ちてしまうだろう。したがって本書では,固体内で起こる,化学的ではない(原子の組み換え以外の)発熱と核反応生成物が生ずる現象とをまとめて,常温核融合と呼ぶことにする(さらに詳しくは,第5章の最後に反応式を使って説明する)。化学的な発熱が分離できない場合も当然起こるだろうが,概念的な区別は可能なはずである。初めにご理解いただきたい。