14章 日本のエネルギー問題と常温核融合研究

             科学と技術と教育

 

日本のエネルギー問題

現在,人類は,人口問題,環境問題,食糧問題,エネルギー問題と,たがいに関連し合いながらそれぞれ個々に解決を迫る難問を抱えている。なかでもエネルギー問題は,緊急に科学的な解決を迫られている問題である。よく知られているように,現在のエ業化社会で主として使われている,石油を代表とする化石燃料は明らかに有限であり,このままの割合で消費し続ければ21世紀の前半で枯渇することは必至の状況である,といわれる。現代文明の根幹を揺さぶりかねないこの見通しを,いかに回避するかがエネルギー問題の基本である。

予想される化石燃料の枯渇と地球温暖化,原子力発電の危険と未解決な放射性廃棄物処理,人口問題に直結した植物燃料の消費増大と環境破壊など,早急に解決すべき課題は大きく、深刻である。限られた空間と時間のなかで生きるためには,人間はもっと自己抑制をしていかなければならないはずである。だが,現代の人類が大量消費を是とした生きかたを変えるには時聞かかかるだろう。したがって,当面するエネルギー危機に対処するには,安全で豊富,低コストのエネルギー源の開発か緊急の課題である。

そのような現代世界のなかで,高度に工業化した資源小国の日本が特別な位置にあることを,改めて認識することが必要である。まず,日本のエネルギー問題を,「資源エネルギー年鑑」(資源エネルギー庁編,1995/96年版)で見てみよう。総合エネルギー調査会は第1回目の長期エネルギー需給見通しを含む「第1次答申」を1967年に提出した。(総合エネルギー調査会は「総合エネルギー調査会設置法」に基づいて設置された通商産業大臣の諮問機関である)。この「第1次答申」は,当時の低廉な石油購入によるエネルギー供給体制を基本とし,石油供給の低廉,安定,自由か重要課題であるとしている。

しかし,23年後の1990年6月に策定された長期エネルギー需給見通しは,新たに“地球環境問題への対応の必要性”という考え方を導入せざるをえなくなり,「答申」は,地球温暖化防止のための日本の取り組みの政策目標としての性格をも,併せもつことになった。

それ以来,環境問題を重視するこの傾向はいっそう強まることになる。1990年10月に「地球温暖化防止行動計画」が総合エネルギー調査会で決定され,1994年3月21日には国際的な「気候変動枠組条約」が発効した。これらの動きは,地球温暖化防止へ向けた取り組みを要求しており,省エネルギ一対策と新エネルギー開発導入策を含めて「2000年以降のひとり当たり二酸化炭素排出量を1990年レベルで安定化する」ことを義務づけている。

それでは,エネルギー消費と供給の見通しはどうなっているだろうか。「資源エネルギー年鑑」(‘95/96年版)によれば,2010年までのエネルギー消費の伸び率は年率1.8%であり,それを賄うための見通しが立てられている。その見通しによると,2010年度のエネルギー供給は総供給量(石油換算)が6.35億klであり,その内訳は表6のようになる。

 

 

表6:日本の1992年と2010年のエネルギー供給実績と予想(%)

年度

総供給量

石油

石炭

天然ガス

1992

5.41億kl

3.15億kl(58.2)

11.630万t(16.1)

4.07万t(10.6)

2010

6.35億kl

3.03億kl(47.7)

13.400万t(15.4)

5.80万t(12.8)

年度

原子力

水力

地熱(石油換算)

新エネルギー

1992

2,230kWh(10.0)

790億kWh(3.8)

5.5万kl(0.1)

670万kl(1.2)

2010

4,800kWh(16.9)

1050億kWh(3.7)

380万kl(0.6)

1910万kl(3.0)

 

この見通しからわかるように,省エネルギー対策を進めても総エネルギー需要は増えることが予想される。そして,環境保全の立場からは化石燃料への依存度を減少させなければならない。必然的に,原子力,水力,地熱および新エネルギー等(太陽光発t太陽熱利用,風力,海洋エネルギー,廃棄物発電など)への依存度が高くなる。そのなかで最も比重の商い原子力発電は,放射性廃棄物をどう処理するかが未解決であり,また,事故の際の放射能汚染についての大きなリスクを抱えている。

このような内容をもつエネルギー問題を解決するためには,放射性廃棄物問題を棚あげにし,かつ事故の際のリスクを覚悟した上で原子力発電に頼るという,人類にとっては不本意な選択をせざるをえなくなっている。現在,最も原子力への依存度の高いフランスでは総エネルギー供給短の37.2%,総発電量の73.6%を原子力に依存している。日本はフランスに次いで依存度が高く,それぞれ10.0 %, 282%である(1992年度)。(1996年度現在,後者は30%に達している。)

このような状況を知れば,第1章の最初に引用した新聞報道の意味がいっそうよく理解できるだろう。常温核融合の発見は,安価で危険度の少ないエネルギー源を新しくつくり出すことを可能とし,エネルギー問題を解決する救世主となるのである。

 

新水素エネルギー実証研究計画

1993年に,通産省の資源エネルギー庁が「新水素エネルギー実証計画」を発足させたのは,きわめて妥当な選択だった。この研究計画は1996年まで4年間に30億円あまりを投じ,エネルギー源としての常温核融合の有効性を実証しようとするものであった。

199611月現在,この計画の目的である,常温核融合がエネルギー源になりうることの実証には成功していないが,計画は1997年まで1年間延長されることになった。

常温核融合の複雑さを考えると,この計画が「実証」を目的として発足せざるをえなかったのは不幸だった。実証の前に現象の科学を探求する必要があったのだ。しかし,科学者が科学の目を失っていた状況を考えると,技術の先走りもやむを得ない選択であった。この研究計画の副次的研究として運営された「基礎研究1がかなりの成果をあげ,イタリア,ロシア,アメリカ,インドなどの研究に刺激を与えて,世界的な研究レベルの向上を支えるひとつの基盤となっていることも見逃せない。日本が本当の意味で技術大国になるというのは,このような方向で世界の科学技術を経済的に,また精神的に支えることを含むはずである。

とはいえ,常温核融合現象の複雑さを考えると,常温核融合が科学的に完全に解明されるにはまだ時間がかかるだろう。今世紀のはじめに発見されたいくつかの現象のうち,超伝導や超流動が物理的に説明されたのは1950年代だった。最近発見された高温超伝導はいまだ完全には理解されていないし,本題の常温核融合にいたっては,その現象の存在を疑う人が科学者の多数を占めている状態である。

本書を読まれた皆さんは,常温核融合現象が種々の試料で現実に起こっていることを,実験的なデータを通じてすでに理解しており,21世紀にはそれがエネルギー源として実用化されることを確信しておられることだろう。常温核融合は固体中の核反応という,新しい固体-核物理学の誕生を告知する現象だったのである。常温核融合に限らず,新しい科学や技術を生み出すには,事実に立脚した人間頭脳の想像力が必要とされる。人間の創造性を引き出すには,教育を中心とした社会的環境が重要であることは間違いないだろう。

したがって,日本を含めた,すでに高度に工業化した社会では,学校教育はこの課題に応えることを最重要目的として運営されるべきなのである。いかに個人の潜在能力を引き出し,育て上げるかが,教育の目的として常識化した社会でなければならないだろう。日本が高度工業化社会の延長上に未来を描く路線をとるかぎり,科学教會を柱とした,真・善・美の調和のとれた教育が不可欠な理由である。

 

現代科学の物質観

ここで科学の歴史を振り返ってその本質に思いをいたし,現代の科学のあり方を考えておくことは,科学者にとって,いやそれ以上に科学者以外の社会人にとって必要なことではないだろうか。また、それに関連して日本における理科教育の現状も考えてみよう。

レオナルド・ダ・ピンチの例にみられるように,本来科学は技術と一体のものとして,ひとりの人間によって同時に実践される形で生まれ,成長した。

生活の場に役立つものとしての技術と,知的探求心の成果としての科学とは,生活の場での実用的要求から知的刺激をうけて営む人間的活動のふたつの面であった。

技術の産業化とともに,科学は技術との距離を大きくしてきたが,19世紀末までは、微妙なバランスを保って自立的行動をとってきたと言えるだろう。しかし、それ以降の産業社会の成立は、技術の産業化と商業化をもたらし、科学という人間の知的活動の一形態をも産業社会のなかに完全に取り込んでしまった。

現代の科学は巨大化し,国家や企業に丸抱えされざるを得なくなっている。したがって,科学は技術と切り離されて技術に養われるか,それ自身が技術と化すかの宿命を負わされている。技術が滅びるとき科学も消滅する。科学は技術をリードしているかに見えるが、じつは技術に養われているのである。巨大科学とよばれる,宇宙科学,加速器科学などは,国家目的にあわせて保護育成されている。そこには,本来の科学精神は希薄で,ひとつの目的のもとに科学的探究心が動員されるのである。

科学が技術との間に健全な関係を回復するには,工業化社会のありかたを変える必要があるだろう。常温核融合は,地球上いたるところに良質なエネルギー源を分散させ,エネルギーの局在と全般的な不足の問題を解決することによって,工業化社会の変質を実現する技術を提供するだろう。そのためには,人間の精神的変革も必要である。

科学が社会の生産活動に深く結びつき,産業の一手段となったことが,常温核融合にスキャンダル性をあたえた大きな原因である。常温核融合がある段階からは特許をとることを主目的にして研究された結果が,発表当初からこの研究を運命づけた。フライシュマンとポンズの「記者会見」による常温核融合発見の報告は,そのひとつの現われである。その存在を否定したUSAエネルギー省の調査委員会の委員長であったホイジンガは,その著書「世紀の科学的ドタバタ劇」(The Scientific Fiasco of the Century)(邦訳[常温核融合の真実])で言う。[現在までのところ,常温核融合として知られている現象‐大量のエネルギ一が核融合反応過程によって電解櫓のなかで生み出されるという現象‐を支持するような確かな新データや情報があるとは思えない]。ここにもエネルギ一の発生だけに注目する,科学を道具としてしか考えない一例が見られる。

さらに,フライシュマンとポンズの実験を「再現」することができなかったことをもって「゙莫大な過剰熱が発生した」ことを否定した調査委員会は,非科学的な判断をし,また道具としか見ない考えに深く汚染された判断の好例を作った。確率が非常に低い現象ならば,二度目が容易に起こらないこともあり得るのは科学の常識である。

その後,この8年ちかくの間に,種々の工夫をこらして世界中で行われた実験によって,入力の2−3倍程度の過剰熱の発生はかなりの確率で起こせるようになってきている(定性的再現性の向上)。また,トリチウム,ヘリウム4,ガンマ線および中性子の発生が種々の物質で確かめられている。さらに,常温核融合が起こる試料において,種々の原子核が変換する現象(核変換)も頻繁に観測されている。

ファラデーが,彼の発見しだ電磁誘導現象を公開実験で大衆に示したときの会話が,伝説化して語り伝えられている。ひとりの実業家(貴族だともいわれる)が,科学者をバカにしたような調子で質問した。「ファラデーさん,この発見はいったいどんなことに役立つのですか」。それに対してファラデーは逆に尋ねた。「゙あなたは,生まれたばかりの赤ん坊が将来どんな人間になるかわかりますか」。

シュリーマンは,ホメロスを読んでトロイの物語が歴史的事実であることを確信した。少年の日の夢を追った,生涯にわたる努力の末に、彼はトロイの遺跡の発掘に成功し,まさに「夢を掘るりあてた人」となったのは有名な話である。しかし,当時の歴史研究のレベルの低さもあって,彼の行った発掘の乱暴さと性急な結論とは,後世に強く批判されているようだ。

科学を応用に結びつけないと満足しない現代の科学の宿命を避けて,謙虚に事実を眺めるならば,そしてまた,われわれの知らない多くの事実が物質科学にも残されていることを想像するならば,常温核融合として知られるようになった種々の実験事実を軽率に否定したり無視したりすることは,科学的態度とは相容れないことがわかるだろう。

 

技術と社会のかかわり

本質を知るには原初にさかのぼってみるのがよい方法であることが多い。鉄器を使いこなす技術を身につけたとき,人類はそれで母なる自然を自らの足下にふみつけ,仲間の首を切り,仲間に鎖をつけて奴隷にした。現代の技術・科学も,相互殺戮でたがいにわが身を傷つけ,過剰な自己増殖と環境破壊とで,母なる地球を死の淵に追い込んでいるのではないだろうか。

かぎりなき拡大を追求する道に終着点はない。技術・科学はこれまで拡大路線をひた走ってきた。未来を語るには,まずこのことを明確に認識して,技術・科学万能の幻想から醒めなければならないだろう。原初から人類がつとに意識していたように,知性は原罪であろう。そして,技術・科学はその純粋形である。技術・科学に象徴される自己拡大路線をコントロールするために知性を使うことが,現在緊急に求められているといえる。

自然にもたれかかった技術・科学の発展によって,自然と人間の関係は極度に悪くなっている。18世紀にはそれらは一体のものだった。それが今は跛行が進み,社会は立っていることもできなくなってしまったといえる。この状態を打開するためには,少なくとも人類がそのことを正視する必要がある。いたずらに先へ進もうとする,うちなる衝動にブレーキをかけなければならないだろう。人類は地球に相応しいものでなければならない。技術・科学は地球に相応しいものでなければならない。この青く輝く水の惑星「地球」丸の。

そのためには,何が必要なのだろうか?広い意味での教育が人間を変えることに期待せざるを得ないだろう。それでは,日本の社会でその主要部分をなす学校教育がどうなっているのかを,理科教育の面から検証して,今後に期待をするための方策を探る手がかりとしよう。ここでも,科学が応用と直結して捉えられざるを得ない現実が,教育を効率で測り,人間を生産の手段としか見ない傾向として,はっきりと現われていることがわかるだろう。

 

現代日本の理科教育

 1994年は日本の理科教育にとって画期的な年だった。

どのような意味で画期的であったのかというと,(1)日本物理学会が,応用物理学会および日本物理教育学会と連名で「理科教育の再生を訴える」共同声明を4月12日に発表したことと,(2)日本数学会が,日本数学教育学会,日本応用数学学会,数学教育学会と連名で,共同声明「数学教育の危機を訴える」を7月2日に発表したことである。*)

 

*)日本物理学会など3学会および日本数学会など4学会の声明1994年)

日本物理学会など3学会の共同声明は,次のように訴えている。

 (1)大幅に減少した小・中・高校の理科の授業時間の回復を

 (2)小学校低学年における理科の復活を

 (3)実験・観察を充分に行える環境の整備を

 (4)高等学校までのすべての生徒に国民的素養としての物理を含む科学教育を

 (5)科学を正しく理解し,広い視野とすぐれた判断力をもった小・中学校教員の養

  成を

 

他方,日本数学会など4学会の共同声明は,次のように訴えている。

 ()学校教育,とくに中学校における数学の充分な授業時間の確保を

 (2)ゆとりのある,楽しい数学教育で,すべての生徒に充分な数学的リテラシイを

 (3)小・中・高一貫した体系的カリキュラムの検討を

 (4)主体的学習による楽しい数学教育を,そのためにコンピュータの積極的活用を

 (5)生きた数学的センスを充分に備えた教員の養成・採用を

 (6)大学入試における数学の重視と改善を

 

  さらに,これらの声明の効果に満足できずそれを補強しようとするかのように, 物理関係3学会は中央教育審議会にたいする要望書を19951226日に提出 した。

  そのなかで,3学会は現代社会における自然科学の重要性を強調するとともに,とくに日本におけるその重要性を訴え,次の4項目を要求している。

 (1)国民がもつべき素養としての科学の教育を

 (2)体験に基づいた科学探求心を育てられる教育課程を

 (3)個々の生徒の能力を発揮させる教育条件の整備を

 (4)小学校から大学までを見通した教育を

 

数学と物理学という,科学と技術の基礎をなす学問の研究者を網羅するふたつの学会が,このような声明を出すに至ったことは,現在,なんらかの原因で日本の数学と理科の教育が非常に歪んだ,憂うべき状態にあることを示している。これらの声明や要望が出されるに至った歴史的状況は,198()年代までの日本経済の実態と1990年代に入って露呈した日本社会の構造欠陥に起因すると言えるだろう。しかし日本の科学界の問題としてみると,科学史家の指摘しているとおり,そこには歴史的社会的重層構造か顕れている。

物理教育に関していえば,大学入試問題などで,やたらに煩雑な数値計算や人為的に複雑にした現象を選んだ問題をつくって志望者を選別しようとしたことが,高校の物理教科書をしだいに分厚くかつ難解にし、「公式を暗記して応用問題を解くことが物理だ」という考えを高校生の間に一般化させた。そして,高校をはじめ小・中学校の理科教育を破壊してしまったのである。

この直接の原因は,安易に入試問題をつくったり,過剰な内容の高校の教科書を書いたりした物理学者にある。「物理離れ」といわれる現象の責任の大半が物理学者自身にあることを,はっきり自覚して,その原因をとり除かねばならないだろう。また,数学教育に関しても,同じような指摘ができるのではないだろうか。

 

日本の科学と技術

しかし他方で,明治以来の日本の教育の構造的な欠陥と,それに直接責任をもつ文部省を中心とする文部行政の責任を見過ごすことはできない。

日本の技術・科学が,先進国の発明や発見をいかに早く導入して消化し,すぐれた応用力と安い労働力で,使いやすい製品をいかに安くつくって輸出するか,「鋼鉄主義」となかば自嘲気味に呼ばれる焼き直し研究をいかに素早く行うか,などに特徴を示していたことは広く認められている。明治開国以来の官僚体制は,これらの面での成功をもたらすうえで非常に有効だった。

しかし,その反面には大きな落とし穴があったことも,謙虚に受け止めなければならない。最近でも特許使用料の貿易収支は大幅に赤字であり,これは日本の技術の特徴を示すひとつの指標であるし,物理学,化学分野のノーベル賞受賞者数の少なさは日本の科学の特徴を示すひとつの指標である。

1980年代になって,情報や環境が社会問題としてクローズアップされてきたとき大学に起こった現象は,日本の科学と大学の関係を象徴している。

おりからこの時期は,大学入学世代人口の一時的増加対策として立てられた入学定員の臨時増募(約10%)を解消する時期である199697年を目の前にしていた。また,1945年の敗戦の後に設立された新制大学のひとつの特徴である「教養部」の見直し(つまり廃止)が,中央教育審議会などで提言されている時期でもあった。このタイミングが生みだした新学部や新学科に,基礎科学を担う理学部でも「情報」や「゙環境」と名のつくものか非常に多いのは,科学の基礎が社会的に根づいていない現状を反映している。流行のキャッチフレーズをかぶせれば,あたかも内容まで変わるかのような錯覚を文部省や大蔵省がもっているかのような学部学科の再編か安易に行われたのである)

 

*)゛地方大学の改組にみられた不合理な学科編成の例

   極端な例だか,国立茨城大学と山ロ大学の理学部の場合は以ドの通りである。

  今まで,数学科,物理学科,化学科,生物学科,地球科学科の5学科をもっていた両大学の理学部は,それぞれ次の3学科に改組された(】995年4月発足)。

   茨城大学理学部:数理科学科,自然機能科学科,地球生命環境科学科

   山口大学理学部:数理科学科,自然情報科学科,化学・地球科学科

   これらの学科名を見てその内容を想像することのできる人か,はたして何人いるだろうか。茨城大学と山口大学の理学部ではこれら学科の特徴を出せるだけの

  人的,物的,組織的基盤を備えているのだろうか。

 

「情報」に関していうと,社会的需要に即応するかたちで工学部系の学科再編がなされ,そこに情報関連学科が新設されたことは,工学部の性格としてうなずける面もある。しかし,理学部における「情報」や「環境」関連学科については,場当たり的な,粗末な発想というしかない。

科学の応用が意識的にはかられるようになった19世紀後半以来,学問の進歩は年ごとに加速されてきており,最近の10年は20世紀初頭の3()年から40年に匹敵しようという勢いである。しかし,人間教育はそういうわけにはいかない。明治初期の「追いつき,追い越せ」時代ならばつめ込み教育も一定の成果をあげ,日本の工業化は成功したかに見える。しかし,その結果が底の浅いものであり,日本の技術・科学が社会に根をもった,自立できるものとなっていないことは,上に特許やノーベル賞の例をあげて説明した通りである。

同じ事実のもうひとつの面が,目先の現象にせっかちに対応して,安易に,大学の学科という研究・教育の基本単位を改廃してしまう上記のような発想に現われている。科学を生みだしたヨーロッパや,それを忠実に移植し,繁栄させているアメリカ合州国などの大学をみれば,基礎科学を担う理学部の組織を安易に変更するようなことをすべきでないことがはっきりしている。そのような基本的理念が欠如していることを明瞭に示すいくつかの例が,地方大学の教養部廃止に伴う改組劇にはみられたのである。

これをアメリカの州立大学と比較してみよう。アメリカの場合,州によって人口も異なり,州の独立性も強いので教育制度も一律ではないが,平均して各州立大学には理科系の学部(に相当する組織)があり,それらはいずれも博士課程までの大学院を備えている。日本の大学の学科に相当する組織としては,かなりの人員をもったデパートメントDepartmentがある。それらはたたがいに連携しながら独立して研究教育を担っている。

日本とアメリカの大学の規模の違いも問題なのだが,日本の各県にほぼひとつ以上ある国立大学の理学部について,そのかたちのうえでの比較をすると,次のようになる。日本の場合,地方国立大学の半数ちかくの大学には、固有の博士課程が存在しない。また,総合大学院というかたちで,理工系をまとめた形の大学院が新潟,神戸,岡山,熊本など7つの大学にできてからでも,10年位しか経っていない。日本の学科の構成と予算と人員は,アメリカとは比較にならないくらい貧弱である。先に述べた最近の改組劇にその有様は明白に現われている。

日本の大学院の貧弱さの一因は,卒業生の就職先が限られていることである。これは、日本とアメリカにおける大学と企業のレベルの質的違いを直接反映しているのであろう。日本とUSAの人口比がほぼ1:2, GNP比も1:2 くらいであるのに対して,理科系の大学生数の比は1:5くらいであり,日本の基礎科学の体制がいかに貧弱であるかを数的にはっきりと示している。これは,基礎科学の面で日本がまだ遅れている国であることの結果であり,逆に原因でもある。そして,最近の理学部改組の場当たり的性格の遠因であり、文教政策の貧困の原因でもある。

現在の日本が,100年前の明治初期と同じ意識で科学教育を考えていてすむわけはない。今,日本に求められているのは,独自の技術を創出することによって世界に貢献しながら生き,生かしてもらう道に踏み出すことであろう。そのためには,基礎科学が国民的素養になり,それが日常生活に活かされ,さらには政治的判断を合理的に行う基礎となることが必要である。近代科学は一朝一タにつくられたものではない。100年前に「後進国日本」として科学を学び始めたわれわれは,謙虚に科学の基礎を学ぶ姿勢を維持しながら,社会的成熟を図らねばならない段階にいまだにあることを忘れてはならないだろう。

常温核融合についての物理学者の反応にも,日本における科学の未成熟さが反映していると言わざるを得ない。自ら実験することなくジャーナリズムに頼って否定した態度にもそれが現われている(巻末の「参考資料」参照)。理科教育の貧困かこのような結果をもたらしたといったら,「風が吹けば桶星が儲かる」論理だと笑われるだろうか。もっとも,常温核融合問題では,アメリカ物理学会もノーベル物理学賞受賞者の故シュウィンガー(E. Schwinger)に愛想をつかされる偏狭さを示したので,アメリカの科学の未成熟さということもできるだろう。その点では,イタリアやロシアの科学的伝統はさすがである。

 

安定した地球生態系を目指して

近代科学が誕生したガリレイの時代から400年たって,本来の科学精神が薄れてきている。新しい現象が身近に起こる時代は遠い過去になり,研究は巨大科学を中心に現実と隔絶した実験室で行われている。身のまわりにはボタンを押すだけで動いたり,声をだしたり,絵を見せたりしてくれる装置があふれ,容易に人びとの欲求を満たしたり,剰激したりしている。

しかし,現実に人類が直面している諸問題は,食糧,水,エネルギー,人口,環境破壊など,どれをとっても簡単に解決できる問題ではない。自然の仕組みの複雑さを理解しようとすれば,その複雑さに対応する努力が必要なことは当然なのだ。しかし,世相は,そこから逃げて生きることができるかのような時代,安直に結論に直結できるような錯覚にふけることのできる時代,バ一チャルリアリティ(虚構現実)に閉じこもることのできる時代になっているようだ。この現実と意識の問のギャップは,なんらかのかたちで埋められなければならないだろう。どのようにして情報の欧水に溺れない知恵をもつかが,これからの最大の課題だろう。

先住アメリカ人の伝説に,「母なる大地を傷つけるな」というタブーがあるという。それは人類にとっての普遍的真理を表わしていないだろうか。しかし,人間社会の惰性は,今までたどってきた歴史を逆転させたり,急転換させることに抵抗する。としたら,われわれにできることはなんだろうか。

花見酒の経済ならば,人は容易にその限界を理解する。ひと儲けしようと一樽の酒を買い込んだふたりの江戸っ子が,たがいに金をやりとりしながらその酒を全部飲んでしまって元も子もなくしてしまったという落語である。地球大の経済では同じ真理になかなか気がつかない。個人の寿命と経済行為の寿命が逆転するからである。たとえば,50年の寿命をもつ人間は一日に起こる出来事を明瞭に理解できる。しかし100年単位で起こる出来事を理解できる人間はほとんどいない。また,自分の村や町の経済は理解できるが,国家予算となると雲のうえの事柄になってしまう。それが,元手を食い潰していることを意識せずに,自分の生きているうちさえよければ,自分の村に道さえできれば,なにをしてもよいという行動に人を駆り立てる。そして,技術・科学はその手段をあたえる。

舟を沈めないためには,水をかい出し,帆を繕い,魚をとるために協力するというのが遭難者の知恵だろう。「地球という惑星に乗り合わせた人類」という視点が,方向転換のきっかけをあたえることに,期待をかけることができるのではないだろうか。

捕獲中性子が触媒的にはだらく機構で説明されるような常温核融合を使えば,現段階で考えられているレベルのエネルギ一問題は解決するだろう。元になる中性子は空から降ってくる。水素は地上に豊富にある。ニッケルや鉄も地中に多量に存在する。これをうまく使えば,原子力発電のために放射能の危険を冒さなくても済む。火力発電で大気汚染をすすめなくてもよい。ダムで水系を乱さなくてもよい。すべてよいことずくめのように見える。

しかし,人間に目を向けると事はそう単純ではない。人類がより快適な生活の追求をやめられず,人口爆発を自己抑制できないかぎり,安価なエネルギー源の獲得はエネルギー消費の増大を招き,地球の自然破壊を終局にまで推し進めるだろう。自己抑制ができないときは,自然による強制によって人類は滅亡することになるかもしれない。それが母なる地球の不肖の子の運命と考えるのは,あまりにも悲観的すぎるだろう。

行くところまで行ってしまったと思われる,現代の人類のなすべき唯一の仕事は,地球丸の乗組員の意思を結集して人類のたどってきた路線の方向を変えることである。技術・科学のプラス面を使って少しでも人類の意思の統一が進めば,未来にはまだ希望はあるだろう。

そのためには,できるだけ多くの人か技術・科学の本質を理解し,その自己増殖し肥大化しようとする本性を地球丸の乗組員の枠の中に閉じ込めなければならない。教育の責任は重い。

先に日本の理科・科学教育の現状の憂うべき状態を紹介した。しかし,教育は理科・科学教育だけがすべてではない。数十億の人口があふれる地球という惑星で,人類が自己抑制しなから今までとは異なる新しい方向へ歩み始めるには,人間の自己および人間相互の質的コミュニケーションをいかに図るかが最大の問題である。技術・科学の発達を抑制し,かつそれを使いこなしなから,新しい地球社会を創造するのは困難な任務である。しかし,幾多の困難を潜りぬけてきた地上の生物たちの生命力には,計り知れない能力が秘められているようだ。ヒトにもそれは充分に備っているはずである。希望は一に,その能力の最高形態であるにちがいない,広い意味の教育という困難な営みにかかっていると考えざるをえない。